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能登を想う─桜の木の下で

下間都代子さんと広瀬未来さんの朗読会「旅するふたり」に書き下ろした「桜の木の下で」の開発過程(依頼を受けて思いつき→プロット→当日の様子)と「桜の木の下で」脚本冒頭部分までを無料でお読みいただけます。clubhouseでの朗読歓迎。

🌸10月25日(公開初日) 9名の方にご購入いただきました。
🌸10月26日(公開2日目)、購入された方が10名になった記念に「初稿は迷って2パターン」の章を立て、「花びら編」と「タイムカプセル編」のラストを追記しました。


なぜあの人はあて書きしやすいのか

ナレーターで「阪急電車のアナウンスの人」の下間都代子さんがあて書きを引き出す名手であることを以前noteに書いた。

あて書きを誘う声の主はある程度いるが、発注能力を兼ね備えている人は少ない。「こんなのが欲しい」というイメージと「これじゃない」という違和感を的確に伝えるには、言語化能力とブレないメンタルが必要だ。

軌道修正がうまくいかないまま時間切れになると、紙パックの底に残った吸いきれないジュースみたいなモヤモヤが残ってしまう。こちらの伝え方が悪かったのか、相手の理解か技術が足りないのか……頼んだほうも頼まれたほうも、どちらにとっても悲劇だ。

プロの物書きなので、どんな球を投げられてもヒットを打てるようにしているが、あんなに打つ大谷翔平だって10割打者ではないし、ホームランばかりでもない。野球と脚本を同じ土俵に並べるのは無謀だが(相撲まで入り込んでいる)、ヒットを連発するのは難しい。

ところが、下間さんに「書いて」と言われて書いた作品は、わたし的にはヒットの連続なのだ。どれも下間さんに読んでもらったあと、いろんな人が我も我もと名乗りを上げ、人気作品になっている。相性ももちろんあると思うが、下間さんのディレクションの的確さによるところが大きいと思う。

「旅するふたり」に書き下ろし

そんな都代子さんから何度目かの書き下ろしの依頼おねだりがあった。

広瀬未来さんと「旅するふたり」と題した朗読会を開き、これまでふたりが旅した土地にゆかりのある作品を読む会だという。いくつか読むうちの一本を書き下ろしでという依頼だった。

旅にまつわるリーディング作品といえば、最初にあて書きした「たゆたう花」がある。都代子さんと未来さんが桜を見に行った旅先の喜多方で朗読してもらうために書き下ろしたものだった。喜多方の枝垂れ桜と温泉を入れ込み、宿の湯船に浸かりっぱなしの会話劇にした。

だが、「あれはエロすぎるので」ということで新たな作品が必要になった。女風呂に入りっぱなしのふたりがしっぽり語り合う。リーディングとはいえ裸の役だ。確かに大勢を前に昼間にやると、演者も客も恥じらってしまいそうだ。

今回のリクエストは「能登の桜」。

わたしは絵が先に浮かぶことが多いのだが、そのとき思い浮かんだのが、一軒家の庭で大きな桜の木を見上げている母と娘だった。

すぐに都代子さんあてにメッセージを送った。

震災後の今の能登を舞台にするの、都代子さんが取り組まれていることや想いを込められそうだし、聴き手にもイメージしやすそうですね。10-15分の短編だと入口と出口がはっきりしていて、登場人物のベクトルがくっきりしているほうがすんなり世界に入れて感情移入しやすいです。

例えば、能登の実家で一人暮らししている母を心配した都会暮らしの娘が訪ねてきて、同居を持ちかけるとか。その庭に、母が生まれたときに植えた桜の木があって、桜を置いていけないと渋る母。話がつかないまま、帰り道に見る桜並木。桜を見上げる人たちの声がいつしか自分の思い出に乗り替わる。自分よりずっと長くこの町に住んでいる母には、もっと思い出も思い入れもあるだろう。この町を離れたら、なんて簡単に言ってはいけなかった。震災があっても力強く花を咲かせる桜たち。母もまたこの土地に根を下ろしている。都会に来たほうが幸せなんて思い上がりだったと気づく娘。

プロットから脚本へ

都代子さんと未来さんの意見をうかがい、作品の方向性とトーンを擦り合わせた。同じ設定でもトーンの違いでセリフの方向性が変わる。

「ファンタジーにするよりは、リアリティ、実感のある話に」
「旅にまつわる話であることを意識したい」
「最後に読む作品になる予定なので、後味も大事に」

といった意見をいただいた。

朗読会はある意味、心の旅。「桜の木に縛られているのではなく、心は自由に飛べている」母の描き方で会のエンディングらしい作品にできるのではと考え、その方針でプロットで骨格を決めてから脚本に進むことになった。

映画やドラマの場合、なぜ今この作品なのか、作品を通してどんなメッセージを伝えたいかなど企画意図が伝わることを意識してプロットを書くが、今回は二人会のリーディング作品なので、あらすじとも呼べる形になっている。

「旅するふたり」プロット

能登の実家で一人暮らしする母を娘が訪ねる。庭に大きな桜の木が立っている。母が生ま れ、母の両親がこの家を建てたときに、大工さんに贈られた木。母と一緒に大きくなり、 やがて母の背丈を超え、見上げるほどの高さになった。

木がどんどん大きくなると母は言う。 母が見上げる木は、たしかに、かつてより大きく見える。 母がどんどん小さくなっているのだと娘は思う。

東京で一緒に暮らさない? その話を母にするために来た。 電話では話したが、はぐらかされていた。 桜を置いていけないでしょうと渋る母。家も庭もこのまま置いて、桜の季節になったら見 に来ればいいと娘が言うと、そんな調子のいいことはできないと母は言う。

水をあげ、肥料をあげ、病気になったり虫がついたりしたら面倒を見て、毎日話しかけ て、時には愚痴も聞いてもらって。世話をする相手がいるからシャンとしていられると言 う母。一年に何度か顔を見せに帰るだけの自分より、桜の木のほうがよっぽど母を支えて くれていた。

「全部見てきたからね、この木は」 母が生まれてからの日々を見守ってきた桜の木。娘よりもつきあいは長い。 震災があっても力強く花を咲かせる桜たち。母もまたこの土地に根を下ろしている。 東京に来たほうが幸せなんて思い上がりだったと気づく娘。

桜の花びらがはらはらと風に舞う。地面に落ちる前に手をのばし、つかまえる娘。 桜の花びらをつかまえると、願いが叶うというジンクスがある。 娘はつかまえられるが、老いた母の動きは鈍く、一つもつかまえられない。 お互いを見ると、肩に花びらが積もっている。

肩についた花びらをつまみ、息を吹きかけると、思い出が解き放たれる。 母の思い出。娘の思い出。親子の思い出。家族旅行で見た桜。 旅立ってしまった人。何年も連絡を取っていない人。

満開の桜の下で旅をする。あの場所へ。あの日へ。あの人へ。 どこかではないここから、ここではないどこかへ、旅するふたり。

このときは「旅するふたり」とイベント名をタイトルにしていた。9月10日に「桜の木の下で」とタイトルが決まった。

プロットを読んだおふたりから素早く的確な打ち返しがあった。都代子さんと未来さんそれぞれの気づきを指摘してもらい、母と娘の輪郭がはっきりしてきた。

例えば、桜の木のある家を母の生家と考えていたが、母は能登に嫁いできた人で、娘がお腹に入ったことがわかって桜の木を植える設定にした。この家、この土地に根を張ろうと決意した証。桜の木の立ち位置と母の想いがよりくっきりとした。

初稿は迷って2パターン

プロットまでは順調に進んだのだが、脚本は手こずった。書いては消しを繰り返し、同じところを行ったり来たりした。

この日までに送りますと伝えた期日を迎え、「花びら編」と「タイムカプセル編」の2パターンの初稿を出した。途中の流れも少しずつ違うのだが、特に大きく違うラストを紹介する(10月26日追記}。

「桜の木の下で」初稿 「花びら編」ラスト

  母に面と向かって言えないことを、桜の花びらに託す。
  娘に面と向かって言えないことを、桜の花びらに託す。
  元気でいてね。どこにいても。
  元気でいてください。どこにいても。
  桜の木の下で旅をした。
  桜の木の下で旅をした。
  母と。
  娘と。
  あの日の母と。
  あの日の娘と。
  ここではないどこかへ。
  どこでもないここへ。
  (花びらに息を吹きかける)
  (花びらに息を吹きかける)

「桜の木の下で」初稿 「タイムカプセル編」ラスト

娘M
 風に舞う花びらに誘われて、幼い頃の記憶が蘇る。黒々とした髪の母と、お菓子の缶を抱いた私。私よりずっと大人だと思っていた母は、今の私より年下だ。

  どの辺に埋めたの? タイムカプセル。
  この辺だったかな。
  シャベルある?
  掘るの?
  掘ってみる。

娘M 能登に住む母を訪ねた。
母M 東京に住む娘が訪ねて来た。
娘M 家の庭に大きな桜の木が立っている。
母M 桜の木の下には箱が埋まっている。
娘M 箱の中には、きっと……。

どっちがいいか選べないというのは、どっちつかずになっている迷いの現れでもあった。

母と娘ではなく都代子さんと未来さん本人に近づけた「ミクトヨ版」を書き始めたが、「どちらも好きです」「母と娘のままがいいです」と都代子さんと未来さんに言っていただき、タイムカプセル編と花びら編の両方を活かす方向を探るうち、「ふたりでタイムカプセルを掘り、最後に花びらに願いを託す」流れを思いついた。

タイムカプセル編のラストが淡くぼんやりしているので、初稿では描かなかったタイムカプセルの中身を具体的にしたほうがいいですねという話になった。都代子さんと未来さんとアイデアを出し合い、「桜の木の思い出絵が入っているが、掘ってもみつからない」に落ち着いた。

あるけれど、ない。
ないけれど、ある。

「花びら編」と「タイムカプセル編」を合体させた2稿ができた。

そこから公開稽古を聞き、チャットに寄せられたコメントも取り入れ、ちょこちょこ加筆したが、「トコロテンをどうわかりやすくするか」「アラベスクのポーズをどう説明するか」「タイトルをどこに入れるか」といった細かい部分ばかりだった。ファイル名は「2稿微調整」「2稿微調整2」「2稿微調整3」と変遷し、「2稿微調整3」で決定稿となった。

上からではなく根っこから

「旅するふたり」当日パンフに作者の言葉を寄せた。

「能登と桜」というテーマをいただいて思い出したのは、東日本大震災の後に書いた作品のこと。空から蒔いた復興の種が花を咲かせるラストを提案したところ、「その土地で踏ん張っている人に光を当てたい」と監督に言われ、ハッとしました。復興の花を咲かせるのは、そこに根を張っている人たちなのだと。人生の主人公は「私」なのだから。

「旅するふたり」当日パンフ 作者の言葉

「東日本大震災の後に書いた作品」とは、震災から1年後に放送されたおじゃる丸スペシャル「銀河がマロを呼んでいる〜ふたりのねがい星」のことだ。

おじゃる丸の世界と宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」が溶け合う話で震災復興を応援できないかという企画に声をかけてもらった。

おじゃる丸とカズマを乗せた銀河鉄道が福島、宮城、岩手を連想させる星々を巡る。旅の最後におじゃる丸が列車の窓から花の種をまくと、星々に緑が芽吹き、花が咲く。

自信まんまんで提出したプロットは、「これじゃない」と返された。星々の住人をおじゃる丸たちが元気にするのではなく、今いる場所で生きている住人たちの元気な姿をおじゃる丸たちに見せたい、と。この作品で初めてご一緒した大地丙太郎監督も違和感を的確に伝えられる人だった。

言われてみると、銀河鉄道から花の種をまいて地上を元気にするラストは絵になるが、上から施す形になっていた。

復興の主人公は今いる場所で踏ん張っている人たちなのだ。復興は上からではなく地に足つけて進めるものなのだ。中の人を置き去りにして外の人がいいことした気になってはいけない。

そのことを肝に銘じた。

良かれと思ってしたことが、提案が善意の押しつけになっていないか。ありがた迷惑になっていないか。以後、気をつけるようになったし、気になるようになった。

能登の震災の後、この機会に家を畳んではどうか、さらには集落を畳んではどうかという意見を見かけた。目先の問題を解決しようとするとき、その土地で培ってきたものを置き去りにしてしまいがちだ。家財道具を運べば引っ越しはできるが、時間をかけて下ろした根っこは簡単に引っこ抜いて植え替えられない。

根っこの存在とそこに宿る時間が透明にされていないだろうか。

新しい場所に移るという選択肢はもちろんあるが、そちらのほうが良い選択かどうかは外の人が決めることではない。「引っ越せば?」なんて軽々しく言ってはいけない。

そんな想いを、桜の木の下の母と娘に託した。

「旅するふたり」当日パンフ 「鬼っ子」吉本ばなな作を下間都代子さんが、「歌うカステラ」恩田陸作を広瀬未来さんが朗読した後、「旅するふたりのエピソードトーク」に続けて「桜の木の下で」。

桜の木と母と娘

10月20日、浅草の大黒家別館にあるホールにて「桜の木の下で」がお披露目された。大黒家といえば天ぷらが有名。その別館の4階にイベントスぺースがあることを初めて知った。

大黒家別館入り口。当日パンフのイーゼルがお出迎え。

吉本ばななさんの「鬼っ子」を下間都代子さんが、恩田陸さんの「歌うカステラ」を広瀬未来さんが朗読。どちらも大好きな作家さん。朗読を皆で分かち合い、それぞれの情景を思い浮かべる。贅沢な共有の形。休憩時間には朗読作品にちなんだお菓子が振る舞われた。

休憩後、これまでのふたり旅をスライドショーでる「旅するふたりのエピソードトーク」に続けて「桜の木の下で」が上演された。

都代子さんは大阪、未来さんは東京を拠点にしているので、ふたりが同じ場所にいて合わせるのは初めてだった。会場でのゲネも全部は通せず、最初から最後まで対面で通すのは初演が初めてとなった。

オンラインでは時差があるし、相手が画面上にいるのと隣に立体でいるかは大違いだ。セリフのかけあいはテンポが上がり、オンラインでの稽古とは段違いの臨場感があった。

ふたりの視線の先に、桜の木が見えた。風に舞う花びらが見えた。

「誰もいないはずの混浴風呂に先客の男性がいて絶叫」など爆笑ネタ満載のエピソードトークで会場が温まった後で、お客さんの反応もとても良かった。思った以上に笑いが起きた。わたしはいちばん後ろの席から皆さんの背中を見て聴き入ってもらえているのを感じていたが、正面のふたりからは何人もの泣き顔が見えたそうで、「え、もう?」という序盤から涙をぬぐっていた人もいたという。

母か娘のどちらか、あるいは両方に自分を重ねたり、故郷に想いを馳せたり。それぞれの琴線に触れるところがあったようだ。

下間都代子あて書きヒット記録は更新できたのではないだろうか。

当日パンフと休憩時間に振る舞われた宮崎のういろうと長崎のカステラ。

ずっと「旅するふたり」で

脚本を書いたときから稽古を経て母と娘がどんどん愛おしくなっていたが、このふたりを見ていたい、ふたりの会話を聴いていたいという気持ちが更に募った。

都代子さんと未来さんを見ていたい、聴いていたい、でもある。キャラクターとともにあて書きしたおふたりのこともより愛おしくなった。

「旅するふたり」の企画は今年の春のふたり旅で持ち上がったという。帰りに都代子さんと別れて一人になった後、「あと何回こうやって旅できるんだろう」と思った未来さん。脚本の2稿の最後のセリフ「また二人で桜を見られますように」を読んだとき、その気持ちが蘇って泣いてしまった……と締めくくりの挨拶で明かしてくれた。

その言葉にもらい泣きしそうになった。

「行きますよー、まだまだ」

都代子さんが威勢良く言った。

「永遠に生きていきましょう」

未来さんも明るく言った。

「おっぱいがシワシワになって垂れるまで! 私たちの想い出も永遠に!」

ご丁寧に垂れ下がったおっぱいのジェスチャーをつけておどける都代子さんのあふれるサービス精神に、あふれかけた涙が引っ込んだ。

垂れたおっぱいをブンブン振り回して混浴風呂に現れた都代子さんに、先客のオッサンたちが絶叫する絵が浮かんだ。そんなコメディをあて書きしたい。長生きしなくては、お互い。

広瀬未来さんが能登をふたり旅したときに撮影した桜越しの見附島(珠洲市にある無人島。石川県天然記念物)。震災後の現在、島の沖側部分は大きく削られてしまっている。

能登へ気持ちを寄せて  

会場の一角に「能登応援コーナー」が設けられた。

2018年に春旅で訪れた能登。
珠洲市の先端までドライブし、桜を満喫しました。
その能登が、農災や豪雨で大きな被害を受けています。
1日も早い復興を願い、今井雅子先生にお願いして能登を舞台にしたお話を書いていただきました。
少しでもできることを。
いただいた応援は全て寄付させていただきます。
ご協力よろしくお願いいたします。

都代子さんおすすめのビジネス書が1000円から。
未来さん撮影のポストカードが200円から。
「桜の木の下で」印刷台本が500円から。  

皆さんから応援の気持ちを寄せていただき、完売。売り上げは全額、能登の復興支援にあたっている団体に寄付される。

こちらのnoteでも脚本を有料記事にて公開し、売り上げを能登の復興支援に使ってもらえたらと思う。

初稿を書き上げた後、能登は水害に見舞われた。ニュースで大きく取り扱われなくても大変な状況が続いていることに想いを馳せたい。

✔︎「旅するふたり」会場で印刷脚本を購入された方でご希望の方にはpdf版をお送りします。
✔︎一定期間を過ぎた後、無料記事に切り替える予定ですが、時期は未定です。売り上げは全額寄付し、寄付先と金額について報告します。
✔︎有料部分にて原稿の続きをお読みいただけます。また、pdf版を埋め込んでいます。
✔︎無料公開部分はclubhouse内にてお読みいただけます。購入された方は有料公開部分もお読みいただけます。事前申請は必要ありません。ルームにこちらのnoteのURLを貼っていただけるとありがたいです。
✔︎clubhouse外での使用については許諾を申請してください。有料/有償上演には著作物使用料がかかります。
✔︎印刷した原稿の複製・配布、ダウンロードしたファイルの共有はお控えください。

今井雅子作「桜の木の下で」

登場人物
母    
  

娘M 能登に住む母を訪ねた。
母M 東京に住む娘が訪ねて来た。
娘M 家の庭に大きな桜の木が立っている。

タイトル 今井雅子作「桜の木下で」

  今年も咲いたね。
  お母さん、毎年、そう言うね。
  毎年、咲くからね。
  何があっても咲くね。
  震災があっても咲くもんね。
  ごめんね。あの日、帰れなくて。
  帰って来れなくて良かった。帰って来てたら大変だったよ。
  そうだけど……。お母さん、東京来ない?
  え?
  一緒に暮らさない?
  どうしたの急に。
  そのほうが安心かなって。
  誰が?
  お互い。
  お互い? 誰かに何か言われた? 能登にお母さん一人残して心配ですね、とか。
  別に。
  その時期はもう過ぎたか。
  その時期……?
  能登心配ですねの時期。

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