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(過去記事)Yuri Pattison、長島有里枝、文化展に向けて

(この文章は過去に書いたブログの移植です。今後最新のものを投稿できればと思います)

2016/10/6

今月10月号の美術手帖に取り上げられた展示の内、2つを実際に見に行っていた。

一つはロンドンの Chisenhale Gallery で開催されたユリ・パティソンの個展。
ポスト・インターネット世代の旗手として紹介されている。

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あの展示室内に入った瞬間の、何か爬虫類系の水槽の中に入ったような感覚を思い出す。

室内右手奥に配置されていた《ユーザー、スペースのための半避難所》には観葉植物が構成されていたり、エンドレスで流れる環境デザインイメージのような動画などが組み合わされていたり。

ただ僕が伺った際は、丁度作家同士の交流会のような時間だったのか十数人の人々が作品空間の中の椅子に座って談笑していたり、テーブルにコーヒーカップを置いていたりしていて、美術手帖で紹介されているような「生気のない環境」というよりも、そんな空間はむしろ当たり前でもうそこに慣れた人々が何気なく「表面的な無機を受け入れて生活する」ような空間という感じだった。

まだ中々その輪へ声をかけるほどの勇気はなかったのだが、それでもその出くわした状況に更なる面白味を感じる良い機会だったと思う。

もう一つの展示は、神戸のデザイン・クリエイティブセンターで開催された、長島有里枝の『縫うこと、着ること、語ること。』展だった。

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何枚か男性の写真も展示されていることに美術手帖のインタビュアーも触れているのだが、そこは僕も気になっていたところだった。

あれだけ女性や母親などのテーマ性が感じられるなかでの敢えてのの男となると、そこには少々居心地の悪さを感じざるを得ない部分も見え隠れするのではないかと思うのだが、写真に写る彼はそうではないのだ。

インタビューに対して作家は答える。
「写真をやっていると男女関係なく、どうしても撮りたいと思う人に出会うんですが、まさにそれで。…展示のアウトラインはあったけれど、こういう偶然性とか、自分の感情の経時変化を排除したくないと思って、男性や風景も撮り始め、展示に入れたのです」

作ってるとき、特にある展示がもうすでに決まっている状態である程度のプランを持っている際に出くわすこの感覚にどう対処すべきか、けっこう悩みどころではあると思う。

ある意味めちゃくちゃ楽しい瞬間であるけど、それをむやみやたらにくっ付けるだけでは展示にならない。それを主題とした上での提示や文脈づくりである以外は。

今月の21、22、23日に遠州横須賀街道ちっちゃな文化展に出展させて頂く。/http://kasaiya5.web.fc2.com/

制作に向けて明後日から3日間、現地で滞在して取材や実験を今年も行おうと思っている。
文化展の中でもスポットライトの当たる場所を有難いことに頂いたこともあり、感覚を鋭くして当たりたい。

ただ現地での制作という最もレジデンスらしい作品は、正直昨年のものを超えることは僕にはできないだろう。

逆に言えば最も正統派で王道なアプローチによるものだった。
今年はそこへ挑戦的な色をもう少し加えたいと思っている。
軽いプランはあるが、どうなるかはまだ分からない。

明日からの滞在で出会う魅力的な何者かにどう対処するのか、一つのプロセスを今回は見つめてみようとも思う。

前回出展作品《Replaying》

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