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いつだって
短編小説のような人生で
いられたらなと思う
コマ送りの映画よりも
そっちの方がマイペースで
いくらか自分らしく
無理やりに
深呼吸をしなければいけない理由もない
歩幅や歩数に制限はないし
何時何分までに辿り着くことも
何時何分何秒の世界記録を意識することも
必要とされないから

例えばだけど
体の真ん中が洗濯機の丸窓だったなら
それが家であれ
コインランドリーであれ
見る人は独りだろう
でも興味深く
それでいて何も考えずに
食べ物と水が形を変えていく様子を見て
立ち去ったかと思えば
またやってきて覗く
見られている側としては
特別嫌な気もしないし
ずっと見られるでもなく
見られないでもないから
自分が存在していることを
一定の間隔で確認できる

例えばだけど
体中のホクロを数えるには
パートナーが必要だと
誰しもが考える
数える姿はお互い真剣そのもので
額から数え始めるのか
足元なのか
はたまた指先からなのか
首元やヘソの周りからなのかは
それぞれの事情によると思うけれど
「あれ?これってさっき数えたっけ?」
「知らないわ。私には見えないもの」
できれば数えるのは明るいうちがいい
数えるのは日が落ちてからというのは
理解はできるが合理的ではない
ホクロを数えることの合理性については
そもそも疑ってはいけない

例えばだけど
気候が暖かくなってきて
魚市場に出かけたとする
あれも美味しそう
これも美味しそうと言って
ぷにぷにと魚の腹を触りながら
四六時中愉しんだとする
そこにいる人間には分からないが
日常に魚っ気がない
その他大勢の人々にとっては
生臭さというものが気になって仕方がない
もちろん忌み嫌っているわけではないし
そうなることは百も承知
そうなることも含めて
市場でコンテンポラリーを愉しんだわけだ
はて日常に戻るためには
生臭さと決別するべきだと
偏った考え方に育った私は
トマスジュースで全身を洗い流したりして
目的を果たそうとした
でも結局は自然体が1番だと分かった
何もしなければ
3日や4日で臭いは消えるのに
3日や4日経った今
トマスジュースの臭いに
苛まれているのだから

いつも短編小説のような
人生であるように願っている
地続きの日常って
コルク栓をしたまんま
ふるふる振られ続けるシャンパンのよう
どこに向けても皆逃げ回るから
誰もいないところを探して
開けなければいけない
ショートストーリーで生活を区切って
ポンっ!
と栓を抜きながら
シュワっ!
と飛ばして自分でかぶる
現実にやったことはないけれど
目が痛いのは確からしい
それぐらいの代償なら
特に問題はないかと思います
人に迷惑をかけない範囲なら
オッケーだと思います

今のところサポートは考えていませんが、もしあった場合は、次の出版等、創作資金といったところでしょうか、、、