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テキ屋家業
引っ越し
小学校5年生の5月頃、念願の都営住宅に当選し、
戸山ハイツ33号棟の最上階14階に引越した。
眺めは最高だ
小学5年生の5月ごろ。
丁度、西向天神のお祭りと引越し日がぶつかって、新居で荷ほどきをしている父親にどうしても祭りに行きたいと伝えた。
大した荷物の量もないのだが時間に追われながら淡々と作業をこなしている不機嫌で余裕のない父親に何度も交渉した。
そして渋々了承した父親にいただいた1000円を握りしめ、少し歩けば歌舞伎町という立地に立つ小学校近くの西向天神へ向かった。
初夏の夜に本能を引きつけるかのように灯っているテキ屋の温もりを目指しチャリを走らせた思い出がある。
夜のテキ屋の雰囲気は、先を見ることができず不安にかられていた小学生には現実を一瞬だけ忘れさせてくれる何とも表現し難い魅力を秘めていた。
毎年毎年、西向天神のお祭りは待ち遠しく、お祭りの時期に近づくと、学校の行き帰り、神社の掲示板を確認していた。
お祭りの数日間は毎日朝から夜までずっとへばりついているお祭り大好きな小学生だった。
テキ屋
今は神社の敷地に屋台が並ぶことはないが、小学生当時のテキ屋の数はかなりのもので、10段程度の階段で二層になっていた神社の境内に隙間がないぐらい屋台が並んでいた。
子供のはしゃぐ声も朝から晩まで続き、オレにとってはいるだけで寂しさを忘れさせてくれる癒しの児童養護施設にいるかのようだった。
テキ屋の売り物もいろいろあった。
お好み焼きは、通常300円、子供サイズは100円。
テキ屋の兄ちゃんに、ちんげが生えているか確認され、生えていなければ子供サイズを買うことができた。
グローブジャングルを取り外した所で営業していたお好み焼き屋は今も忘れることはない。
毎年下ネタ満載のやり取りだったが、昭和末期の粋な言葉の掛け合いを笑顔で楽しんだ。
少し暖かくなってきた季節。
ぬっぺりした茶色い土の上に神聖な場所に立っていそうな荘厳な木々がしっとり佇み、戦没者慰霊碑が少し適当な配置で立ち並ぶ湿度の濃い神社の空気感をツルツルもボーボーも楽しんでいた。
モナカの皮ですくうカメすくいの背中に1000円がゴムでくくりつけられていたり、一等が当たるはずのないクジや、手作りの回転盤に描かれている爪楊枝のような100枚当たりの極細エリアを狙ってソースせんべい屋に列を作ったり、いつもだったら欲しくもないその場しのぎのオモチャを手にして、友達とどーでも良い話を延々と繰り返していた。
俺の出店ランキング人気1位の型抜きは、店主に来るなと言われるぐらい天性の才能を発揮した特技だった。
ピンクや黄色の粉で固めた3センチ✖️2センチぐらいの薄いプレートに動物や食べ物などの押し型がしてあり、それを押しピンで彫っていく。
無事形通りに彫り上がると、壊れないようにそーっと手のひらに乗せて店主に見せる。店主が合格を与えれば難易度に見合ったお金がもらえる。
少しでも手元が狂えば、簡単にヒビが入り少年達の一攫千金のチャレンジを台無しにしてしまう。
この博打的なやり取りに夢中になった。
こなれているガキ達は、店に備え付けの押しピンを使わずにシャーペンに一工夫を加えた道具を使う。
マチ針の頭を壊し、お気に入りのシャーペンにマチ針を通す。
普通の針だと太くて通らないのだ。
マチ針が最適だった。
2ミリぐらい針先を出し、丁寧に筋の周りを削っていく。
オレは中抜きと言われるやり方でガンガン抜いた。
抜くと難易度に見合ったお金をもらうことができた。
一時期、シイタケ坊やとテキ屋のおじさんに言われるぐらいシイタケを連続で抜きまくった。
シイタケは300円ぐらいもらえた。
夜まで来ないでくれと言われ行けなくなった事があった。
人生で初の出禁だ。
いろいろやらかしてきたオレは40歳手前で知り合いの店を2軒出禁になる。
型抜き屋、魚串屋、寿司割烹、合計3軒だ。
型抜きは、集中して針を刺し、型を抜くとお金がもらえる。
サラリーを稼ぐ大人になったような気分だった。
仕事で稼ぐ感覚を味わっていたと思う。
とにかく朝から晩までベニア板のローテーブルで繰り広げられる彫り物に取り憑かれていた。
朝、親からもらったお金は、帰り際まで残っていることもあった。
針仕事をしている時間が長く、成功するとお金をもらえるから、持っていった1000円が減らずに残っていた事もあった。
テキ屋に借金
型抜きが人気の時代は2、3件、同じお祭りに営業している事もあった。
西向天神の神輿が祀られている建物のところに陣取っていた型抜き屋に一度借金をして彫った事があった。
だか、そのチャレンジは失敗し、家に帰ることになる。
少し後ろめたい気持ちだったと思う。
その話をにいちゃんにしたら、俺が払うから今から行くぞと言われ、一緒に行き100円を返した事があった。
にいちゃんは呆れたテンションで、コイツ、テキ屋から借金してきやがった。
とんでもねえやつだとオレの先々を憂いた。
言われたオレは複雑だったが、睨みつけるようにテキ屋に100円を渡すにいちゃんはオレのことを守ってくれているようにも感じた。
おそらく子供に借金させてまで商品を渡したテキ屋を睨んだと思う。
元々にいちゃんは青森から出てきた若い時、テキ屋だった。
様々な種類の屋台をやったらしい。
その名残で住んでいたアパートと区画を区切る昔ながらのブロック塀との狭い隙間で誰が見ても立派な金魚を飼っていた。
90センチか120センチか、幅広の水槽を横に3つぐらい並べて、大きさごと、種類ごとに分けて飼育していた。
丸々とした身体に引きずるようなヒレを優雅にまとわせ、手入れの整った水槽は、夏空が似合う涼しげな都会の粋な隙間水槽だった。
興味深そうに金魚を眺めているオレに一言二言、学校では教えてくれない話をしてくれた。出目金は飼うのが難しい。
すぐ病気になる。
とか、
ジャイアンツはアメリカのチームが本物だとか。
色々と教えてくれた。
にいちゃんはギョロっとした出目金のような大きな目にくわえタバコの煙が立ち上り、涙目でこまめに水替えをしていた。
時折、口遊む唄は故郷青森弘前のねぷた祭りの太鼓の音のみだった。
160ぐらいしかない体格だったが、小兵の相撲取りみたいで体幹がしっかりした体つき。
腕っ節も強かった。
おそらく若い時は腕力で生きてきたタイプだと思う。
近所で泥棒を2回捕まえて警察から表彰された事を奥さんの【ばあちゃん】が話してくれた。
ばあちゃんの表情は誇らしげで幸せそうだった。
水曜日の永世中立国
癖のあるにいちゃんだったが惚れていたに違いない。若くて強い男を頼って結婚した気立ての良いばあちゃんは、優しく大好きなお婆ちゃん代わりの人だった。
米どころ新潟の出身で、ご飯を炊く姿が今でも焼き付いている。
実家の農家から送ってもらっていただろうコシヒカリをガス釜でツヤのある真っ白な白米に仕上げ、丁寧にまぶしている姿。
狭い木造のアパートに立ち上がる湯気を毎週水曜日の夜は楽しむことができた。
水曜日はにいちゃんが商店街の八百屋にアルバイトに出かけてる。
その日は都会の負のエキスを絞り集めたような我が家で夜飯を食べずに済んだ。
水曜日、学校から帰って丘荘という古びたアパートに向かうと、ばあちゃんが笑顔で向かい入れてくれた。
本当のおばあちゃんのように暖かく、ゆっくりした時間を作る人だった。
お金がないのか、あまり美容室に行けなかったんだと思う。
背中あたりまで伸びた髪は、いつもスカーフを巻きつけ、ピン留して縮毛の髪をまとめられていた。
エルメスのスカーフを今からプレゼントしにいきたいぐらいだ。
上着は昭和な柄物のブラウス、そして母親も履いていたようなセンターにプレスが入っている紺か、黒のストレートパンツ。
いつもそんな感だった。
当時の水曜日、フジテレビは面白かった。
アラレちゃんからドラゴンボールへと黄金のバトンリレーをしたり、川口探検隊が放映されていたと思う。
あの頃のフジテレビは好きだ。
ばあちゃんは花札も付き合ってくれた。
勝ちたいオレは札に爪で跡をつけてコイコイに挑んだが、それを察しているのかいないのか、どちらにせよばあちゃんの勝負勘は鋭く、オレが負けることが多かった。
歌舞伎町の屋台で培われた経験がものを言うのか、貫禄ある札の打ちっぷりだった。
そしてその頃、正体を知らなかったコックリさんの呼び出し方を教えてくれると言ったっきり、その約束は果たされず今に至る。
食事もしっかり作ってくれた。
鶏肉を細かく切って濃い塩胡椒味で仕上げたご飯がすすむ逸品は舌が覚えている。
品数は少なかったが、やりくり上手な仕事を感じ、それも含めて温度感のある温かい夕食だった。
どんな人生を歩んできたか、よくわからないが、母親と同じ屋台をやっていて、にいちゃんと結婚し、一緒になってたこ焼き屋を始めたと思う。
白衣でたこ焼きを焼く
たこ焼き屋は風林会館前の屋台街の顔になる位置にあり、表通りに面した立地的に恵まれたところにあった。
今は表通りに面した販売口は閉じられ、横並びのお店と一緒になっている。
母親に連れられて屋台で遊ぶ時は、いつもにいちゃんばあちゃんのたこ焼き屋に行き、邪魔にならないように小さくなりながら足元に座って二人が仕事をする姿を見上げていた。
あらゆる欲望と世間には出回らない本物の狂気とギラギラした大人が徘徊する繁華街として圧倒的な魅力が当時の歌舞伎町にはあり、その真ん中でたこ焼き屋の油の匂いにまみれてオレなりに歌舞伎町を楽しんでいた。
たまにテレビでお馴染みの有名人が顔を出す。
忘れられないビジュアルの方が1人いた。
アゴが長い長身の元気なおじさんが狭い屋台の販売口に大きな顔を突っ込んで注文した時は驚いた。
完全に猪木だが、おじさんは笑顔で猪木であることを何度も否定し、オレをからかった。
にいちゃんばあちゃんもオレと猪木のやり取りを笑顔で嬉しそうに見守っていた。
たこ焼きの味は改良を加え、ヒット商品を生み出そうと必死に見えたが、改良してもオレの好みの味ではなかった。
スタンダードなたこ焼きが好きだから、個性を狙ったたこ焼きがあまりしっくりこなかった。
アパートの敷地内にあった共用の手洗い場でタコをさばき、粉物もそこで混ぜていたと思う。
その作業を見ていると1つ2つタコブツを口に入れてくれた。
おそらくオレのタコ好きはここからきているのかもしれない。
たこ焼きと一緒にトウモロコシや中華まんも売っていた。
大ぶりな中華まんは寒い冬にかなり売れていた思う。
これは美味かった。
店先右側に置かれていた蒸篭から立ち上る甘い湯気が前を通るたびに思い出される。
専門学校の時、左耳にピアスをし、金髪、サングラスで開店間際のお店を通った時、「なにチャラい格好してんだ。女みたいに飾り付けて」オレの印象が小さい時で止まっているのだろう。
いつまでも可愛く坊主のままでいて欲しいのかなと思っていた。
「大久保ばあちゃんは元気?奥にいる?」
「知らない。大久保ばあちゃんは嫌いだ。」
それで会話話終わり、肉まんを20個ぐらい持たせてくれた。
屋台の前での何気ないやり取りが、にいちゃんとの最後の会話だった。
その時もビシッとして白衣だった。
新宿三丁目に白衣を一緒に買いに行った思い出が忘れられない。
<写真>昭和57年・七五三・新宿区落合付近・じいちゃんと。
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