青春の一ページ(全2回 その1)“政治少年死す”【エッセイ】一二〇〇字
(その2のタイトルは、「爆弾」。来週の水か土にアップ予定です)
「菊地、『嗚呼』の意味がわかっているのか?」と、担任に言われる。卒業メッセージで、その2字だけを書いたのだった。
高校時代は、挫折の連続だった。野球部を1年途中でやめ、2年の年末に結核判定が出て、半年間入院することになる。1年留年し、1歳下のものと卒業した。大学には行く気がなく、野球部のあとに入った演劇部の延長に、俳優座養成所があった。だが、卒業前に、桐朋学園の演劇専攻に変わっていた。千田是也、安部公房、田中千禾夫などが教員をやっていた。しかし、学費は高額で、親には言いづらく、表向き、大学に進学するということにしていた。
そんな状態だったので、受験勉強に身が入るわけがなく、案の定、1浪の生活に入る。親には申し訳なかったが、札幌で下宿することに。その札幌でのこと、である。
もう「時効」だろう。なので、白状しよう。
70年安保の年。予備校に通いながら、大江健三郎の禁断の作品『政治少年死す』を、自費出版しようと活動していた。作品は、61年、「文学界」2月号に掲載された。が、右翼の抗議を受けて次号で謝罪し、封印されることになる(57年間も)。前年の浅沼委員長刺殺事件の犯人、17歳の山口二矢(おとや)をモデルにした、小説だ。
北大に入った同期Tの兄が、掲載誌を持っていることを知り、Tに協力をもちかけた。私は決して政治的人間ではなかった。ベ平連のデモに時々参加する程度。が、その時代の切迫感だけは感じていた。一方Tは、北大の革マル派の拠点、恵迪寮にいた。彼は自ずと活動家として学生生活を、すごすことになる。
そんな硬派の「出版活動」をしているかと思えば、夜にはゴーゴークラブにも出入りする軟派の側面もあった。といっても女遊びに狂ったというほどでもなく。ブックマッチを親指1本で点けてウエイターを呼ぶとか、ファッションだった。
一度だけ、デパートの化粧品コーナーで働く5歳くらい年上のひとと、寸前のところまでいった。が、終った。親の顔が浮かんだと言えば聞こえはいいが、単に勇気がなかっただけ、だった。
反して、「出版活動」のほうは順調に進んだ。出版といっても、タイプライターを自分で打ち、製本だけを本職に頼んだ。作品の文字数は、6万字。写植するように、ガシャンコガシャンコと1字1字を打つ。要した時間は記憶にないが、受験前には完成していた。
Tは札幌、私は受験地東京で売った。右翼に見つかったら刺される、とビクつきながら。友人の大学寮などに潜りこみ、売りまくった。1冊500円。当時としては安くはないが、富を得た、というほどではない。
その後、Tは挫折し北大を去り、札幌医大を受けなおし、今、医者になっている。
私といえば、結局2浪を経験。が、その活動が、後の人生の糧になっている(たぶん)。
この70年、11月25日。三島由紀夫は、いま私が住む住居の近く市谷本村町の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地(現防衛省)で、割腹した。
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