[質問箱]勉強は何の役に立つの? なぜ学ぶの?
新R25の芸人「たかまつなな」さんの記事に触発され、学びの意義についてちょっとだけ再考してみようと思った。ちょうど、質問箱にも同様の問いが寄せられていた。
たかまつさんと同じく私も勉強が嫌いだった。まず「記憶=苦」だったので国語や社会は速攻で拒否。今でこそ活字中毒な私だけれど、かつては読書感想文のために「まえがき」「あとがき」だけを読む、がせいぜいだった。たぶん高校卒業まで一冊すらまともに読了したことはない。読書がとにかく嫌いだった。
なのに、いま私は日々たくさんの本を読みアカデミックな論文を渉猟している。文章術だって身に着けているし、マーケティングやPRも専門だ。IT業界や市場動向にも相当くわしくなった。畑違いっぽいところで言えばカラーコーディネートの資格も持っている。
だが、実はこれらはすべて「役に立つ」と思って先行的に学んだものではない。将来への投資として「今のうちに」と学習し始めたものは、実のところ一つとしてない。
良き人・環境・契機とのめぐりあいが学びに
「勉強=苦しみ以外の何ものでもない」という私にとって、やはり学ぶことはつらく、唯一得意だった数学や物理くらいが楽しみだった。プラス、工学に割と興味があった。だからだと思う。いつしか私は「JAXA(宇宙航空研究開発機構。当時はNASDAと呼ばれた)に行く」ことを夢みるようになった。実際、共同で卒業論文を書いた友人は今、JAXAで働いている。
端的に言おう。
私が上記のような知識や技術や資格を得たのは、良き人との出会いがあったからである。良き環境に恵まれたからである。必然性のある契機にめぐりあったからである。決して「役に立つから」学び始めたわけではない。
読書に目覚めたのは大学3年生の時だ。尊敬する先輩に出会い、この人みたいになりたいと一念発起。「大学卒業までに500冊読む=その時点の残り日数換算でほぼ1日1冊ペースを保つ」と心に固く決め、本気で実行した(結局、在学中に524冊読んだ。不眠不休みたいな読み方で汗)。それがきっかけで読書にハマった。
その後わたしは縁あって新聞社に入社したが、もちろんそれを予期して読書を始めたわけではない。後から振り返れば「読書経験があって良かった」「執筆によく役立った」といえる。が、当時わたしが目指していたのはあくまでJAXAだった。数式から文筆へ、進路が変わるとは思ってもみなかった。
文章術などのスキルも、記者になったからというより、エッセイや詩を美しくつづる書き手とめぐり遭い、「こんな文章が書きたい!」と思ったところから磨き始めた。もちろん後に記者になったことも「必然性のある契機」として文筆スキルの向上を後押ししたし、いまIT企業にいるからこそマーケティングやPRの技術も習得している。「役立つから学ぶ」が部分的な理由として今は顔を出している。
だが、結局のところ学びの発端となったのは「役立つから」という動機ではなかった。良き人、良き環境、良き契機とのめぐりあいが「主」だった。それが先であって、「学びの役立ち」というストーリーは後づけに過ぎない。
勉強が役立つかどうかは事後的にしかわからない
そもそも私たちは「今の勉強が将来どのように役立つか」を原理的に正しく知ることができない。
当然ながら、映画や音楽を楽しんだり、芸人のコントや友達とのコミュニケーションで笑ったりするには最低限の教養が必要で、そこに勉強の必要性はある。
産業革命以降の人類は「マニュアルを読んで仕事を把握し、命令の意味を理解して遂行できる社会人を育成する」という目的を教育のベースにした。その意味でいえば、国家経済から見た勉強の意味は「安価で良質な労働力を生み出すこと」となるだろう。
そんなにドライな言い方をせずとも、例えば文学に触れることによる「他者の生きざま、物語の疑似体験」や、歴史のプロセス・文脈や因果関係を知ることは、あなたの生活を少しだけアップデートするのに役立つ。読書も、読了することで「読む前とは少し違う新しいあなたになっている」という意味で意義があると言える。
こういった勉強の「利」は語ろうと思えば語れる。
しかし(ここが一番大事なのだが)残念なことに、これらの利が「あなたにも訪れる」かどうかは、実はわからない。あなたにとって読書が私と同じように意味を持つかはわからない。文学や歴史がどう活きるかもわからない。いま私が使っているマーケティングの知識やPR手法が、あなたの今の社会的ポジションで必ずしも役に立つとは限らない。
勉強についての汎用的な意義は先のように述べ立てることはできる。でも、それらがあなたにとっても同じように意味があるかどうかは正直わからない。そしてあなたは、その正確な解を先行的に知ることが原理的にできない。
なぜなら、勉強していく中であなた自身が変わるからだ。また、「この勉強を役立てよう」と社会に出ても、時代が変わり、「役に立つ」の尺度が変わり、あなたがいる環境が変わってしまうからだ。さまざまな出会いがあれば、当初想定していた「◯◯◯に役立つから」という勉強の理由(答え?)が通用しなくなったり陳腐化する。
あなたの勉強があなたにとって役に立つかを真の意味であなたが知る時は、おそらく物事が起きた後である。勉強の意義の多くは事後的に実感される。「学んでおいて良かった」という感懐として。あるいは「もっと学んでおけば良かった」という感懐として、あなたを後悔させるかもしれない。
もちろん、先行投資的な勉強が想定どおりに役立つケースもある。むしろ、現実的にはそのような投資的仕方で勉強がスタートすることは多い。だが、「今の生活を犠牲にして将来のために勉強する」みたいな態度には、比較的、継続性がない。しかもその行き方は、その年齢やその時にしか味わえない人生折々の瞬間を十分に楽しめなくさせたりする(何せ、それを犠牲にしているのだから)。当然、投資という選択もあっていいと思うが、出会いや契機にときめくことのできる「チャンス探し」もまた大切にしてほしい。少なくとも私はそう考える。
学びの「意義」はなかなか心に響かないが、勉強することが好きで心底楽しんでいる人の「喜び」は他人に伝染する。学ぶことが大好きな人のそばにいる友は、少しずつ感化され、学びの欲求を起動させられる。私自身がそれを実感しているので、理想論かもしれないけれど、私は投資的勉強から楽しむ勉強へと移行できる機会があなたに訪れることを望む。
さて、ここで倫理などの書に時々引用される、あるストーリーを紹介したい。
――南国の島にバカンスに出かけたお金持ちが、南国で遊びほうけている子どもに「なぜ勉強をする必要があるの?」と聞かれた。それに対し、お金持ちが「たくさんお金を稼いで贅沢して暮らすためだよ。例えばこうやってバカンスに来るみたいにね」と答えたら、「なんだ、今ぼくらがやってることじゃないか」と子どもたちにキャッキャと笑われた――。
大喜利的な価値転倒だが、この寓話はとても示唆的だ。
その上で、勉強をするかしないかは、あなた次第である。学びに関する問いへのアンサーも人それぞれだ。とはいえ、ひとまず現実的には学校という「環境」と「必然性のある契機」に応じて、周囲に倣い学んでおいたほうが得ではある(たかまつさんが語っていたとおり「学歴」などが意味をなす場面も現実的には存在する)。学ばなさ過ぎは、生きづらさにすら通じる。好きなことにめぐりあうまでは「仕方なく」でも常套だろう。学んだ方が得だ。で、好きなことができたら、そこから没頭すれば良い。
今、新型コロナウイルスの影響で、学びの価値が問われている。これを機会に、親子や友だちと語り合い、学びについて深めてみてはいかがだろうか。それ自体が、新たな出会いや契機につながり、勉強の道が開かれるかもしれない。学びモードに入るスイッチが押されるような――。
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