体育会系の思考様式を渡辺明九段から読み解く
私は前回、体育会系とアスリート系のメンタルの違いについて述べました。
これは選手の能力や巧拙を問わず生じます。
トッププレイヤーは、アスリート系の思考様式になる傾向がありはします。しかしながら、そうは言っても、トッププレイヤーが体育会系の思考になることもあるのです。
今回は、将棋のトッププレイヤー、渡辺明九段を事例として、読み解いていこうと思います。
将棋史上に残る超天才、渡辺明九段
渡辺明九段は、どこからどう見ても紛れのない、超トッププレイヤーです。
将棋史上に残る超天才棋士の中の一人です。
先月は紫綬褒章、今月は左膝靱帯で、ニュースになっていましたね。
ただ、私が今回述べたいのは、渡辺明九段が強いということではありません。
私が述べるまでもないぐらい強いですから。
渡辺明九段はどう述べたか
大事なのは、超天才・渡辺明九段がどう述べたかということです。
渡辺明九段はこう述べています。
部活止まりとプロレベル
上記の「昔の自分」とは、渡辺明竜王です。
天才少年は瞬く間に天才竜王になりましたから。
トッププレイヤーの中でトップになっていても、体育会系の思考様式にはなるのです。
では何故、アスリート系の思考様式になれたか。
将棋の才能のない息子さんのおかげなんですね。
チームスポーツのトッププレイヤーが体育会系の思考様式からアスリート系の思考様式に脱皮することが多い傾向は、ここから読み解けます。
チームスポーツのトッププレイヤーの場合には、かつてのチームメイトに思うところがあることが多くなってきます。
技術だけならあいつのほうが上手かった。
体力だけならあいつにはかなわなかった。
でも、あいつもあいつも部活止まりだった。
トッププレイヤーは、そんなチームメイトたちを見てきたからこそ、思考様式を変えるのです。
才能が天才ではない息子さんを見た渡辺明九段のようになるわけです。
体育会系の思考様式のままでいたなら、かつてのチームメイトを説明出来なくなってしまうから、思考様式を変えることになるのです。
「誰にでも出来る」と言えなくなる
トッププレイヤーたちは「誰にでも出来る」とは言えなくなります。
トッププレイヤーは超天才の中の一人ですから。
才能のない人間が超天才の真似をしたところで、辿り着けない境地にいるのですから。
超天才の普通は普通でないのです。
誰にでもは出来ないのです。
サッカーの大迫勇也選手のようなものです。
大迫半端無いって!
そんなん出来ひんやん普通!
ゆえに「誰にでも出来る」と言っているうちは、巧拙がどうであれ、自他の把握が出来ていないということになります。
他人は自分ではないのです。
それがわかればアスリート系の思考様式になれることであろうと思います。