青春の一ページ(全2回 その2)「爆弾」【エッセイ】一〇〇〇字
『政治少年死す』を売り歩き、至極当然に、二浪とあいなる。親は、よく許してくれた。いまでも、感謝している(遅いけど)。
東村山。西武新宿線小平駅から、小平霊園を過ぎたところに、いまにも倒れそうなアパートに、二歳違いの弟と住むことになる。弟は、大学には進まず、アパート近くの測量学校に入学。
爆弾を背負った覚悟で、人生で一番の勉強量だったと思う。弟の賄いつきで。たぶん母が、「お兄ちゃん、今度は決めないとね。崇之、応援してね」と言ったのだろう。
予備校は、早稲田ゼミナール。なんと、いま、(お世話になっている)オープンカレッジの本部になっている。これも運命を感じる。
小平と早稲田を往復する毎日。むろん、当時流行っていたゴーゴークラブなんて無縁の生活をおくった。夜は、旺文社の「ラジオ講座」。ブラームスの軽快な『大学祝典序曲』で始まる。勉強のリズムをつくる上で役立った。
(部屋には冷蔵庫などないので)弟は、学校帰りに毎日食材を調達。鍋でご飯を炊き、それなりのおかずを作ってくれた。
弟の料理で、びっくりしたのが「絹豆腐の納豆かけ」。自宅で出たことはないので、どこで知ったのか。後に知る。高校時代、先輩と飲酒していて、呑み屋で食べたらしい
が、ついに切れた。
「兄貴はさ。何も作らないで食べるだけ。いい気なもんだ」
そのあと、口論になり、持っていたレタスをそのまま、食卓(といっても板を段ボールに乗せたもの)にいる私の、脳天に振り落としてきた。レタス爆弾が破裂。が、一番大きな葉が頭に被さった。その姿、想像できるだろうか。カッパそのもの。ちなみに彼は、陸上部で砲丸や円盤を投げていたのだった。
‘71年7月30日。暑い日だった。ラジオからニュースが流れた。岩手県雫石町上空を飛行中の全日空が墜落したようだ、との。旅客機と戦闘機が衝突し、双方とも墜落したのだった。
その後は、ケンカすることもなく、平和な時が過ぎた。あのレタス爆弾事件以降、私も反省し、ご飯だけは炊くようになった。
そして、春、掲示板の番号を確認する。
ちなみに、弟は、伯父の司法書士事務所を引き継ぎ、測量会社に変えて代表を務めている。