小さな盗っ人【エッセイ】八〇〇字
Note仲間の、宮島ひできさんの作品『水鉄砲』を読んで、想い出した。似たような体験を過去に書いたことがあったのだ。
その話を宮島さんにコメントしたところ、遠路はるばる、昨年の3月8日まで遡って探してくれて読んでいただき、リクエストがあった。よってリメイクして、掲載することにしました。
宮島ひできさんの作品『水鉄砲』
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子どものころ、駄菓子屋は、どの子にとっても、ワンダーランド(そんな言葉はなかったが)だった。
生誕地の美瑛町美馬牛に、4歳までいたころ。駄菓子屋で、私はクジつきのガムを次々に捲り、口に放り込んでいた。すると母が、「マサぼー、なにやっているのー。一つだけって言ったっしょ(北海道弁で)」と。私は何故叱られているのか、分からなかった。「みんなハズレっしょ」と母が。私は、「『だってえ、また、どうぞ』って書いてあるよ」と、言って泣いた(そうだ)。
旭川近くの愛別にいたころで、小三だった。近くの町、比布(ピップエレキバンのCMで一時、有名)の父方の祖母が一人住む家に、預けられる(二つ違いの弟は、母の実家だったのか、私だけだった)。
父が「病ダレに寺の災難」で、入院しているとき。昭和35年当時なので、焼き火箸を入れ焼き切るとか(真偽は定かでない)。なので、母は完全看護で病室に泊まり込むという憂き目に、あいなった。
祖母は、かなりガサツな性格と、母から聞いていた。お萩は胃袋に入れば同じじゃ、ということで、茶碗にもち米を盛り、餡子をかけて食べさせられた、という。確かに、祖母の料理で、美味だったという記憶は、ない。
とはいえ、可愛い孫(だったと思う)。小さな町ではあるが、いろいろな場所に連れて行ってくれた。駅の裏あたりにプールがあり、泳いだ。ただ、濁った水だったが。祖母の取柄は歌が上手なことだったようで、浪曲をうたった。劇場にも連れて行ってくれるのだが、子どもにはただ眠たいだけ。終わるまで、横で眠っていた。
粗忽な祖母のおかげで、茶箪笥の引出しには、釣銭の小銭がたくさん入っていた。子どもにとっては、千両箱。よく駄菓子代をくすねて、駄菓子屋に走った。
わが菊地家の嫡流嫡男になる、八歳違いの従兄も、小学のころ祖母と暮らしたらしく、同じ罪を犯していた。が、彼は、「ばあさんは、気づいていたよ。意外に」と、教えてくれた。