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巨悪なる新自由主義

今回は新自由主義に焦点を当てたいと思います。新自由主義は単なる経済問題ではなく、ここ30~40年間、世界を狂わせてきた巨悪な経済思想と思われるからです。

(1) 失われた30年:

下図は総務省統計局の家計調査からの家計調査データを筆者が年度別にグラフにしたものです。(細かく言うと、二人以上世帯の実質値を2020年を100として指数化したもの)
2000年から下りっぱなしなのは一目瞭然。消費はGDPの6割程度をして占めているので、消費が伸びないとGDPは伸びない。つまり、
Y(国民所得)⇒C(消費)+I(投資)+G(政府)

・しかし、GDPが伸びないと消費も伸びないのも事実。
つまり、C⇒C(0)+cY
C(0)は基礎消費で何が何でも生きる為に必要な消費で、cは経済学では「限界消費性向」というが、要は所得が増えたらその分多少行う贅沢の部分。
・つまり、Y(所得)とC(消費)の2つは相互に依存していて、単純な因果関係で説明できないのがマクロ経済学の特徴。こういう関係を一般的にはスパイラルと呼びます。互いが互いを成長させていくので、これがバブルを生んだり、景気が循環する原動力になる訳です。つまり限界まで言ったら外部の力で破綻する訳です。
以前説明したように、お金はジャンジャン増えて続けていますが、投資や消費には回らない。さて、どこに行ったのか定かではありません。

お金をつぎ込んでも消費も所得も増えない。こんな状態を生んでいる原因に新自由主義が挙げられています。

(2)経済学の流れ

・新自由主義を紹介するための事前準備としては経済学の流れを踏まえておかなければ、言葉の意味が分からなく流されてしまいますので、ざっくりと経済学の流れをご紹介します。
・まず経済学というのは、物理学や生物学といった自然科学と異なって、250年ほどの歴史しかない「近代資本主義」という極めて狭い世界の話です。最近は数学を駆使して「社会『科学』の女王」を気取っていますが、そうなればなるほど、現実から離れた箱庭議論に陥ってきました。経済学を独立している学問と見るよりも、政治の一部または政治思想の一部のツールと見た方が全体における位置付けを理解しやすいと思います。

■経済学の濫觴―古典派
・教科書でも習うアダム・スミスという人が「国富論」(1776年)を発表したあたりが嚆矢・濫觴と言っても良いと思います。「神の見えざる手」という言葉は聞いたことがあると思いますが、アダム・スミスの凄い発見は、あくまでも「自由市場」がちゃんと機能してればという前提ですが、「個人が勝手に自己利益を追求していても、社会全体に適切な資源配分が達成できる」ということです。特に欲ボケの人には神からの素晴らしいギフトに聞こえたでしょう。つまり「欲に任せてガンガン利益追求しても、市場さえ自由であれば、誰からも責められることなく、すべてうまくいく」ということで、これを教義としている経済学者を「古典派」と呼びます。彼らに言わせれば「失業なんて発生しない。もし失業が発生しているなら、それは市場が自由でないからだ」という理屈になります。つまり、「規制は何でも撤廃せよ。企業の功利的な経済活動に干渉するな。」ということになります。但し、アダム・スミスの時代の企業って、今でいう町工場や商店規模のものですけどね(^^;)

■ケインズの登場:
・しかし1930年代の世界恐慌では大量の失業が発生しました。古典派は「そんなバカな?」ということで、血眼なってその要因を市場に見い出そうと、アチコチにイチャモンをつけていました。労働組合が賃金を硬直させているとか。
・その頃イギリスではジョン・メイナード・ケインズが『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936年)を発表、市場に任せただけでは失業が発生するので、政府による適切な市場介入(政府支出と減税)で需要を創出する必要があると主張し始めていました。完璧な自由市場があったところで需要(=有効需要)が無ければ経済は伸びず、民間だけで任せていては需要規模には限界があるので、政府部門がお金を出して需要創造しなければならないという話。
・それを現実に証明したのが、実はヒトラー政権下のドイツで、「第一次世界大戦での国力ダウン」「無茶苦茶な賠償金支払いの紙幣増札での超インフレ」と「世界恐慌」と世界最悪の三重苦状態をわずか2年で回復させました。このことは隠蔽されていて案外知られていないと思います。この辺りは『ヒトラーの経済政策』(武田智弘著:祥伝社新書)に詳しい。この本は秀逸で日本の財政政策のどこの問題があるのかが一目瞭然で、日本の政治家・官僚・経団連はヒトラーを極悪人呼ばわりする前にヒトラーに学べという感じです。さすがに言論の自由が限られているドイツは、ヒトラーに問答無用の極悪人レッテルを貼って、国ぐるみで隠蔽しているようです。ヒトラーの成果は余程知られたら都合が悪いのでしょうね。

日本の教科書ではアメリカのルーズベルト大統領のニューディール政策が成功例で挙げられてますが、実際にはイマイチで、第二次世界大戦に突入して軍需生産が増大して、やっと失業が減ったということのようです。
・さてここで古典派は惨敗かと思いきや、なかなかしぶといのがこの古典派で、これから古典派vsケインズ派の戦いが始まります。

■古典派の逆襲とケインズ派の再復活:
・ケインズは有効需要が大事というのですが、需要があっても供給が追い付かなければ経済は発展せず、失業も減りません。この場合はケインズの有効需要原理は効かないことになります。つまり、有効需要の原理は供給に問題がないことを前提としています。逆に言えば、供給能力が経済発展の限界となります。ここにケインズ派にもほころびが見え始めてきました。
・そして1960年代ではスタグフレーション(物価が上がっても失業率が下がらない)が問題になっていて、「物価が上がると失業率が下がる(フィリップス曲線)」ということを前提に理論を構築していたケインズ派は修正を余儀なくされてしまった。
・更に1967年にミルトン・フリードマンが「政府による財政支出は、利子率を上げて、民間投資(=需要の3割はある)を減らすので、経済効果がない」と論じた。それじゃあフリードマンは何と言ってるかというと「物価は貨幣の供給量で決まる」と言っていました。こういう主張をする人をマネタリストと呼びます。1980年あたりにサッチャーが採用し、一世を風靡したが、近年の黒田バズーカの空砲状態を見ると、これだけでは不十分と言うことが明らかなので、マネタリストについては割愛します。
・その後、ロバート・ルーカスが「合理的期待の仮定の下ではケインズ的な財政・金融政策は短期的ですら効果をもたらさないこと」を数学的方法で証明して見せたために、ロバート・ルーカスはケインズ派を葬ったと言われています。合理期待仮説というのは、「人は情報を持っているので、先まで見通すので、財政政策や金融政策は効かない」ということ。例えば、政府は財政支出を増やそうと考えたとして、赤字国債を発行すると、先まで見通す人々は。それが将来の増税につながると予想し可処分所得が減ると思えば、結局消費を抑制するかもしれないという感じです。ちょっと全知全能の人を想定しているようで、まさに「ああ言えばこう言う」という感じですが、経済理論というのはこんな感じなのでしょうね。素人にはお互いに箱庭を好きなように作ってああじゃないこうじゃないって感じがします。
・とはいえ、これが結局「政府なんて不要」という方向に話が進んでいくことになります。ここに新自由主義の濫觴が見えるようです。
・更に1980年代になると、精緻に組み立てられたルーカス理論にも深刻な数学的エラーが見つかったりで(もうええ加減にせい!って感じですね)、反ケインズ側にもほころびが見えてきた。その後の研究で両者の関係が明らかになってきたとのことです。

■(オマケ)ケインズvs古典派の結末

・経済理論を論じるのが主題ではないので、その後のケインズvs古典論争の詳細は経済学の書物を参照して戴きたいと思いますが、ここまで来たので結論だけサクッとご紹介しておきます。
・まずポイントは「セイの法則」になります。セイの法則とはジャン・バティスト・セイというフランス人経済学者が1803年の著書『経済学概論』で言及したものですが、簡単に言えば「Supply creates its own demand」つまり、「需要の総量は供給量で決まる(供給→需要)」ということを「法則である」と主張していることです。
・実は古典派は、これを正しい、というか公理(=当然の前提)としています。つまり作ったら売れるような世界が前提になっているので本来的に失業なんて考えていない。素朴な疑問としては「作り過ぎたらどないすんねん!」ということでしょうが、その時は「価格が下がるので売れ残らない」(=経済学的には「均衡する」と言います)のだそうです。
・一方のケインズ派は「セイの法則はいつも成り立つとは限らない」という前提にある。とはいうものの、ケインズ派の「需要が供給を決める(需要→供給)」というは供給側には何ら問題がないことが前提になっているので有効需要しか見ていない。需要は簡単に変わる(気分次第でも変わる)が、供給は設備投資だの材料調達だのに時間がかかります。数を勝手に決められたってそんな簡単には対応できないというような問題もあります。
・まあ、正直言ってどっちもどっちという感じです。理論的には古典派はケインズ派の特殊解(セイの法則が成り立つ場合)ということになるのでしょうが、経済「理論」なんて、所詮箱庭の議論なので、こんなものだろうと思います。現実の経済は直線的な因果関係では語れない。例えば、再単純型の国民経済計算でも消費額は所得額に依存するし、国民所得は民間消費に依存するような相互依存関係がある。従ってどっちの理論が正しいかなんてのは、無意味だろうと感じています。
ここまで経済学の変遷を説明してきたのは、新自由主義が生まれる過程を押さえておきたかったというのが理由です。

(2)新自由主義:

■新自由主義とは:
・では、やっと本題です。新自由主義とは簡単に言えば、「国家の役割の縮小が正しい」とする思想。政府は経済に口を出さず、その役割を民営化し、大幅な規制緩和を行い、市場原理主義を重視するという経済思想。さらに資本移動を自由化することで、規模をグローバルレベルに拡大したのが現在のグローバル資本主義で、こんなことを進めている人をグローバリストと言って、最近では忌み嫌われつつあります(^^;)
・これまでの説明からわかる通り、基本は古典派経済学がベースです。何故、古典派がシツコイかというと、「私利私欲で行動しても、全体最適が実現できる」という考えが、「キリスト教思想の予定調和説になじんでいる」ことと「堂々と私利私欲に走れる」ことに尽きます。ケインズにゴチャゴチャ言われようが、何とか理屈をこねて私利私欲の正当化の理屈を復活させたいということだと思います。以前の投稿でご紹介したように、資本主義はもう止まらないので、何とか金儲けを正当化する理屈が欲しいという訳です。とはいえ、アダム・スミスの時代は企業と言っても商店街や町工場程度のもので、今のような力のある多国籍大企業なんかはいなかった時代であったことは忘れてはいけません。そう背景が全く違うのです。

■新自由主義の経緯:
・前述の通り、第二次世界大戦後、1960~70年代頃のスタグフレーションが進行し失業率が 増大した。さすがのケインズ派も手を打てず、それがケインズ政策による国家による経済介入や政府部門の肥大化が問題やり玉に挙げられた。そして1980年代に登場したのが新自由主義である。理論的嚆矢はフリードリッヒ・ハイエクあたりでしょうか。
・新自由主義を政策として採用したのがイギリスのマーガレット・サッチャー政権(サッチャリズム)、アメリカのロナルド ・レーガン政権(レーガノミクス)、クリントン政権(ワシントン・コンセンサス)であり、日本では中曽根政権(3公社民営化)が嚆矢で、橋本政権(金融ビックバン)、小泉政権(郵政民営化)などに引き継がれていく。まあ安倍政権(アベノミクス)もそうでしょう。安倍首相は当初は小泉改革を否定していたように思いますが。
・「失われた30年」というと「バブルがはじけたから」と他人事のように言っているが、「自由」という美しい言葉(?)の裏での恐るべき蓄財と悪行であったと見直した方が良いでしょう。

■新自由主義者の主張:
・新自由主義者の基本的な主張は一言で言えば、「政府による裁量的な政策を最小限に抑え、自由な市場での市場原理を重視することで経済は『上手くいく』」ということで、具体的にはこんな主張であった。
① 政府規制の緩和。(例:資本・労働・金融等の規制緩和、独禁法の緩和)
② 合理化・効率化の追求(例:非正規化、大阪都構想など二重行政排除。政府事業の民営化)
③ 自己責任(例:高報酬が得られないのは自己責任。自助→共助→公助。大学の独立法人化)
④ 開かれた社会(例:外国人労働者受入、外国人参政権、インバウンド対応)

■本家アメリカでの評価:
・アメリカでも新自由主義は上手くいかないという評価が定着しつつあるものの、この古典派ベースの思想は本当にシツコイ。
・少し古いですが、2020年のルーズベルト研究所の報告を添付します。まあ、評価は散々です。

https://rooseveltinstitute.org/wp-content/uploads/2020/07/RI_The-Empirical-Failures-of-Neoliberalism_brief-202001.pdf

主要な5つの論点に関する結果だけ簡単にご紹介しますと、

ルーズベルト研究所の報告を筆者がまとめたもの

■新自由主義の問題点

問題点だらけの新自由主義ですが、具体的な問題点としては、

① 経済モデル優先:
・経済モデルが極めて科学的・数学的に設計されてきた為、(西欧ではありがちだが)モデルが「神」の位置(形而上学的絶対価値)を得て、経済モデルが「現実」と合わないときに、現実側を無理やり変えてモデルに合わせようとしたこと。

② 市場はそれを支える周辺構造があるが、それを無視している。
・長年に亘って関係者の間で築き上げられた秩序、制度、価値観、人間関係などが市場の構造を支えている。
・倫理性、イノベーションとモチベーション、階層的対立などの要素は無視されている。
・市場取引はフローに限られるので、過去からの積み上がれてきたストックは捨象されてしまう。

③ 暴走する資本主義
・資本主義は資本蓄積を目指して永久に運動を続ける。つまり資本家は永久に金儲けを続けようとする。経済学はそれを「経済成長」という言葉でカモフラージュし、「神の見えざる手」という言葉で誤魔化してきた。
・アダム・スミスの時代とは違い企業の影響力は強大である。工場の移転が街を潰してしまう威力がある。

④ 日本の構造改革(1990年~)
・「個人が合理的に行動すれば、自由な市場競争は、各個人を満足させるだけでなく、最も効率的な資源配分を実現する。」新自由主義のドグマはこんな感じでしょう。つまりこれを邪魔するものは「悪」であり、排除されなければならないということになる。こんな「アメリカ脳」の考えで実施されたのが日本の構造改革。昭和の高度成長が落ち着き、次の成長の為には更なる改革を行う必要があるというという改革好きの精神もあるでしょうが、最近でも「新自由主義を否定しよう」と言いながら、相変わらず「プライマリーバランス黒字」から抜け出せなかった政治。そこに問題がありそうです。そもそも新自由主義を止めたら、どこへ行くのかもよくわからないの上に、単なる欧米追従意識ではなく、どうも日本人の心に深層には、新自由主義へのシンパシーがあるような気がしています。ですから新自由主義に戻ってしまう。
・ところで「集団主義」「行政指導」「年功序列」「長期的視点」、これらの改革で日本は良くなったでしょうか?改革と言っても供給側の話ばかりでセイの法則が成立する世界をイメージしていたからでしょうか、問題は需要側ではなかったでしょうか?つまり有効需要を創出する政策が必要であったのでは?
※アメリカからとある事件に関して脅されて仕方なく呑んだという説もありますけど(^^;)

⑤ 自由貿易の愚
・自由貿易の意義は黴の生えたリカードの比較生産説で相変わらず正当化されているのでしょうか?この説を初めて聞いた人は「目から鱗」ぐらいに感動すると思うが、今となっては生産や資本や労働まで簡単に移転するので、生産の条件が固定された議論は意味を為さない。
・労務費の単純比較になってしまい、儲かるのは多国籍企業だけ。

⑥ 戦時体制からの脱却
・護送船団方式、日本的経営などを非効率なものと決めつける。

他にもいろいろありそうですが、追っかけ追加・整理していきたいと思います。

■Anywhere族とSomewhere族
・人間をAnywhere族とSomewhere族に分けてみるという話があります。
・どこの国でも生活していけるのがAnywhere族で、だいたいが高学歴で高収入、生まれた町を離れた経験があり大都市に住んでいる。思想はリベラルであり、市場経済派であり、成果主義・実力主義である。
・一方のSomewhere族は特定の国(主に自国)でないと生活していけない人々で、概ね低学歴、中低所得で地方に住んでいる。生まれた町や国への帰属意識が高く愛着も強い。思想的には保守的で変化をあまり好まない。
・しかし社会がうまく行くのは、結局は協調、なじみの深さの愛好、信頼といった習慣的基盤、言語的・歴史的・文化的紐帯に依拠している。開かれた社会においても、その社会を可能にする共通の基盤(=価値観)が無ければ1つにはまとまって行かない。Anywhere族はそこへの理解が決定的に足りない。

・Somewhere族の方が圧倒的に多いと思われるが、Anywhere属の方が進歩的で上に見られている傾向がある。両者は分断され、「進歩的」なAnywhere族が世界をリードしているところに問題があるようだ。

(3)更なる本質的な問題

・ニーチェ以前の世界は形而上学も、神への恐れという形でも、それなりの倫理観があった。しかし、ニーチェによって形而上学的なものが破壊されると、それは西欧を何とか縛っていた倫理観をも破壊した。要は西欧は「恐れるものは何もないみたいな何でもありな世界」になりつつある。歯止めがない。タブーは解体され、遺伝子操作が行われ、人間のクローンが作られ、生物兵器が作られ、そしてもっとむごい犯罪が行われているとも言われている。カネと私的欲望の為に。

・「何故、経済には成長が必要なのだろう?」そんな素朴な疑問がある。答えとしては、本当に求められているのは「資本の永遠の蓄積」で、それを単に経済成長と呼んでいるだけ。つまり、資本家が蓄財の為に必要としているにすぎず、結局は我々が辿っているのは「資本主義に忠実に富の蓄財にせっせと励む一部の資本家」の欲望を満たす為の隷属への道なのでしょうか。そして、いずれは限界と破局を迎えることになるかもしれない。