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ハイデガーは何故ナチスに参画したのか

・ニーチェにより形而上学を破壊され、絶対価値を喪失した西欧社会の中で、ハイデガーのテーマは「欧州の絶対価値喪失からの脱出」とも言えると思います。その為にハイデガーはまず西洋哲学の歴史を根底から見直そうとしました。それが世界三大難関哲学書と言われ未完ながら今世紀で最も重要な哲学書と持ち上げられた『存在と時間』、そしてメインテーマは「存在とは何か」。これこそが哲学の根本命題だったはずだとハイデガーは考えました。そしてハイデガーの反省は、「「存在」が何であるのか分かってないのに「存在」を議論していた。」というところにあると確信しました。

・近代合理主義・科学主義は「神や彼岸(=あの世)などはもう必要ない」「すべては此岸(=この世)にある」と言いつつも、プラトンの考え方から抜け切れていなかったのは以前の投稿でご紹介しました。ハイデガーは「実存」とやらを持ち出して、形而上学抜きで価値を取り戻そうと試みたわけですが、そのハイデガーも結局抜けきれなかったように私には思えます。それがこの大著が未完で終わった理由なのかまでは分かりません。

(1)ハイデガーが改めて問う「存在」とは

ではハイデガーの議論を見ていきましょう。


・貴方の目の前に1つの机があるとしましょう。机が目の前に「存在」しています。
・「机がある」。それ自体は当たり前すぎて今さらこの意味を問うと言われても「ちょっと何言ってるか分からな~い」 ですよね。┐(^^;)┌
・では次に「机がある(存在している)」と言う言葉で何を表現したいのか?と問いを変えてみましょう。しかしそれでも分かりにくいですよね、ならば問いを再設定する必要があります。
・ならばとハイデガーは考えました。「机がある」ということを、「『机(=存在者)』と『ある(=存在)』に分けようではないか」と。多くの場合、我々は「存在」側ではなく「存在者」側を考えているに過ぎない。「存在」については分かったようなふりをしているが、ホントは分かっていないじゃないかと。そして、そもそも「存在とは何か」が哲学の基本命題だったはず。

・そして結論へ飛ぶと、ここに西欧文化が行き詰った原因があると考えたという訳です。相変わらずわかりにくいと思いますので、順番にご紹介します。

(2)人間という存在者で考えてみよう

議論の切り口として、まずは「人間」という存在で議論します。

・「存在者とはこの世の存在するもの全てであるが、その中で一つだけ特権的(=あらゆる存在者の存在の意味を問うことが可能)な存在者がいる。それは人間」ということで、存在の意味を問うことは人間で考えようと始めました。(※人間には何故特権があるのかは分かりませんが。神が与えた?)
・存在の意味を問う存在者としての人間を「現存在」と呼ぶことにしました。「人間」と呼ぶといろいろな余計な属性を一緒に引っ張ってくる事になるのでその属性を捨象するための手段です。

・そしてまず「現存在は自分自身の存在については何らかの理解があるはず」と考えます。「机とは何か」を問うには「机」に関する「何らかの理解」が無ければそんな発想は生まれないからです。理解と言ってもそんなに深い理解の話をしている訳ではありません。自分自身を理解していると言っても、もちろん全てを知っているわけではないでしょう。例えばスキップの仕方を全て書き表わすのは大変だが、スキップをできる程度はスキップのことを理解しているはずです。自分自身の理解と言っても、さしあたりはそんな程度で十分です

・次にハイデガーは自分自身を理解する方法として2つ方法を想定します。
1つは「本来性」。これは簡単言えば自分自身による評価。もう1つは「非本来性」。他人からの評価。どちらともを取ることもあり得るし、両方を行ったり来たりするわけですが、しかしほとんどの場合は非本来的に生きてるとハイデガーは言います。(※まあそうですね)

・「非本来的に自分自身を理解する」ということは、他人(=以降「世人」と呼びますが、「場の空気」と同義です)の眼で自分を見ているということ。つまり人間は「場の空気」を読み、世人が正しいと思うものをベースに自分を理解している。もっと言えば、現存在が語るのは自身の声ではなく、世人の意見であるか、それに同調した意見を唱えているだけと言える。

(3)頽落に陥る:

では世人に同調した非本来的な現存在はどうなるのでしょうか?

・世人の生き方には3つの特徴があるとハイデガーは言います。これらを「頽落」と呼んでます。

①薄いコミュニケーション
  コミュニケーションは空気を読んだ内容の薄いもの。
  流行を追いかけるような軽い話題。
②軽薄さ
  世人に迎合してコロコロと話題が軽薄に移り変わる。
③曖昧さ:
  自分の考えは語られない。
  「~みたいですけっどぉ~」「どうなんでしょねぇ~」みたいな会話。

結局は「みんな」が良いと思ったものに迎合するような個性なき人間となる。これは「悪いのは世人であって、自分ではない。」という無責任にもつながる。(※あれ?日本人に似ている。(^^;))

・なぜそうなるかと言うと、世人に同調すると安心が得られるから。
とは言え、頽落が人を救うわけではない。学校へ行くのが辛い子どもは「学校へ行くのが当たり前」という世人の声に迎合して学校へ行くと余計に辛くなるし、行かなければそれも辛い。ならばと「学校へ行くのが当たり前」という常識を棄てると、何が正しいのか分からなくなる。

(4)本来性を取り戻そう。

・世人に同調することで本来の自分のあり方を自ら放棄し頽落に陥ってしまった。どうすれば本来性を取り戻せるだろうか。
・ここで登場するのが「時間」。それは人間の命は有限であるという意味。そしていずれ死を迎えるということ。「死」だけは誰とも交換できない。自身の死のみが、現存在にとって固有な可能性である。「死は確実にやってくるが、何時やってくるかが分からない状態」が死に向き合った状態。そしてそれに向き合うのは自分自身である。他人は代われない。そしてその死が不安を持ち込んでくる。

・人は死から逃れられない。人間がもし「存在の意味を問う」ような現存者というならば、こんな死と言う無意味性に耐えられないだろう。座して死を待つでしょうか?いや、何かしたいと思うでしょう。
そうなれば、死の自覚を通して、人間は自分を新たな可能性に向けて投げ込むことができる。死を見据えると人間に本来性を発起させる。人間は死と言う有限性(=時間)からの不安を通して被投性(逃れられない)に直面させられるが、逆にこれによってはじめて、存在と自由の真の意味が得られるのである。つまり「死ぬ」と思ったら世人に迎合することを止めるのではないか。

・それは「生」を自分で考えることです。死(=時間)が本来性を取り戻す鍵である。そしていわば「良心(の叫び声)」が現存者に(世人に迎合するでもない)別の生き方を告げ後押しをしてくれるのである。
「実存」というのは、ただ「ある」だけでなく、過去を引き受け死を自覚した存在というわけである。

※この「良心の叫び声」はどこから発せられるのかと考えるとやはり自分自身の理性を前提にしているように見える。そしてその理性は絶対的なのか?正しいのか?その根拠は?と考えるとこの議論も形而上学から脱しえてないように感じますね。

(5)少し細かく書きますと、

・「存在者」を定義したり論じたりできるが、「存在」の方は見えないし定義できない。その意味で、「存在」そのものは「存在しない」(^^;)。現存者がそこにあるモノ(=存在者)に意味を与え了解することでしか存在者の存在を確定できない。(=存在了解)
つまり、人間の存在了解があって、はじめて存在はある。机を売る人、使う人、買おうとしている人のそれぞれの異なる「了解」がある。つまり人間が存在を了解する限り存在はあることになる。そんな存在了解ですから、いろいろなものの存在が現われ始めることになる。

・自分はその世界(=存在者の集合)の外から眺めているのではない。その世界の中にいる。一方の近代合理主義は世界の外から「世界(=此岸)」を覗いている。つまり近代は「世界」を客観的対象としてみる「主体」を仮定した。これが理性。理性は人間の頭の中なので此岸にあるとは言えるが、要は彼岸にいる神(=絶対価値)の此岸における出張所のようなもの。なので相変わらず捏造である。彼岸を捏造することで、逆に此岸を仮象にし、幻のような存在にした。この彼岸の絶対化と此岸の仮想化が、西洋文明の無限の創造力や進歩的歴史観を生み出し、技術・エネルギー・富を創出し進歩へのエネルギーとなった。しかし知らない間にニヒリズムも同時に植え付けた。更に悪いことに(?)近代西洋のこの虚構が西洋文明を世界的な規模に普遍化させた。

・ハイデガーの現存在の本来性は「善」「神」から与えられるものではないことに注目する必要がある。それは「死」という有限性(最も根本的な条件)によって与えられる。「存在」と言うのは「ここにある」というだけでなく死に向かう自分自身という時間的な制約の中で現れてくる。

・しかしである。繰返しになりますが、存在の意味を問うたハイデガーは「存在者」と「存在」を区別することから始めた。しかし「存在者」は姿形で捉えられるが「存在」は捉えられない。逆に「存在」が「存在」すれば、それは「存在者」になってしまう。だから「存在」は存在しない(存在忘却と呼びます)。存在者の了解があるに過ぎない。
・存在者が存在者であるのは、「存在了解」しなければならないなら、存在者は存在より前にいるか、同時にいるか、存在者の一部であるのか?つまり、「存在者」が「存在者」であるためには「存在」しなければならない。具体的には「人がある」「机がある」の「ある」が無ければ人も机も存在しないことになる。なので「存在」はそれ自身は存在しないが、存在者の存在を支える「何ものか」ではあるのは間違いない。
(※自己言及にも見えるが多分大丈夫。ちょっとややこしくてすみません)
しかし、それは(此岸には)存在しない。では、それは何に由来するのでしょうか?この存在者を支えている「何ものか」を知る必要がありますが、結局はイデアであったり、神であったり、「物自体」であったり、要は形而上学(彼岸)に行きついてしまう。しかし形而上学を否定したら「存在」は無になり、すべての存在者の存在の根拠も無になる。
踏み台に支えてもらっていることに気付かず踏み台なんていらないと否定して取っ払ったらコケてしまったようなものでしょうか。結局、元の目的の手前で空回りしているようにみえてなりません。

(6)当時の西洋(特にドイツ)の状況を踏まえて

・第一次世界大戦の後、西洋の頽落が救い難い状態になっていた。そして頽落と言う自覚すらなくなってる。
・原因は西洋哲学の歴史そのものにある。近代の啓蒙主義・理性主義・合理主義・技術主義ではない。
・元々、哲学とは「存在とは何か」を問うことであった。存在者にばかり気を取られ、存在の意味を忘却することで、本来性を失い頽落した世界が現れた。存在忘却の上につくられた哲学が形而上学である。この形而上学を解体し、新たな存在概念を提示する必要があると考えた。これはニーチェの形而上学否定の修復だろうか。そして形而上学を使えないので、此岸の生活をベースにせざるを得なかった。しかし、ハイデガーは形而上学抜きの新しい価値創造に成功したであろうか?

(7)ナチスとの親和性

・当時のドイツはニーチェによる価値破壊。第一次大戦後の混乱したドイツ。方向を見失い煩悶する若者たちがいた。

・世界を客観視する近代合理主義では救えない。しかし、死を意識することで頽落から脱出し、本来性を取り戻すことが出来るというヒントを与えた。この意識が個人レベルから共同体レベルに引き上がると、個人の死を乗り越えていく共同体の歴史となる。

ハイデガーのいう本来性を取り戻した個人は、周りの人々から浮き上がり、疎外された存在となる。共同体を纏わない裸の個人である。そういう裸の個人は全体主義の格好の餌食になるというのが、弟子でもあるハンナ・アーレントの指摘。「世人と迎合してはいけない」と頑なに接触を否定するのではなく、他に関わり方があったのではないかということではなかろうか。ハイデガーほどな人が気づかないことはないようには思いますけど。

(8)感想:

・私は「絶対的規範」に頼ってる限り解決しないだろうと思っています。彼岸に置かざるを得ないからです。また人間の理性に頼れば、個人的になり私利私欲は避けられない。とくにTopと民衆が対置されている環境では。
Noteでは繰返し書いていますが、「人間は愚かである」と自覚し経験を客観的に積み重ねていくこと。その中から規範・価値を醸成させ、トップを含む全員が遵守していくこと。そういう共同体の構築こそが必要とされているように感じます。日本は歴史的にこれに近いポジションではないかと考えています。これが保守主義(主義という言葉には若干抵抗はありますが)ではないかと。