海外SF小説『アインシュタイン・シーソー』最終回(全5話)
"The Einstein See-Saw" by Miles John Breuer
作・マイルズ・ジョン・ブロイアー
翻訳・広真紀
初出『アスタウンディング・ストーリーズ』(1932年)
悪の科学者を調べていたフィルとアイオナは不思議な超宇宙空間に迷い込む。
第5話「可逆方程式」
しかし、絶望している場合ではなかった。いまは自分たちを鼓舞する時だった。ヒリヒリする喉の乾きと痛烈な飢えとで悪態をついたり泣いたりするのをやめ、フィルは歩いたり座ったりを繰り返し、一方、アイオナは座ったまま、じっと考え続けた。
いま彼女の心の中で漠然としたアイデアが形成されつつあった。それは希望がもてそうに思えた。彼女はそれを具体的な形にしようと必死で思考を巡らせた。潜在意識の奥底にある形のないアイディアを顕在意識のレベルまで引っ張り上げるのは、野生動物との闘争、戦列艦による海戦、エースパイロット同士の空中戦に匹敵する緊迫した戦いだ。いずれも命がかかっているのだから。
「アイオナ!」フィルが叫んだ。彼が彼女のファーストネームを呼んだのはそれが初めてだった。 「どうしたんだい? 何を緊張して――」
「それよ!」アイオナは興奮して大声を上げた。 「緊張(Tense)! テンソル(Tensor)! それだわ!」
フィルはびっくりして彼女を見た。彼女は笑っていた。最初は強張っていた笑いが、徐々に彼女らしい晴れやかな笑いに変わっていった。
「心配しないで、私は狂ってなんかいない。脱出する方法があるはずがないかずっと考えていたら、あったのよ。それも実に簡単なこと。あなた、覚えてるでしょう? 蔦を引っ張った時、それと、獣を蹴った時に感じた気持ち悪い揺れを? あれはテンソルのせいよ。物質と空間は密接な関係にあるため、空間に乱れが生じたの。つまり、物質が空間を出入りする時に揺れが起きる。あの時は物質が小さくて揺れは小さかったけど、もっと大きなもの、たとえば百ポンド近い鉛か何かなら――」
「それならあるぞ!」フィルは叫んだ。 「金庫だ!」
「そう、金庫!」アイオナも叫んだ。
「その揺れでシーソーを揺らそうってわけだね」
「金庫の重さが判れば詳しい計算できるんだけど――」
「計算なんか要らないよ」フィルが言った。「これ以上状況が悪くなることなんてない。まず、実行だ。計算はその後でいい」
二人は金庫の背後に回り込んで力いっぱい押した、しかし、二人の力を合わせても動かすことは難しかった。金庫がピープルズ・ガス・ビル(*!")のように思えた。二人は絶望して座り込んだ。
「無理だわ」とアイオナは言った。「たとえ押すことができても、空間に投げ込めむなんてできない。大砲でもないと」
「大砲なんてないよ」とフィルは言った。
「大砲でなくても、そう、ぱちんこみたいなものでも――」
フィルは立ち上がった。
「ぱちんこ! それだったらあるよ! 蔓だ!」
二人は立ち上がって走りだした。ティンカートイの生き物の「宇宙」を通り過ぎようとした時、獣たちが数匹襲ってきた。そのうちの一匹がアイオナの踵に当たって、揺れが起こった。彼女が悲鳴を上げたので、先を走っていたフィルは引き返し、一緒に獣を蹴散らした。
近くにいるティンカートイのような生き物に気づいて、
「あの木のボールを投げつけよう」
木のボールのサイズはさまざまで、フィルは野球ボールくらいの大きさのものを選んで、もぎ取った。と、急に激しいめまいに襲われた。アイオナの声が聞こえた。
「それはだめ!」
フィルはいつのまにか地面にうずくまっていた。アイオナが心配して、彼の膝に手を添えていた。
「あなた、気づいた?」彼女は喘ぎながら言った。「別の宇宙に引き込まれそうだったのよ」
「大きすぎたんだな」フィルは言った。「ありがとう。注意する。今度はもっと小さいものにする」
彼はゴルフボールよりも小さいボールに手を伸ばし、慎重に引っ張った。抵抗はあったが、ボールはじわじわとこっちにきた。重そうだった。と、ボールがひび割れた。彼は後ろ向きに倒れた。吐き気がした。彼の手にはボールでなく、重い木の棒が握られていた。棒の長さはボールの直径と同じ長さだった。
「理由はわからないが、さっきのボールだと思う」と言うと、二つに折り、二本の棒にした。
「理由は簡単よ」とアイオナは言った。 「ボールは棒の断面で、この「宇宙」で私たちに対して直角に成長したもの。私たちは三次元断面だけを見ているの」
「仰せの通り」とフィルは言った。 「キャベツと王様(*13)。私はあなたのしもべです」
蔦の「宇宙」に到着した。慎重に調べた結果、同時に二本を引っ張ることができるとわかった。蔦は驚くほど伸びた。フィルは蔦を左腕に巻き付け、ベルトに棒の一本を突き刺した。もう一本は手に持ち、獣が襲ってきたらそれで殴るつもりだった。
元の場所まで戻り、蔦で金庫をぐるぐる巻きにした。
「どれくらい巻く?」フィルは訊いた。「三〇回四〇回は必要かな」
蔦を金庫まで引っ張ってくる作業を何度も繰り返した。そのたびに棒で獣と戦った。服は破れ、足から出血した。喉はからからで、唇が干からびた。獣たちは何度棒で叩かれても襲ってきた。機械的とも言える凶暴性を持っていた。硬すぎて退治することはできなかった。追い払うのが精一杯だった。九度目の作業で、金庫に到着した時、アイオナが倒れた。倒れた彼女を蔦が引きずり始めた。金庫に蔦を巻きつけていたフィルは慌てて彼女を救い、彼女の持っていた蔦も金庫に巻きつけた。
彼女が獣に噛みつかれた時、フィルは逆上して、棒を振り回し、獣を空間に投げ飛ばした。獣がいまの宇宙から別の宇宙に飛ばされた時、フィルは傾きを感じた。それから彼は力を振り絞って金庫を押した。金庫は数インチ動いた。フィルは棒を梃子(てこ)として使うことにした。金庫はさっきよりスムーズに動いた。アイオナも手伝おうとしたが、あまり力にはならなかった。
フィルは片手で彼女を抱き、ふたたび梃子を動かした。別の生き物が二人の踵に噛み付いた。後ろ足で蹴り飛ばし、金庫を押し続けた。金庫が動くに連れ、景色が変わった。それがアイオナを元気づけ、彼女も押した。蔦の伸縮力のおかげで金庫はどんどん前に進んだ。フィルが最後のひと押しをしようとした時、アイオナが彼の背中を引っ張った。
突然、沈んでいく感覚と恐ろしい目眩を感じた。噛み付いていた動物はどこかに消え、二人は蔦の森の手前にいて、金庫が絡み合った塊の中に落ちていくのを見た。視界が風で渦を巻く葉っぱのようにぐちゃぐちゃになり、そしてバンと音がして消えた。
二人は気分が悪くなったが、すべてを目に焼き付けおきたかった。水、キュビズム風の崖、ボールが鈴なりに群がる蔦宇宙が現れては消えた。虚無の宇宙、それから、まだ見たことがないため認識できないぼやけた光景。目眩と吐き気がやわらいでくると、目の前に広大な黄色と青、巨大星雲、二色の太陽、たくさんの月を持つ環状惑星群。二人はコンクリートの上に半分横になったまま、その景色を驚きを持って見つめた。数秒たつとそれも色褪せ、再び吐き気に襲われた。ぼやけた風景の連続。最後には、無数の球体、リヴァイアサンのいる水域、蔦の森が走馬灯のようにぼやけて消えた。吐き気がひどくなった、二人は地面に伏せたまま起き上がることが出来なかった。
いくらか目眩がおさまると、再びぼやけた景色があった。列車のスピードが減速するのを窓から見ているような印象がした。景色は数秒で移り変わった。月明かりの下、広漠とした自然のままの氷河の山脈、雪を冠った頂。徐々にフェードアウトし、次のシーンが始まる。フィルとアイオナを再び吐き気が襲った。何度も見た、木の生き物、蔦の森、水、球体、よくわからないぼやけた景色が続き、一時停止した後、また星雲と輝かしい太陽。
「わかったわ!」アイオナは叫んだ。 「金庫があまりにも重かったので、揺れが激しく、遠くまで行ってしまってたのよ。でも、いま、戻ってきた」
「この状態が、ぼくたちがシーソーから叩き出されるか、あるいは老猫が死ぬまで続くわけだね」とフィルは言った。
揺れは繰り返し続いたが、目眩は軽くなってきた。周囲の景色を見まわす余裕が出来たので、フィルは星雲と山脈の間隔を測ろうと思った。それでシーソーの支点が見つけられる。数回の揺れで、二人は支点に近づくことができた。トニーのラボの窓と機械がぼんやりと点滅して見えた。
「ぼくは悪いことばかり考える性格じゃないけれど、どうやって正確な場所を割り出すの?」
「数学が言ってるわ」アイオナは屈託なく答えた。「空間の自由振動セグメントはそれ固有の空間の残りとパラレルな位置で自然と平衡状態になるんじゃなかった?」
星雲でも山脈でもないところで揺れが起こった。両端の景色が急速にぼやけ、トニーのラボが見えた。
「ここだ」フィルが言った。
二人はドスンと落ちた。
バン! バン! バン!
ハンマーを打ち鳴らしたような音で二人は目覚めた。ぼんやりと周囲を見回すと、ラボは真っ昼間だった。しかし、中の様子は昨夜から一変していた。焦げたゴムと熱油の臭い。大きなワイヤーの輪が垂れ下がっている。機械と装置は雪だるまのように溶けて、スクラップの山となっていた。机の上に腕を広げた人間の死体があった。肘まで燃え尽き。服には大きな焦げがあった。顔は識別できた。トニーだった。
「何かが起こったんだ」フィルはごくっと息を呑んで言った。
「金庫を投げ込んだことによる揺れが途方もない電場を作り出したんだと思うわ」アイオナが説明した、「可逆反応ね。場が空間を揺らしたことで、空間は場を作る。その場はトニーには大きすぎたのよ」
その時、ドアが開き、警察がラボに突入してきた。
(完)
*12 ピープルズ・ガス・ビル シカゴに実在する建物。
*13 キャベツと王様 ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』の「セイウチと大工」の詩の一部。
画像はrambotentによるPixabayからの画像
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