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長い夢。黒アゲハ蝶が教えてくれたこと。

 出来事としては1か月近く前のことだったのですが、その時の印象が自分が思った以上に体に浸透している感じがするので、記録として書き留めておこうと思いました。

 とてもとても長く、驚くほどに鮮明な夢を見ました。
 ストーリー自体にはそれほど大きな意味はないと思いますが、夢の中に出てきた街並み、そこに暮らす人々、出会った人と交わした会話、町の商店で売られていた品物、どれも今もはっきりと思い出せるほどにリアリティがありました。

 夢のストーリーをざっくりと書くと、友人や家族たちと旅行に出かけて、その旅先から一人で車で帰路に着こうとしている夢でした。
 友人や家族たちはまだ旅行を続けるようでしたが、わたしは自分の家に帰って落ち着きたいと思い、彼らに別れを告げて車に乗りました。

 途中とても巨大な地下街を通り抜ける必要があり、その地下街には車で通ることのできる道があるはずなのに見つからず、仕方なく車を置いて歩いて地下街を通り抜けようとしました。
 ところが道に迷ってしまい、また一旦車まで戻ろうとしましたが、元来た道も分からなくなり、たくさんの人に道を尋ねて周っている、そんな夢でした。

 地下街はとてつもなく広大で複雑に道が伸びており、商店がひしめきあっていて、多くの人で混みあっていました。
 中にはとても親切な人もいて、道を尋ねると「連れていってあげる」と言って荷物を運ぶカートのようなものに私を乗せてくれて、意気揚々と地下街を走って行ってくれたのですが、行き着いた先は私が行きたい場所ではありませんでした。

 目が覚めて、とても長い時間、知らない街をあてどなく歩き続けたような疲れと不安にぐったりしていました。
 久しぶりに「あー、夢でよかった」と心から安堵する感覚を味わいました。

 その日の夕方、所用のため車で出かけようと自宅の車庫に降りると、ちょうど母親が母親の友人と車庫で何やら世間話に花を咲かせていました。
 母の友人に挨拶をしていたら、一匹の大きな黒いアゲハ蝶が車庫に迷い込んで来ました。

 真っ黒でとても大きな羽を持つアゲハ蝶で、最初は母たちと「これはコウモリじゃない!?」と言ったほどでした。
 よく見るとやはり蝶々です。羽の内側の真っ赤な斑点がとても鮮やかでした。

 蝶は車庫の壁にそってぐるぐると飛び回り、なかなか出ていきません。出口は大きく開かれているのにそれに気づかず、出ることができないのです。
 母と私と母の友人で、飛び回る蝶を「ほんとに大きいねー」と言いながら眺めていました。このあたりであんなに大きなアゲハ蝶を見かけるのはとても珍しいのです。
 それから2,3分ほどして、蝶は無事に車庫から出ていきました。

 その蝶を見た翌日のこと、自分の中にこれまで感じたことのない実感が生まれていることに気づきました。
 その感覚を単純に言葉にすると、
「何度でも死ぬけれど、何度でも生まれ変わる」という実感でした。

 現に、自分はこれまで何度でも死んだことがある。ということと、
 そのたびに「必ず」生まれ変わってきた。という、ふたつの実感がありました。

 それは「絶対に死なない」という感覚とも言い換えることができます。

 誤解を恐れずに言えば、実はだれもが「不死身」なのだと感じたのです。

 不死身・・・この今まで感じたことのなかった自己概念は、またさらに不思議な感覚を想起しました。

 わたしたちは肉体的に、心理的に「傷つく」という体験を人生の中でいやというほど繰り返し味わいますが、どれだけ傷ついても「死ぬことはないんだ」という、奇妙な安心感を感じました。

 またその一方で「死ねないのかー・・・。それは大変だぞ。」という、最も受け入れがたい事実を突きつけられた気持ちがしました(笑)

 死によって終わりにできることなど、何ひとつないんですよね。。。
「課題」は肉体の死という見かけの死で、リセットすることはできない。
 そういう意味では、人は必ず、自分の課題を自分で引き受ける覚悟をしなくてはならないのです。

 実は人が一番恐れているのは、肉体の死ではなくて、生老病死の幻想の輪から抜け出ることができないという、そのことの方なのではないかと思いました。
 仏陀が死にもの狂いで修業に励んだのも、その恐れに駆り立てられてのことだったのかな?そんなことも思いました。

 最近、偶然見た二つの動画に「あきらめる」という言葉の語源についての説明がありました。
 「あきらめる」の語源は「明らかにする」ということなのだそうです。
 これを聞いたとき、なんだか深い安堵感を感じました。
 「あきらめる」とは、自分自身に対して明らかにするということ。
 今まで認めることができなかった、受け入れがたい自分の一部を、自分に対して明らかにする。
 何かでごまかしたり、他の何かのように見せかけたり、片目だけつぶって曖昧に見たりしないで、それそのものを、ありのままに見る。
 そして「ああ、そうだったんだね。認めるのがとても怖かったけど、そうだったんだね。」と受け入れる。
 降参する。
 そして、勇気をもって自分に対して明らかにしたものを「抱きながら」生きていく。
 何かを「あきらめ」、そのありのままを抱くことができた自分は、以前の自分より大きな自分になっていますね。
 「あきらめる」とは、とても深い受容であり、統合のプロセスそのものなのかもしれないですね。統合・・・つまり輪廻というストーリーからの解脱です。

 もし不死身ということが真理なのであれば(古今東西の覚者はそう太鼓判を押していますが)、その気が遠くなるほどのプロセスを、なるべく苦しみなく通過するために「あきらめる」という心の持ち方は、とても大きな助けになるのではないかと思いました。

黒いアゲハ蝶がもたらしてくれた言葉無き教え、とても大きな恩寵でした。


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