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母の昭和史【エッセイ】八〇〇字

 きょうは真珠湾攻撃から、80年。その年の松の内があけて間もなく、戦争反対を強く訴え続けた巨人がひとり逝った。半藤一利、そのひとである。
 最近、半藤の『B面昭和史』を再度手にする。「政治・経済・軍事・外交といった表舞台」のA面に対して、B面は、裏舞台の「民草の生きるつつましやかな日々」を意味し、元年から終戦までを書いている。
 完読後、ふと、母を想い描いた。
 母は、北海道・滝川で生まれ育ったが、19歳から開戦前後の2年、養女になることを前提に、東京で会社を営む、遠縁の家にいた。会社は浜松町にあり仕事帰りに銀ブラも楽しみ、束の間の青春を謳歌したようだ。東京に残りたかったと、よく話をしていた。が、戦争が激化し、実家に戻らざるをえなかった、ようだ。
 戦後まもなく、親戚の強い勧めで、海軍の軍人だった父と、見合い結婚する。それが、不幸の始まりだった。乱暴な父に、実家に帰るだけでも、母は暴力を受けた。だから、外出することはほとんどなかった。その後、難病を患い、入退院を繰りかえす。
 最期は、私が住む東京に一度も訪れることなく、劇症肝炎を患い、50歳で、逝ってしまった。病院のベッドの周りには、長女のハルヱ伯母さんを始め姉妹が4人と私が母を看取った。が、仕合わせだったのだろうか。
 もし、戦争がなければ、母は東京で誰かと結婚し、好きな東京で、自由に生きられたかもしれない。滝川は、内地や他の道内ほど、空襲の被害はなかったらしいが、「民草」として、戦争に人生を狂わされた、ひとりと思う。もっとも、戦争がなかったら、この私は存在しないという皮肉なことになるけれども。
 母の生まれは大正12年。ことし墜ちた巨星、瀬戸内寂聴よりも1年後。生きていれば、98歳。まったく無理な話ではない。


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