ほとけさまのおしえ「仏教の誤解(其の三)」
次に挙げられるのは、「なぜ法要を執り行なったり、お寺にお参りするのか?」ということです。
ある意味、仏教の誤解の「最も大きな部分」を占めていると言ってもいいでしょう。
お参りするからには、何か「ご利益」が欲しいものです。
「受験に合格する」とか、「商売が繁盛する」とか、「病気が治る」とかそういうご利益があるといいなと思う方も多いと思います。
でもこれは「ゴリヤク」ではなく「ゴリエキ」なのではないでしょうか?
つまり、自分にとって利益になることを願ってお参りしているということになります。
そして、その願いが叶うと喜びます。
でももし願いが「叶わなかったら」どう思うでしょう?
きっと神仏をありがたく思わなくなったり、お参りして「損した」と感じるのではないでしょうか?
実は真宗では、ご利益を願ってお参りすることは慎むべきであると考えます。
なので真宗のお寺には、「お守りやおみくじ」がありません。
もしご利益があるとするならばそれは「今このときに感謝し、阿弥陀様の願いの光に包まれて安心できる心持ちになれる」ということでしょうか?
今こうやって命がある事自体が実はとてつもなく「有り難い」ことなのです。
それに気づかずに、「もっともっと」と欲しがっている。
そのことに気づいて、心の中にある「煩悩の本質」を観ていくのが、お参りや法要の最も大切な部分であると感じていただけたら嬉しいのです。
これまで「仏教の誤解」を思うがままに記事にしてみました。
仏教への見方がちょっと変わったり、親しみを感じていただけたりしたら幸いです。
☆今日の一句☆
ありがたし
我が身あること
有り難し