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『キーパーズ』の感想と、ハラスメントの記憶について
こんにちは。
ほえーるけいこです。
先日、『キーパーズ』というドキュメンタリーをNetflixで見ました。非常に思考と心が動くものがあったので、感想文を書いてみようと思います。ただの感想文で、特にまとめようという意思は持たずにつらつらしております、すみません。
何度も書いていることですが、私自身はアルコール依存症の家族を持つサバイバーです。抑圧していた辛い記憶を30歳前後から少しずつ紐解き、解消していくことになり、そのことが家庭内の問題解決にもつながりました。ただ、その当時頼れる専門家が身近におらず、図書館で関連書籍を根こそぎ読み耽り、トライ&エラーを重ねてなんとか前に進んできたという感じなので、自己流でなんとかした人であることには留意いただきたいと思います。
権威的なるものと、ハラスメント
『キーパーズ』自体は2017年に製作されたドキュメンタリーで、概略は以下のとおりです。ネタバレを多く含んでいますのでご了承ください。
”1969年にボルティモアで発生した高校教師シスター・キャシー・セスニック殺害事件。彼女の元教え子2人が、この未解決事件の調査を開始する。”
私は宗教、カルト関係のドキュメンタリーを見るのが好きです。人の心の複雑さがよくわかるようで、面白いので。今回のこの番組も、そんな興味の延長線から見始めました。そして内容を見ていくうちに、このシスターの殺害の背景には、カトリック教会の司祭による性的なものを含む各種虐待、ハラスメントがかなりガッツリ含まれている作品だったのだ、ということがよくわかってきました。
アメリカのメリーランド州のボルティモアは、カトリック信者の人口が多く、教会自体もとても力を持っているお土地柄なのだと番組を見る中で知りました。ものすごく簡単に書くと、カトリックは教会を通じて神様と関わる仕組みを持っているので、聖書の上での罪を犯すと、教会の司祭を通じて神様に罪を告白することになります。この仕組みを悪用し、個人情報をつかんで教徒の子どもたちに性的虐待を与えた司祭とその周辺人物がスポットライトを浴びるのが、このドキュメンタリーというわけです。
もちろん多くの宗教者が真面目にこの役割を果たしていることと思いますが、近年非常に多く取り沙汰されている、カトリックの聖職者によるハラスメントが可能だった背景には、こんな仕組みがあったのか、ということがとてもよくわかりました。
年上だったり、権威を持っていたり、コントロールを握りやすい立場にあったりする人からの暴力的な振る舞いから、こどもが逃げ出すということは決して簡単なことではありません。もともと深い傷を負っていたにもかかわらず、聖職者からさらに非常に苛烈な虐待を受け、トラウマを深める出来事に遭遇した女性の証言は、「抜け出すことの難しさ」を非常によく表しているなと思いました。「嫌なら逃げればいい」というのはよく言われることではありますが、自分自身が様々な意味でコントロールを握られている相手から逃げるというのは、実は相当に意志が強く、信頼できる人がそばにいないとできることではありません。というか、そんな人がいても100%抜け出せるわけでもないように思います。大切にしてくれる人にほど、「心配かけたくない」と思うのが人情ではないかと思うので。私自身のトラウマは彼女のものとはまったく異なるものですが、「わかるわ〜。そうだよね〜。」と首がもげるほど頷いてしまいました。
「抑圧された記憶」とタイムラグ
また、「抑圧された記憶」についての表現も、非常に興味深いものでした。ドキュメンタリーに出てきた多くの被害者も、生きるために記憶が巧妙に抑圧されていて、それが再び出てくるまでにかなり長い時間を要しています。私自身もトラウマ的な記憶を振り返るようになって初めて、「こんなに記憶が抜け落ちてたんだ」と驚きました。そうなると、「自分が誰なのか」みたいなところから色々グラグラしてきてしまって、ものすごく不安になるし、思いを言葉にすることも、(もともと人と会うことが嫌いなタイプではないのに)人と会うことも怖いと思う時期があったことを思い出しました。記憶がないということはそのくらい、当事者にとって恐ろしいことなのだと思います。
記憶が蘇るということは、少し日常に余白ができたり、成長してさまざまな面でスキルアップしてできることが増えたことで、安心できる場面も増えたりすることで起こることなのだろうなと、個人的には感じました。だからこそ、自分自身をある程度生きてこないと思い出すことが難しい。トラウマを持つ人の多くが記憶を思い出し、その行為を糾弾したり、相手を提訴するまでにものすごく長い時間を要するのは、こんな仕組みが背景にあるのだと思います。
ただそのことがあまり社会的に理解されず、心理学者の中にも「あれは嘘です」と言い切ってしまう人が過去にいたということ。被害者を「なんで今更蒸し返すんだ!」と糾弾するような展開に繋がってしまうこと。そしてそれが、現代でも起こりうること。そのことには、なんともいたたまれない気持ちにならざるを得ませんでした。
自分にできることはなんだろう
このようなドキュメンタリーを見て共感を感じられるほどには、辛い経験を通じて成長できた自分がいるのだなと思う一方で、では、自分にできることはなんだろうということも考えさせられました。現時点で出てきた答えは、「目の前の出来事を、決して簡単なことだと切り捨てない。深く理解しようと考え続ける。」ということでした。
もちろん虐待をした聖職者は罪を償うべきですが、彼はもう亡くなっているので生きて、彼が生きた社会の「法」のもとに罪を償うことはできなくなってしまいました。非常に理不尽です。だとすれば、非常に複雑な出来事の真相を知ろうとすること。自分が今理解している内容にこじつけるようなことだけはしないこと。そのためにできる努力を重ねていくことが、とても大事なのではないかと感じています。なぜならそれは、自分自身の、そして自分以外の誰かの、辛い記憶を過小評価しないということに繋がるのではないかと思うからです。人ひとりにできることはそんなに大きくないですし、決して簡単ではありませんが、それでも。
ちなみに、このドキュメンタリーで扱われている、司祭による虐待の部分に関しては2023年に進展があり、州司法長官事務所によって報告書がまとめられ、大司教は謝罪をしたのだそうでした。それで被害者の傷が癒えるわけでも、当たり前の日常が戻るわけでもないとしても、遅すぎたとしても、それでも。
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