
kikiのはなし - ルワンダ女性ドラムグループ Ingoma Nshya
身体の輪郭とは別に、個人の輪郭というものがある
カフェのテーブルを挟んで対面で席に着いた時、さてと顔を上げ正面から彼女を見る前に「あ、輪郭に入っている」と降ってきてしまった
肘掛を掴みながら地面に目線を落とした角度のまま
妙に時間をかけて私は椅子の座り位置を調整し、カバンの置き位置をあちこち迷わせて、彼女の輪郭に入っているそのことを自認し自らの身体に馴染ませる工程をすごしていた
kiki
この人のことを書かないわけにはいかない
散々対面に調整時間がかかっている私をニコニコ眺めながら
「どう?」
「元気?」
「調子は?」
「うまくいってる?」
「午前はどんな日だった?」
という旨のことをびゅんびゅん飛ばしてくる
質問なのに、回答していなくても、さらに質問が来る
ようやく顔を上げて彼女に向き合えた時にはもう私は喉が詰まっていた
彼女はルワンダ初の女性ドラムグループ “Ingoma Nshya (新しい力)” を立ち上げた人物だ
今年で15周年になる
ドラムは、長いこと女性が触ることをタブー視されていて、職業にするなどもってのほかだった
大きな音を立てるのは はしたない
力強さを象徴するものに触れてはいけない
バチが男性器を彷彿とさせるので公序良俗的によろしくない、等々タブーの理由は様々上げられてきたが、そのどれもが明文化されたものではなかった
それがタブーの性質であり、明記されずとも暗黙に避けられている
「私はドラムをやってみたかった、ただそれだけ」
女優や脚本家として舞台芸術に関わったのち、改めてドラムの饒舌さにハッとした
「ドラムがあれば、どんな人とでもなんでも話せると思ったの」
難民として隣国のコンゴに生まれ、国籍はルワンダ人、育った環境はコンゴという中で自分を規定できないでいた
「ずっとここで生まれ育ってるはずなのに、なんだか余所者の気がしてた。おかしい話だよね、自分がルワンダ人だってこともよく分かってないし、ルワンダなんか一回も行ったことないくらい小さい時だったのに」
「どの言語もあまり自分にしっくりきてなくて」
今はハッキリと「フランス語を話している自分が真の自分」と言い切っているが、当時は自分を規定できていないことから相手の規定も難しく、なにをどうコミュニケーションしていいか分からなかった
20年フランス語圏のコンゴで過ごし、ルワンダに帰還した
“帰還”と呼んでいいのか分からないそこは初めて行く土地だ
ルワンダではルワンダ人として見られるが
「なんでルワンダ語 話さないんだ?」
「これ、ルワンダのしきたりでしょ、なんでやらないの?」
「ルワンダではそういうことしないんだけど」
と、ここでも余所者感を深めていった
何かが違う
ルワンダに来てすぐに、パリに留学をした
表の目的は舞台芸術と脚本の勉強をするためだ
近隣諸国の中でぐるぐるとする中途半端な余所者感よりも
もっと遠くにビュンと離れて圧倒的な余所者であったほうがいい
そう胸に秘めながら向かったが、フランス語を話す自分が最も真の自分に近いとすでに感じていた当時、こんなに遠く離れた根っこのかけらもないパリが一番余所者感をおぼえなかった
そういう一連を経ての
「ドラムがあれば、どんな人とでもなんでも話せると思ったの」
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小さい時から転勤族だった私は「出身どこ?」の質問が一番回答に困っていた
産み落とされたのは確かに青森だが、青森にまつわる幼少期の何かの記憶があるわけではない
その後も3,4年に一度は引越しをし、小さいながらに「またどっか行くんだろうな」「またこの人たちとも離れるんだろうな」が片隅にあり
力を注ぐことは、いかに素早く新しい環境に馴染むか、いかに別れる時に哀しまないよう深入りしないか、に徐々に向かっていった
馴染む戦法は「笑えばいい」と結論づいた、小学校高学年の時だ
とにかく笑う、面白くなくても、どんな細かいことでも、他の人がスルーしているようなことでも徹底的に拾って声を出して笑う
そうすると発言をした人が救われる気になる、と気づいていった
人の関心を引くにはそれくらいしかできなかったのだ
「あ〜〜おもしろーーっ!」「ギャハハー!最高だね!!」「アハハハハ、やめてよ、天才なの!?」と繰り返していくうちに、笑うという行為と楽しいという感情がコネクトしなくなり、真に楽しいことが起きた時にどういう感情を持って反応していいか迷子になっていた
うまく反応できないとせっかく馴染んだのにはじかれるかもしれない、そういう恐怖から楽しいことに近づくのが怖くなった
楽しいことが起こりそうな場所や状況を察知しては距離を置き、誰にも見つからないようにこっそり一人になることに安寧を感じていた
自分の口から出る言葉と自分の気持ちの乖離は増す一方で、話し言葉はある種の業務感を蓄えていったのだ
そういう一連を経ての
「書き言葉があれば、どんな人とでもなんでも話せると思ったの」
話している自分と書いている自分が全く別人格だと感じるようになったのは中学校に入ってから
こころというパートがもし体内にあるならば、そこをきれいに迂回するように設計された私の発話の構造 ー オートマティックな声帯の振動以外の何でもなかった
AIにも追いついていない「◯◯という入力がありました、つきましてはXXという出力を行います」と機械的な発話体系が整頓されていった
それは相手の関心を引くためだけのものとして
その一方で、書いている時は臓器のどこも経由せず、ただただこころの真ん中からくさり編みのように文字を繰り出せることが、小さな、そして安全な蓑になっていった
人間からこんなに遠く離れた根っこのかけらもない白い紙の上が一番余所者感をおぼえなかった
パリから戻って、女性だけのドラムグループを結成した
当時の風当たりは強く、はしたないからすぐにやめなさい、ルワンダの伝統に背いている、侮辱行為ではないか、力がないのに無理して力が必要なことをやらなくてもいい、恥ずかしくて応援しづらい、など大きく小さく、遠く近く、様々な声が彼女を包んだ
それでも彼女はやめなかった、彼女自身の発露のためにも
「よくね、女性人権団体とか男女平等機関とかにフィーチャーされるんだけど。私は別にフェミニストでもないし、そういう意味でのアクティビストでもないの(笑) そういう文脈でこの活動を捉えられることが多いんだけど、ただ単にドラムでのおしゃべりが好きなのよ、ドラムでの表現が好きなの。男だって女だっていいじゃない、ただの人間よ(笑)」
今では公式式典に招待されパフォーマンスを行うまでになった
「失敗は本当にたくさんしてきたわ。でも全部私が産んだものでしょう。
可愛くって、可愛くって。どんな失敗でもとっても可愛いのよ」
そういって輪郭を揺らしながら笑う彼女は4児の母
自分から出たものは何であれ全部可愛いの対象なのだ
根無し草、とは時によろしくない意味で使われることもあるが
根を張る対象が場所でないこともおおいにある
彼女はドラムに根を張った
そしてどこかの土地に固定されず、たくましい根を張ったままそのドラムと共にどこにでもいけるのだ
各地に 新しい力 の種を蒔きながら
・Ingoma Nshya (インゴマ ンシャ)
Ingomaとはルワンダ語で「力」の意味でもあり、「ドラム」の意味でもある
Nshyaは新しいの意
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