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お金は要らない

まず、少し攻撃的なタイトルで申し訳ありません。でも、みなさんに今考えほしいことがあるんです。

先に書いておきますが、

お金は必ず要るものではなくなるという記事です。

言い過ぎたことを再度誤ります。

ごめんなさい。

文脈がバラバラで少し読みにくい可能性があります。

おわりから見ていただいたら理解しやすいです!!!


価値観の麻痺

僕はとてもお金に対してのコンプレックスがあります。それはおそらく貧困な家庭で育ってきたからだろうなと考えています。しかし、今はもうそのコンプレックスごと、どこかに消えてしまいました。


それはなぜか。これまで、お金がモノやサービスの交換手段としてのお金の価値がとても大きかったのですが、これから先の時代は、お金以外のものがその交換手段としての価値を高めていくからです。(今すでに始まっている動きでもありますが、)


詳しいデータを調べてないのですが、モノがあふれかえっていて、会社に勤めていたら給料が安定的に入ってくるような日本の社会では、人々が何にお金を使えばよいのか、何とお金を交換したらよいのかという問題がたくさんあふれかえっていると思います。(たとえ所得が低くても)


それが、現代の「浪費癖」につながっていて、僕たちが無駄だと感じるるものにお金を使うようになっているのだろうと思います。そう感じたのは、節約術だとか貯金術みたいな本があふれているのかなと思います。

ただ、貯金が悪いというわけではありません。

僕が言いたいのは、モノやサービスにあふれた社会に生きる貯金思考の日本人は価値を見抜く力が麻痺しているのではないか?ということについて考えろということです。


つまり、僕たちは価値観の麻痺をしているのではないか?ということです。


個人の価値を高めるということ

これからの時代で、僕が重要にしたいことは、個人の価値を高めるということです。


お金が要らないといいました。お金が必要でない、必ずしもなけらばならないものでは無くなるという意味です。(https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E8%A6%81%E3%82%8B/)


これまでは、交換手段としてのお金の価値がとても高かったために、僕たちは人生の大切な時間をお金を獲得するためだけの時間に費やしてきました。嫌いな上司、やりたくない仕事と向き合ってきました。

そういった時間が完璧になくせるとは言いません。ただ、かなりの時間を減らせるんじゃないでしょうか。もちろん、こういった社会の良さもあります。ただ、そう考える人はそういった世界で活躍すればいいのだと思います。


個人の価値を高めるといことは、喜べるものや楽しいものが一致している人との時間を増やしていくことです。個人の価値を高めることが軸になる社会では、お金が大事だと思う人はその価値観を共有できる人と、お金がなくても楽しいよねと思う人はその価値観を共有できる人と、、、といったように集団の分化が起こるのではないでしょうか。

この世界では、お金を稼ぐことよりも個人の価値を高めた方が豊かな人生になるので、個人の価値を高めて人生の価値を高めようということです。


お金という、すべての行動において必要不可欠のように思われてきたお金というものが力を弱め始めているからこういった世界が成り立つのです。

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人生の価値を高めやすい世界の形とは

その形とは何か、ズバリ言います。

ユーチューブの登録者数やフォロワーの数、投稿のいいね数などの価値観の共有と供給ができるほど、価値の可視化が進んだ世界です。

この世界が広まれば価値観の麻痺は解消します。

これからの時代、そういった価値の可視化ができるYouTubeやInstagramが発達していくと思われます。その過程ではお金が必要な場面があると思います。しかし、この発達はいずれお金とは別のものによる押上げがメインになっていきます。

登録者が100万人を超えるユーチューバーは、鳥取県の二倍の人口の支持者がいて、その支持者には様々な職種の方がいます。もうそれはひとつの村や都市以上の力があるように感じます。そして、そういった集団はお金を通じて集団を作っているのではなく、配信者の創る価値観(世界観)を通じて集団を作っているわけです。


僕は、いずれこういった価値観の共有と供給による世界になるんだろうなと、考えています。その価値観の中にお金を稼ぐことやゲームをすること、DIYをすること、歌を歌うこと、料理をすることが入っていくのだろうなと。。。

また、そういった世界では価値観の拘束がなくなると思います。これは先に書いた集団の分化と関わってくるのですが、例えるなら多重国籍OK!みたいなイメージです。僕たちは資本主義という価値観にガッチガチに拘束されています。資本主義とはお金を持っている人がお金を必要とする人を使ってお金を増やすゲームであると僕は考えています。そのゲームが無くなるというのはありえないのですが、そのゲームの中毒性から目を覚ます。そういった時代の到来を1人の経済学部生期待しているのです。


映画を例に説明してみます。

【価値観の共有と供給】

映画を作りたいという人がその映画の内容や作品の価値を掲げます。そしてその価値、内容に共感した人が集まる。

【お金の価値が下がる】

カメラマンや俳優がお金という報酬の形ではなく、できた映画の内容、価値という形の報酬を求めるので、お金の価値が下がる。

【拘束されない】

お金が要らないので拘束される必要がない。


といった感じです。



SNSの発達による恩恵

こういった世界観は難しいように見えるのですが、SNSが発達したら可能なことです。僕たち人類は、テクノロジーの進化によりたくさんの恩恵を受けて、その度に変化の度合いを速めてきました。

ここで、テクノロジーの「進化」と人類の「変化」と分けたのには理由があって、テクノロジーは簡単なことも可能にしたまま、より複雑なことを可能にしていく。人類は複雑な社会を作るほど、より原始的な社会を忘れているのではないだろうか?そうだとしたら、それを進化と言えるのだろうか。という疑問があったからです。この話は置いておいて。。。


当たり前のことなのですが、SNSが発達したことによって、世界中に個人のアイデアや作品に表された価値を発信することができます。個人的にこの恩恵はかなり大きくて、可能性がたくさんあると考えます。


おわり

めちゃ簡単にまとめます!!!


SNSが発達した世界では個人の価値を世界中に発信しやすくなった。

特定の個人の価値に魅せられた人々の集団が分化される。

その集団のなかでは、お金よりも個人の価値が重視されるようになる。

そして、お金が要らなくなる。


まだ、僕自身考えを整理できていない部分もあるので、

コメントで議論したいです。

ぜひコメントください!


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