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オタク的文化の事例考察が面白い【本の感想】動物化するポストモダン

この本の感想を書くのは難しい。なぜかというと、この本の初版がすでに2001年ということで、20年も前だからだ。こと現代社会を考察し、提言するタイプの書籍や論文について、20年も経ってしまうと、その書籍が提示していた見解が的を射ていたのかどうかが分かっている。ゆえに、後知恵というか結果を知った上で、「ここが合っていた、合っていなかった」ということができる。だけれど、それをしてもあまりおもしろくないし、神様気分での批判ができてしまうようで、気が引ける。このタイプの本は、鮮度の良いうちに読んだほうが楽しめるような気がする。とはいえ、今書いたような「後知恵」に気をつけていれば、逆にその論考の先見性などをきっちり見ることもできるとも言える。少なくとも今回の感想文は、そういう観点で書きたい。

さて、まず本書の内容に対する賛否というよりも、本書を書く著者の姿勢について感じたこと。率直にいって、誠実かつパワフルだなと思った。謝辞に「旧世代の筆者に対して、ノベルゲームやら同人ソフトやら、近年のオタク系文化の動きを示す作品をつぎつぎと持ち込んでくれた若い友人たちにも礼を言いたい」とある。著者自身が、90年代の男性オタク内のムーブメントに当事者ではないことを認めたうえで、当事者たちから情報をもらって、自分なりの考察を深めた結果の論考であるということがよくわかる。
その上で、内容に関しての感想を書く。


データベース型世界の二層構造に対応して、ポストモダンの主体もまた二層化されている。(中略)この新たな人間を「データベース的動物」と名づけておきたいと思う。
(P.140)
ポストモダンのデータベース型世界では、両者(※小さな物語と大きな物語)はもはや直接につながることはない。小さな物語は大きな非物語を部分的に読み込むことで生まれるが、同じ非物語からはまた別の小さな物語が無数に生まれるのであり・・・(中略)この透視的なポストモダンの超越性は、視覚的な近代の超越性と異なり・・・
(P.160)

正直なところ、このあたりの論考は、何を言っているのか分からない。これは批判というより、単にぼくが理解できないなぁということである。たしかに、著者は個々のキーワードについて論考を述べた上でこの結論部に来ていて、そのキーワードごとの論考には、「なるほど」と思う部分もあるのだが、それを統合する結論が「なぜそうなるの?」と感じる。でも、これは人文社会論考あるあるな気もする。なぜなら統合した結論を導き出すのは、数字データとサイエンス論理、すなわち自然科学的な手法ではなく、著者の脳内の神経回路の生み出したものでしかないからだ。そこにおける飛躍が理解できないのはむしろごく自然なことで、それこそ「誰にでも分かる」ように明確なデータと論理で作られていないこと自体を批判しても野暮と言える。そもそも、人文社会論考で著者の言いたいことが100%わかる人がいるならそれは著者そのものかもしれない(笑)。
ぼくとしては、本書はそういった結論よりも、個々のゲームなどの事例にひもづく議論の展開のほうが面白いし納得感はあった。


(Keyのノベルゲームが)90年代に現れた新たな消費者にとっては、現実世界の模倣よりも、サブカルチャーのデータベースから抽出された萌え要素の方がはるかにリアルに感じられる。したがって、彼らが「深い」とか「泣ける」とか言う時にも大抵の場合それら萌え要素の組み合わせの妙が判断されているに過ぎない。90年代におけるドラマへの関心の高まりは、この点で猫耳メイド服への関心の高まりと本質的に変わらない。そこで求められているのは、旧来の物語的な迫力ではなく、世界観もメッセージもない、ただ効率よく感情が動かされるための方程式である。
(P.114)

この引用箇所はなかなか強烈だ。「深い、泣ける」という言葉を発する人は、「自分はこの物語の深さを知った上で感動して泣くことができるほど感受性豊かである」というメッセージを含んでいると、大げさに言えば、言える。そのメッセージを見事に打ち砕く論考だ。ただ興味深いのは、こう書いていながらも、決してその事自体に対する批判のテイストは含まれていないことだ。たとえば、旧来の文学などの愛好家が「アニメ、漫画などを見ている人はレベルが低い」というようなことを言う場合(こんなことを言う人が現代にどれほどいるかはさておき)、文学=深い、アニメ=浅い、というような見下し構造を前提にした価値評価がある。しかも、その言説自体にはなんの研究的価値もない。それに対して、著者の論考は、事象の面について価値評価を含まずにフラットに記述がされており、そういう意味からも納得感が高い。


エヴァンゲリオンと言うアニメが、そもそも特権的なオリジナルとしてではなく、むしろ二次創作と同列のシミュラークルとして差し出されていたことを示している。言い換えれば、この作品でガイナックスが提供していたものは、決してTVシリーズを入り口とした1つの「大きな物語」などではなく、むしろ、視聴者の誰もが勝手に感情移入し、それぞれ都合の良い物語を読み込むこともできる、物語なしの情報の集合体だったわけである。
(P.61)

エヴァンゲリオンの今日に至るまでの作品の商業展開を知った上でこの文章を見ると、なかなか納得する。いまもエヴァンゲリオンは劇場版が作られて、公開されたり、延期されたりしているが、そこに対して「物語の続きを早く見せてくれ」という声があまり大きいとは思えない。どちらかというと、映画館で、縦横無尽にキャラクターが動く「公式同人を見たい」という希望のほうが大きいのではないかという気がする。これは著者の言う「二次創作と同列のシミュラークル」に通じるのかもしれない。

ということで感想としては、個別の作品や、類似する作品群を求める消費者(男性オタク)心理についての記述は秀逸だと思う。ただそれを統合した「ポストモダンの論考」はぼく個人としてはよくわからない。とはいえそれは著者にとっての知的誠実さを伴うチャレンジとして、それがまた議論の土台となっていくことを考えるなら、意義ある取り組みと思う。

★★★☆☆(3/5)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書) (日本語) 新書 – 2001/11/20
東 浩紀 (著)


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