ウォーキング小景 ―神楽坂篇「花街」―【エッセイ】二四〇〇字
「〝アタシ〟帰るから、キクちゃん。食器洗って帰ってね~。シャッターを下ろすだけでいいよ~」と、われわれを置いて、マスターは出て行ってしまった。
画像:赤城神社参道(左手「珈琲」の看板がある店が今回の舞台)
神楽坂・赤城神社の参道入口付近、ビルの地下に、35年前から7、8年利用したカラオケパブがあった。神田猿楽町の翻訳教育会社にいた36歳のとき、店近くに音楽友之社があり、「音楽の友」への広告出稿のことで訪れた帰りに寄ったのが、最初だった。広報企画の部下と、『翻訳の世界』という雑誌の編集長、円山と部員、計8名くらいが飲み仲間だった(いまの若いもんと違って呑みには、喜んでついてきた)。
画像:カラオケパブがあった地下入口
画像:音楽之友社(右手前)
いまもウォーキングでたまに出かける、自宅から歩いて3200歩の場所。神楽坂は、いまや観光スポットだけあって、人気の店とか、歴史を感じさせる素敵な場所が多いのだが、地名からも坂が多い。アップダウンがあるので、普段は、敬遠している。
仕事は、通常は最終電車に間に合う時間までやっていたから、呑むとなると早くて8時。地下鉄東西線の駅には近いので、飯田橋か高田馬場から東と西方面の「国電」に乗り換えて帰っていた(「国電」の呼称、最後の年。※)。しかし、その日は違った。始発電車覚悟で、「ある話題」で盛り上がっていた。私が韓国・済州島への広告代理店の接待旅行から戻って間もなくで、その「報告会」いや、「質問会」がメインテーマだったのだ。
当時も、月に1、2回は行っていたと思うが、常連というほどでもなく、我々を信頼してくれたということだろうか(ま、素性も知られ、名刺も渡しているわけだし、逃げられないけどね)。
※翌年、いわゆる国鉄の分割民営化が行われた。因みに、「国電」から「E電」に呼称を変更しようとしたが人気なく、いつの間にか消滅。自然発生的に「JR」が使われるようになる。
当時、1980年代までの神楽坂は、いまのような洒落た店はほとんどなく、昭和な雰囲気プンプンの「夜の街」だった。本通りの坂道から脇道に入ればすぐに住宅地。ネオン賑やかな歌舞伎町とは異なり風情がある。「花街」の歴史を感じさせる、街だった。
江戸時代。公式の「遊郭」は吉原にあったが、非公式の遊郭は「岡場所」と呼ばれていて、ランドマーク・善國寺周辺は、岡場所として栄えていたようだ。明治以降、「花街」として発展した。
その雰囲気を残すのが「芸者新道」。「ロクハチ通り」も呼ばれていた。料亭の1回目の開始が後6時で、2回目が8時からだったことに由来するらしい。
画像:芸者新道
画像:見番(芸者の詰所)
※三味線の音も聴こえることも
画像:芸者小道
※旅館「和可菜」
多くの作家、映画人が執筆のために滞在した、旅館「和可菜」。現在、隈研吾によって改装中のようだ。今井正、深作欣二、早坂暁、市川森一、中上健次、内舘牧子、伊集院静、倉本聰といったそうそうたる顔ぶれ。(改装閉店前)山田洋次が仕事場の拠点としていたらしい。ドラマ『拝啓、父上様』に、実名で登場した。“西の俵屋”に対し“東の和可菜”と、「モノ書き旅館」として称される。
最盛期は、600人を超える芸者衆と料亭150軒があったといわれる(現在は料亭8軒と芸妓さん30名前後らしい)。周辺には、戦前から飲み屋が多く、昭和末期までは映画館、劇場、寄席、雀荘、パチンコ店などさまざまな娯楽施設があった。いまでも残るのが、名画座「ギンレイホール」だろうか。
画像:ギンレイホール
「花街」の神楽坂だからというわけではないが、ちょっと関連した話になる。
その日は、韓国・済州島から帰って間もなく、「罪滅ぼし」の報告会、いや「質問会」が、円山が設定したテーマだったが、それは吞む口実。歌い呑む集まりにすぎない。そもそも、済州島へは仕事ではなく、(社長には内緒で)広告代理店の接待旅行だった。
当時、韓国では、「キーセンパーティー」という、政府公認の売春システムがあり、「韓国に行った=売春した」と決めつけられた時代。名目は、「ゴルフ旅行」であったのだが、実際に、女性を選びホテルの自室で夜を過ごす「接待」も仕組まれていたのだ。
「菊地さん、やったろ?」と、円山が切り出した。
「ん?なにを」
「だって、チェジュだろ? そりゃ、あるよな」
「うーーん、なんだよそれー。ああ、ゴルフ、ゴルフ。2日ゴルフだよ」
「どうだった? キーセンパーティー」
「ん?・・・・。———— いちおう・・・あったけどね・・・」
「ほらあー」
「いい子だったよ。でもね、まったくドライな子で。男の子みたいな感じでさ。何もなかったんだよ」
と、事実を伝えたのだが、円山をはじめ、全員の疑いの眼。
私も好みの子を選んだわけだが、(信じてくれないだろうけど)夜の出来事はなかった。というのは、彼女は、そんな仕事に関わってはいるが、夜のサービスは苦手だと正直に、告白。その代わり、馴染みの韓国料理の店を案内するので、一緒に食事をしよう、と。私はその「代案」を受け入れ3日間、お付き合いをした。日本語がかなり上手で、当時の若者言葉さえも使いこなした。「ちょっくら、行ってくっからよ」なんて、どこかの方言なんて使ったりして。帰国前夜には、彼女のマンションの部屋に連れて行ってくれ、ラーメンを作ってくれた。日本のインスタントラーメン、「サッポロ一番 みそラーメン」だった。
「疑惑」は完全に晴れなかったが、マスターが出た後、始発電車までカラオケは、タダで歌い放題。当時、『大阪で生まれた女』と『酒と泪と男と女』をよく歌っていたのだが、「大阪」を「チャジュド」(済州島)に換えて、「チャジュドで生まれた女やさかい チャジュドの街よう捨てん♪」と歌いまくったのだった。
むろん、〝オネエ〟に言われたとおりに、店中をきれいにし、出た。清掃班と食器洗い班に分け、手際よく。元外食チェーンでのスーパーバイザーをやっていたワタクシの本領発揮であった。
そんな、客を置いて帰ってしまうマスターがいるような、昭和な話、であった。
BORO - 大阪で生まれた女
(おしまい)
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