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thanatos #4

   6.

 ――新潟県 佐渡島南部 佐渡島基地――

 まだ残暑の残る9月であった。日本人とイタリア人のハーフであるナターシャ・トルスカヤは、戦場ジャーナリストとして母親の母国日本へと足を踏み入れた。
 そこは佐渡沖対馬海流が流れている影響から暖流と寒流の接点にあるため、植生が極め豊富であり、島内で北海道と沖縄の両地方特有の植物が同居する、非常に珍しい植生地域であった。ナターシャはこの佐渡島基地にユニークな大尉がいるとの話を聞いてやってきた。少年飛行隊の中でもナンバーワンの第302飛行隊を、訓練生の頃から育て上げた男に彼女は興味を引かれたのだ。
 井澤修三大尉は2メートル近い巨漢で人を圧倒するオーラを放っていたが、隊員たちの信頼と尊敬は他に類を見ないほどであった。それでいて女性の客に対してはよく気がつく二枚目な所もある。間違いなく年上好みの女の目を釘付けにするであろういい男であった。
 302飛行隊自体は五つの小隊からなる10名で構成されていた。全て成人式も挙げていないような少年たちである。彼らの屈託のない無邪気な笑顔にカメラを向けるたび、心を何かでえぐられるような痛みが走った。ナターシャが基地へ来てから程なくして一つの小隊が行方不明となって彼らは空から帰ってきた。しかし悲しみの雰囲気は一日もしないうちに消え失せるのである。既に彼らの中で死というものが当たり前のものとなっていることに、知っていたにもかかわらずナターシャはその時初冬の木枯らしのような衝撃を受けた。
 彼らの中でも一人異質な少年がいた。永見由玖斗一等空士。少年撃墜王とも賞される腕の彼は、他の隊員たちが撃墜した数を誇らしげに語る中、一人群れから離れて携帯の画面に見入ることが多い。何をそんなに熱心に見ているのかと尋ねたことがあった。しかし彼は自嘲的な笑みを浮かべて「俺は駄目な人間です」と答えるだけだった。夕日に向かって暗く長い影を落とす彼の背中には、歳不相応な何か重たいものがたくさんのしかかっているように見えた。

 9月25日。その日ナターシャは予てより井澤大尉に懇願していた、戦闘機への同乗を許された。近隣海域への偵察も兼ねた整備点検用の練習飛行だった。
 大尉の後部座席へと乗り込んだナターシャは戦闘機の凄まじい加速に気を失いそうだった。空では大尉の悪戯に振り回され、天と地が逆転した。
 離陸して数十分後だった。少年たちの笑い声が突然絶え絶えとなり、無線が不安定になった。
 「何だ何だ?」
 まだおどけた声色を残したまま大尉が前の座席から声を漏らす。ノイズの激しい無線の向こうからも少年らの困惑の声が断片的に届いてくる。
 「・・・っき!・・・てっ・・・けん!」
 由玖斗と思しき声が何かを叫んでいる。しかしナターシャには何を言っているのかまるで分からなかった。
 すると隣を飛行していた由玖斗の機体が急に上昇を始め速度を落としていく。全員が驚いてその方を見やると、後方数百メートル上空に30機ほどの機影の塊が見えた。
 「くそっ!電子戦機か!」
 大尉が悪態吐く。
 「いいか、お前ら!聞こえるか!全機俺の後に続け!」
 大尉は必死にそう繰り返しながら速度を上げて隊列の少し前へ移動する。
 「――かい!」
 「了解――」
 「・・・りょう――」
 「・・・」
 大尉の深く深呼吸する音が聞こえる。
 「悪いな、嬢ちゃん。ちょっとばかし激しくなりそうだ」
 そう謝って大尉はちらりと後ろを振り返った。
 「は、はい・・・!」
 何とかナターシャは答えた。
心臓が早駆けしていく。
何も考えられず目を閉じる。
怖い・・・。

 井澤大尉機は少年達の目の前で増槽を落とした。彼らもそれに従う。大尉が機首を上げて昇っていく。彼らも操縦桿を手前に引く。座席に体が押し付けられる。息がしにくい。反転して頭に血が上る。大尉機がバンクして機体を水平に戻す。少年らも各々機体を水平にする。
 前方に敵機が迫る。30に対し、こちらはたったの7機。数においては分が悪すぎる。しかし腕に関しては一人ひとりが並みの数倍はある。上手く逃げ切れないこともない。
 その後何が起こったのか、目を固く瞑り体を震わせることしか出来なかったナターシャにはまるで分からなかった。
耳元で唸る爆音。
銃撃、爆発。
大尉が何か叫んでいる。
――上だ!電子戦機を狙えっ
右へ回転、左へ回転。
銃撃。
ループの嵐。
銃撃。
爆発。
平衡感覚がなくなってきた・・・


 ナターシャが目を覚ました時、彼女は医務室で横になっていた。自分の体を見つめる。何処も怪我していない。
 ナターシャはベッドから起き上がるとブリーフィングルームへと足を運んだ。静か過ぎる。物音一つ聞こえない。
 彼女は開け放たれたドアから部屋の中を覗いた。一人、二人、三人、四人・・・あとは誰もいない。全員魂を抜かれたような顔で宙へ視線を漂わせている。そこにたった数時間前まであった賑やかな空気は存在しなかった。
 生き残ったのは永見一等空士、久保一等空士、下平二等空士、そして偶然その日は地上にいた赤城一等空士だった。
井澤大尉に責めはなかった。相手は電子戦機によりレーダーを妨害し、自分たちの3分の1にも満たない敵へと攻撃を仕掛けてきたのだ。三人の少年たちの命を奪った彼らは、ボロボロになった残りの少年たちを執拗に追い掛け回し、地対空ミサイルの射程へ入る前に去っていった。一機は燃料が尽きて脱出できないまま海へ消えていったとの事だ。捜索隊を派遣したが彼の姿は既に無かったという。大尉は自分を責めているのか、しばらく自室にこもったきりだった。幸い出動命令もその間発せられなかった。
 数日後、敵は人革連空軍であったことが判明した。東京から埼玉、群馬へと勢力を拡大した人革連は空軍基地のある佐渡島を予てより目標としていたらしい。
 ナターシャは二つの小隊しか持たなくなった302中隊と共に隠岐諸島島前の知夫里島(ちぶりとう)にある知夫里基地へと移動した。彼女がまたカメラを向けると、少年たちはまた前のような笑顔を見せる。逆にレンズを覗くナターシャの瞼の方が熱くなるのだった。由玖斗は依然として一人で窓から外を見上げることが多かった。前の奇襲でも彼が半数以上の敵機を墜としたらしい。その勇姿たるや獲物を狩る鷹のごとき凄まじさだったそうだ。それでもやはり彼はその戦果を誇ることもなく、愛おしげな目で携帯を眺めるのだ。

 10月、早朝。静かな基地内に緊急出動命令が下された。対馬にある南政府海軍の竹敷要港部が未確認勢力の航空機によって攻撃を受けているとの事だった。対馬防衛隊や第19警戒隊だけでは対処しきれず、近隣の基地へ支援要請を発し続けている。
 由玖斗たち5機はすぐに基地を離陸した。
数時間後、空中給油で燃料を確保してから彼らは対馬沖へたどり着いた。
港は大混乱に陥っていた。駐留していた第2艦隊が攻撃機や戦闘機に襲撃されている。港湾施設や多数の艦艇にも被害が見られる。至る所から真っ黒な煙が立ち上り、ちらちらと炎の赤い光が街を飲み込もうとしていた。
軽いノイズと共に無線から大尉の声が聞こえる。
「全機自由攻撃に移れ。何としても艦隊を守るんだ」
「アキュート、了解」
「フェイン、了解でありま~す!」
「カルム、了解」
「ブラスト、了解!」
 由玖斗、久保、赤城、下平が順に答える。
 前方から6機、尖った隊列で敵が突っ込んでくる。由玖斗たちはそれに裂かれるようにして各々散った。
 由玖斗は右へ軽くエルロンしながら下降する。
 後ろを振り返る。
 2機が反転してこちらに向かってくる。
 気付かないふりをしてそのまま港へ向かう。
 レッドアラート。
 前方の海面に未確認勢力の戦艦を発見した。
 ミサイルが飛んでくる。
 右へバンクしながら垂直降下する。
 機体の尻をミサイルが掠める。
 ミサイルはそのまま後ろを飛んでいた2機のうち1機を誤って捕らえた。
 上空がピカッと光る。
 海面ぎりぎりで減速、フルフラップ、操縦桿を目一杯に引く。
 機体がふわりと浮き上がる。
 水平飛行に移る。
 対艦ミサイルに切り替える。
 撃ってきた。
 でもこの距離じゃ当たらない。
 射程に入った。
 ロックオン、親指でボタンを押す。
 機体がやや軽くなった。
 すぐに離脱、上昇。
 腹を機銃掃射が掠める。
 白い軌跡を残しながらミサイルが敵艦へ向かっていく。そのまま横っ腹へ吸い込まれた。
 途端に敵艦が爆発し炎上する。
 無線が入った。
 「全部隊に告ぐ。空母双龍及び垂花、連闘の3隻を守れ」
 無線は何度か繰り返されて切れた。
 由玖斗はちらりと湾内へ目をやる。2隻の空母を繋げたような双胴の巨大空母と2隻の軍艦が発進しようとしている。
 上空へ目を向ける。
 久保機が敵機を追い掛け回している。
 他は見当たらない。
 攻撃機が空母を狙っていた。
 撃たせない!
 対空ミサイルへ切り替えながらその方へ向かっていく。
 護衛機が気付いた。
 こっちへ向かってくる。
 旋回している暇はない。
 真正面から敵機と向き合う。
 狙いを定めてトリガーを引く、すぐにエルロンして右へラダーペダルを押し込む。
 コックピットの穴だらけの敵機が腹を掠めていく。
 敵機は煙を上げながら後方で墜落していった。
 「馬鹿野朗!」
 無線から大尉の声が聞こえてビクリとする。
 「無茶な飛び方をするな!」
 どうやら見られていたらしい。
 「・・・了解」
 由玖斗は短く答えた。
 攻撃機をロックオンする、ミサイル発射。
 爆撃される前に墜としてやった。


 空母双龍と垂花、連闘は何とか敵艦隊の封鎖を突破し戦域離脱に成功した。由玖斗たちは一機も墜落することなく艦隊の護衛をそのまま続行した。このまま隠岐諸島まで退くつもりだった。しかし隠岐の港に双龍は入ることが出来ないなどの問題もある。とにかく今は一刻も早く対馬を離れることが肝要だった。
 しかし、しばらくするとすぐにまた追討部隊の航空機団が追ってきた。久保、赤城、下平の三人は艦隊上空に留まり井澤大尉、由玖斗の二人は敵航空機団の撃破に向かった。
 艦隊から離れて間もなくすると、2機の攻撃機とそれに付随する戦闘機5機の機影を発見した。
 だいぶ距離があるにも関わらず由玖斗の直線状の敵が撃ってきた。
 かなり焦ってる。
 軽く機体をバンクさせてかわす。
 「アキュート、交戦」
 「了解。全機叩き落すぞ」
 無線を切る。
 ややエレベータを上げながら左へ機首を傾ける。
 3機追ってくる。
 攻撃機は動かない。
 重たい攻撃機はどうしても低く飛びたがる。
 敵機と斜めにすれ違う。
 そのまま直行。
 敵は後ろを取ろうと機首をこちらへ向けている。
 そろそろロックされるかも。
 右へ一度傾けてフェイント。
 左へ一気に旋回する。
 1機引っかかった。でも2機まだついてくる。
 射程ぎりぎりのところでロールしながら急上昇。
撃ってくるはず。
ほら。
左へ機首を傾けながらまたフェイント。
右のラダーペダルを蹴ってバンクしながら急旋回。
足を突っ張りながら機首の向こうに海が見えた。
減速、フラップしながらそのまま。
捻りこみながら1機の後ろを取る。
刹那、トリガーを引く。
2機目の後ろを取る。
トリガーを引く。
水平飛行に戻ると黒い尾を引いた2機が墜落していくのが見えた。
もう1機は攻撃機の方へ向かっている。
攻撃機は1機だけになっていた。
戦闘機も大尉が1機落としたらしく、もう1機とドッグファイトの最中だ。
小さく艦隊が見える。
もう距離が無い。
急げ。
速度を目一杯に上げる。
見る見るうちに攻撃機が近づく。
さっきの戦闘機は何処かへ飛んでいった。
先にでかい奴を墜とす。
銃座から撃ってきた。
バレルロールで交わしながら高度を落とす。
機首を持ち上げてロック。
ミサイル発射。
途端に攻撃機が爆発する。
 息を深く吐き出す。
 リミットがある中では緊張した。
 ガガッ。
 機体が振動する。
 後ろを振り返った。
 敵がついてる。
 さっき逃げた奴だ。
 何発か当たったらしい。
 何とかふりきろうとするが上手く上昇しない。
 「アキュート、被弾・・・!」
 冷静を必死で保つ。
 レッドアラート、ロックオンされた!
 ミサイルが発射される。
 レーダーにミサイルが表示された。
 迫ってくる。
 「脱出しろ!」
 赤城の声だ。
 こっちへ向かってくる。
 「だめだっ。開かない」
 由玖斗は苛立って風防を叩く。
 あと数十メートル!
 息を呑む。

 後方を味方機が横切った。
 ミサイルがそちらへ引き寄せられていく。
 被弾した。
 黒い煙を上げながらゆっくりとグライドしながら降りていく。
 「大尉!」
 思わず由玖斗は声を上げた。
 「行け!追手がまた来るぞ!」
 無線からくぐもった大尉の声が叱咤する。
「心配するな。すぐ戻る」
 大尉の声はそこで途切れた。
 ゆっくり、ゆっくりと大尉の機体が下降していく。
 コックピットが吹き飛ぶ。
 少し上空でパラシュートが開いた。
 「由玖斗、行くぞ!」
 大尉を撃った敵を墜とした赤城が叫んだ。
 「救出している時間は無い!大尉なら大丈夫だ!」
 手が震えている。
 鼓動が心臓を強く叩く。
 唾を飲み込んで機首を艦隊へ向けた。
 最後に海面へ降りていくパラシュートを見た。


 作戦終了後、対馬の港を襲った謎の勢力は、在日朝鮮人によって「平安(ピョンアン)団」という名の下に決起していた勢力であることが分かった。宣戦布告同時攻撃というわけである。
 知夫里基地へ帰ってきた彼らの中に大尉の姿は無かった。ナターシャは高鳴る鼓動を抑えながら事情を尋ねた。
 大尉は墜とされた。由玖斗がそう答えた。彼はそれ以外口を閉ざし、前髪で表情を覆ったままブリーフィングルームを出て行った。残された久保、赤城、下平の3人も黙ったまま俯いていた。
 「自分のせいだって思ってるんだ」
 しばらくして久保が呟いた。
 「あいつ、何でも一人で背負い込む癖あるから・・・」
 ナターシャは必死で笑顔を繕った。
 「仲がいいのね」
 すると久保は珍しく悲しそうな笑顔を見せた。
 「俺と由玖斗は訓練生の頃からの唯一の同僚だから。後は皆死んでしまった」
 ナターシャはかける言葉も見つからず、ただ口をぱくぱくさせた。
 「殺すか殺されるのが俺たちの仕事なんだ」
 赤城は厳しい声でそう言い残して部屋を後にした。
 「俺・・・死にたくないです・・・」
 下平が膝を抱えて呟いた。
 「死にたくない・・・」
 下平の声は震えていた。
 かつてない程、彼らの心はダメージを負っていた。それだけ井澤大尉の存在が彼らにとって大きな役割を果たしていたのだろう、とナターシャは感じた。同時に、彼らの辿らねばならなかった不条理な運命を憎まずにはいられなかった。
 戦争に駆り出された少年たちは今この瞬間も、人を殺し人に殺されている。何のために殺すのかも分からず、何のために殺されるのかも分からないまま。彼らの本当の願いは一つなのかもしれない。生存。死を納得できない人間が生きたいと願うことほど、最も明瞭で自然なことはないだろう。ただ、そうして人間は歴史を繰り返すのだが。



   7.

 計画は着々と進んでいた。主な政治体制を整えた瑞貴は、拠点を海外に置いた外資系の軍需品販売を行う三菱UC(ユナイテッド・コーポレーション)と独占販売の提携を結ぶことになった。戦争は最大のマーケット。そう考える海外の軍需会社が彼らを支援し、関西関東の暴力団が三菱の下に一つとなったのがこの会社である。この母体となったのは、かつての大村財政で急成長を果たした企業であった。
 正式な提携を行う場に寄こされたのは、三菱UCのナンバーツー恩田劉(おんだりゅう)だった。
 「わ~何やの、その仮面?」
 宮殿にある「連翠」の部屋へ通された恩田の第一声はそれだった。
 「あんたはん、そんなん着けとって失礼とちゃいますのん?」
 そう言う恩田の方もサングラスをかけたままだった。漆黒のベール越しに恩田の目が殺気を帯びる。関西最大の暴力団「大前組」を実質上仕切っていた恩田にとって、相手が誰であろうとそれは関係の無いことだった。
 「無駄話は止めて、さっそく本題に入ろう」
 ピリオドが卓上の契約書を前へ押しやる。
 「何や、きついわ~。ナンバーツー同士、仲ようやりましょうや」
 そう応えながら恩田はいとも簡単に契約書へ判を押す。
 「読まなくていいのか?」
 同席していた斉藤が尋ねる。
 「うちはボスから判押してこいゆわれとるだけですから。あんたはんの親狸がえらい羽振りええゆうて、うちのボスはあんたはんとこ買うてはるんや」
 「貴様、帝を何と心得る」
 斉藤がいきり立つ。それをピリオドが無言で制す。
 「あなたはどうやら賢い方のようだ」
 ピリオドが包帯の巻かれた手を差し出す。
 「今後とも、よろしく願う」
 恩田は暫しその手を珍しそうに眺め、にやりとしてピリオドを見返す。
 「そらこっちのセリフですわ、ピリオドはん」
 恩田とピリオドが固く手を結ぶ。
 「よろしゅう・・・たのんますわ」

 瑞貴は三菱UCからの物資により軍を強化し、神奈川、千葉を落とし、埼玉、群馬の他勢力を排除した。それらの軍事行動のほとんどを瑞貴自らがピリオドの仮面を被って軍を指揮していた。侵攻、反乱、停戦、同盟、裏切り。それらの駆け引き全てを瑞貴はボードゲームのような感覚で楽しみながら進めていった。天才的な頭脳で練り上げる彼の策略は全て成功し、人々は彼の掌で踊らされるのみだった。
 しかし一つだけ彼の思うとおりに進まなかった事があった。それは群馬の基地から発進させた電子戦闘機隊の、新潟県佐渡島基地への攻撃命令であった。電子戦機での奇襲策で、しかも相手の殆どが少年飛行兵であり数も十分であったはずだった。だが結果は4機も取り逃がし、燃料切れで基地殲滅も叶わなかった。しかも敵の三倍の数で向かったにも関わらず半数以上が帰還しなかった。兵士たちの話によると彼らは並みの飛行兵よりもはるかに腕が立ち、その中でもある一機が桁外れに強かったという。その一機によって味方機の殆どがことごとく撃ち墜とされたらしい。瑞貴はこの結果に初めて憤りを感じ、その少年飛行兵について調査を命じた。
 軍の諜報部から、在日朝鮮人たちがクォン・ソンジンという男を中心に新勢力を建ち上げようとする動きがあるとの情報を受け取ったのはそんな最中であった。瑞貴はすぐに彼らと秘密裏にコンタクトを取った。彼らは単なる反日の下に結集したのではなく、かつての母国でもなく日本でもない新天地を求めていた。
それを知った瑞貴は、人革連が新生日本国を建てた暁には彼らの自治区を認め、一切の干渉を控えることを伝えた。加えて軍事面での支援も三菱UCとの掛け合いで売買の許可を与える。その代わり共に旧政府打倒の下、手を取り合おう。その言葉を付け加えて。
他に頼る者もいないクォン・ソンジンたちにとってそれは願ってもいない好機であった。瑞貴はすぐに三菱UCに恩田を通して事情を説明した。三菱UC側には、効率のよい市場が広がり利益の上がるであろうこの話に異を唱える者などいなかった。
11月10日、クォン・ソンジンたちは「平安(ピョンアン)団」という勢力を建ち上げ、同時に対馬にある旧政府軍基地に攻撃を仕掛けた。駐留していた第1・第2艦隊の内、空母2隻、戦艦3隻、巡洋艦3隻を撃沈し、基地にも甚大な被害を与えることに成功した。しかし艦隊の中核を成す空母艦「双龍」と「垂花」「連闘」の3隻を取り逃がした。それでも第2艦隊は事実上壊滅し、平安団は勝ち戦に歓喜の声を上げ勝利の杯を酌み交わすのだった。
だが瑞貴にとって気がかりなことは、双龍を逃がした航空機団の中に知夫里基地の飛行隊が加わっていたことだった。調査の結果、案の定佐渡島基地の残存兵が移動していたことが分かった。
山梨の武装勢力「菅原軍」との交戦の最中、瑞貴はその報告書を握りつぶした。
いったい誰だ!
一度ならず二度までもこの俺の策を乱す者は。
「ピリオド。菅原軍首長、菅原智彦を拘束しました」
斉藤が伝令を知らせた。
 「分かった。連れて来い」
 瑞貴は報告書を懐へ押しやった。
 まぁ、いい。
これで面白くなった。
雑魚ばかりで退屈していたところだ。


 けたたましい砲声は止んだが、焦土と化した街からは幾つもの火の手がまだ上がったままだ。しばらくして両腕を縛られた髭の男が瑞貴の前へ連行されてきた。蹴り倒された男は血の混じる息を吐きながらピリオドの姿の瑞貴を見上げた。
 「お前がピリオドか・・・。ふんっ、この世の終焉に相応しきおぞましさだな」
 脇で銃を構えた兵士が菅原の腹を蹴り上げる。短く悲鳴を上げて菅原は地面に伏した。
 「菅原軍は各地を攻撃し、掠奪の限りを尽くしたそうだな。その極悪非道ぶりは聞き及んでいるぞ」
 瑞貴は目を細くして菅原を見下した。
 「お前は運がいい。今私は機嫌がいいんだ」
 瑞貴の言葉に菅原は少しの期待をこめた目を彼に向けた。銃口の穴が額を狙っていた。
 「だから楽に殺してやろう」
 パンッ。
 ドサ――
 瑞貴は銃口についた血を綺麗にふき取って銃を腰へ戻した。
 「捕虜はいらん。全員殺せ」
 瑞貴は将校に言い放った。すぐに彼らは動く。
 「ピリオド」
 斉藤がいささか不満そうな顔で瑞貴を止めた。
 「菅原軍のほとんどが各地から強制徴兵を受けた者たちです。菅原への忠誠など欠片もないはず。殺すより我らの軍へ引き入れるのが常套かと」
 「いいか。一度でもこの私に弓を引けばどうなるか。それを人民たちへ示さねばならない。反抗勢力がテロでも起こしてみろ。より多くの一般人が、全く関係の無い人間が巻き込まれることになる。それを避けるにはここで彼らに死んでもらわなくてはならない」
 斉藤は瑞貴の言にそれ以上異を唱えることはなかった。
 結局、捕らえられた菅原軍の兵士計数千近くが銃殺となった。死が間近に迫った兵たちは涙を流して命乞いをし、彼らによって家族を殺された民衆たちはそんな兵士たちへ石を投げつけた。結局この街に残ったのは崩れ落ちた瓦礫と死体の山、それに愛する者を悼む嘆きだけだった。

 「そうか。永見由玖斗。お前の名は永見由玖斗か」
 皇居の東庭で瑞貴は新たな報告書を眺めて呟いた。
 旧政府空軍の要。
 撃墜王の称号をほしいままとする少年飛行兵よ。
 だが、最後に笑うのはこの俺。
 大いなる力の前には如何なる個人の力も敵わないのだ。

 カタカタ。
 車椅子の音が響いてきて瑞貴は後ろを振り返った。
 「楽しそうね。何か面白いことでもあったの?」
 綺麗な衣服をまとった瑳夕が瑞貴の下へやってきた。
 「あぁ。とても面白い人物を知ったよ」
 そう答えながら瑞貴は報告書を瑳夕に見えないよう袖の中へ隠した。
 「でも、最近は忙しくて少しくたびれた」
 「そうみたいね。色んな政務で顔も見ない日が続いたものね。でもあまり無理はしないようにね」
 瑳夕は心配そうな顔をして瑞貴の手を取った。
 「その言葉が何よりの力の源になる」
 瑞貴は穏やかな表情で瑳夕の手を握り返し両手を添えた。それに瑳夕も微笑みを返す。
 瑳夕の手は温かかった。否、瑳夕の手にしか温かみを感じないのかもしれない。瑞貴は自嘲しながら、それでも満足だった。



   8.

 旧政府陸軍第2師団は福島へと拠点を移していた。和泰ら第2特化連隊は下谷市で掠奪を働いていた「神風(じんぷう)」という武装勢力とぶつかり殲滅に成功した。戦闘後の街で連隊は野戦病院を開いて救助作業を続けていた。下谷市は辺り一帯の中で一番大きな街であったために人口が密集しており救助には時間がかかっていた。
 和泰は少年兵で初めて少尉の官位を与えられ、五つの分隊約50名の指揮を任されていた。和泰たちは率先して救助活動に精を出した。
その合間に瓦礫の上に座って市民らが給仕する昼食を取っていた。人に手を貸すことで徐々に笑顔を取り戻す人々を見るのが、和泰にとって唯一戦場で安らぎを感じることでもあったのだ。
 近くで小さな子供たちが騒いで遊んでいる。煤(すす)まみれの子供たちの顔には無邪気な笑顔が残されていた。
一人が誤って和泰の背中へと突っ込んできた。その子供は反動でそのまま後ろへひっくり返ってしまった。
 「おっ、大丈夫か?」
 和泰は食器を置いてその子を立ち上がらせてやった。
 「こら!翼君!」
 三十路ほどの女性がとんできて子供を叱り付けた。
 「ほら、ちゃんと兵隊さんに謝って」
 彼女は彼に目線を合わせて言う。
 「ごめんなさい・・・」
 子供は小さな声でもじもじしながら謝った。和泰は思わず笑顔溢して、その子の頭をがしがしと撫でる。
 「気にすんな。ほら、遊んで来い」
 子供はにっと笑って仲間たちの下へ駆けていった。片方の靴がなくなっている。
 「すみませんでした」
 女性が今一度頭を下げる。
 「いえ。元気いっぱいですね。お子さんですか?」
 女性は一瞬顔を曇らせて答えた。
 「いえ、私はあの子たちの幼稚園で保育士をやっていました。あの子たちの親はこの戦闘で亡くなったんです・・・」
 和泰はちらりと笑い声の方へ目を向けた。銃で撃つ仕草や腕を伸ばして戦闘機の真似をしている。
 「まだ子供たちには知らせていません。いつかは知らせなければなりませんが、あの笑い声がまた聞けるようになるのか、私には不安で・・・」
 和泰はそれを聞いて唇を噛み締めることしかできなかった。
 「でも、あなたたちには感謝してます」
 和泰は女性へ視線を戻した。彼女は微笑を浮かべながら彼を見返していた。
 「助けてくれて、どうもありがとう」

 2日後、連隊は次の街へと移動を開始した。
 笠麻市という二方を山と海に囲まれた街に入った途端、連隊は攻撃を受けた。賊集団「市原軍」の奇襲であった。連隊本部はすぐさま引き返したが街の中へ深く入り込んでしまっていた第1大隊は、四方八方から飛んでくる弾の嵐に右往左往した。
 「慌てるな!」
 動揺する兵らに73式小型トラックの上から和泰が叫んだ。
「左のアパートに第3、第4分隊!その奥に第5分隊!右へ第2分隊!」
和泰の分隊はすぐさま言われたとおりに行動を始めた。
「車両は絶えず動き回れ!中隊本部は遮蔽物へ避難!対迫レーダーで状況を伝えろ!」
「待て!」
和泰がトラックから降りて自らも戦いに行こうとすると、後方のトラックから中隊長である中川大尉が一括した。
「貴様ぁ!上官に対して命令する気か!」
凄まじい形相で中川大尉が唾を撒き散らす。
「では中隊の指揮は大尉のご判断でどうぞ。私の小隊は敵の殲滅に向かいます」
それだけ言い残すと和泰は大尉に背を向けて走り出した。背中にはまだ大尉の罵る声が浴びせられている。それでも和泰はそれを無視して通りを駆けていった。
前方の足元が土煙を上げて跳ね上がる。和泰は転がり込むようにして看板の奥へ隠れた。後を追う小川ら7名もそれに従う。狭い路地に8人が詰め込んだ。どうやら道のど真ん中に塹壕を掘っているらしい。ちらりと見えた幾つかの敵の頭から和泰はそう判断した。そこへ機関銃を乱射しながら味方の小型トラックが通り過ぎていった。和泰は手榴弾を手に路地を飛び出した。前方では塹壕に驚いたトラックがハンドルを切り、派手に横転しようとしていた。敵の放火はそちらへ引き付けられている。
信管を抜いて遠くへ投げた。
放物線を描いて手榴弾が塹壕の中で激しく爆発した。小川たちが先に塹壕へ近づいていく。塹壕の中に向かって何発か撃った。
短く悲鳴が聞こえる。
左のビルの窓から敵が上半身を現した。
銃口を小川たちへ向ける前に射撃する。
敵がぐらりと前のめりになる。
そのまま窓から落ちて地面へ激突した。
数時間で街の半分を制圧することに成功した。敵の死体が転がる間を縫って住宅地へ進入する。
 一つの邸宅の前にトラック2台が停まっており、中川大尉ら十数名が女性二人と口論していた。大尉の足元には胸から血を流して倒れる民間人らしき男の姿があった。娘と思しき中学生くらいの少女とその母親が動かなくなった父親にすがり付いている。中川が母親に顔を近づけて何か罵った。そして少女の手を引っ張り上げると地面に押し倒して覆い被さる。少女が奇声のような声を上げた。
 「止めろ!」
 大声で和泰が叫ぶとつまらなさそうな目で中川が顔を上げる。
 「何をしているんですかっ」
 和泰は怒りに任せて中川に詰め寄った。
 「この親父が俺たちに向かって撃ってきた」
 中川は汚らわしそうな顔をして死んだ男の方を顎で示した。無念そうな瞳を宙へ投げかけたまま、彼は動かなくなっていた。
 「助けに来た俺たちをだぞ?こいつは敵に違いない。だから殺した」
 「ここは何度も掠奪にあっている。武装した我々を見れば恐れるのは当たり前です」
 和泰は拳を震わせて言った。
 「彼らを解放して敵の殲滅に向かいましょう」
 中川は半裸の少女にいやらしい目をやって言い返す。
 「まぁ、そう固いこと言うな。お前も楽しめ」
 再び少女へ手を伸ばそうとする中川に和泰は終に銃口を向けた。途端に中川の部下達が銃を上げる。小川たちも和泰とほぼ同時に彼らへ銃を向けた。
 緊張した空気が辺りから無駄な音を消し去った。遠くの至る所で迫撃砲が炸裂している。
 「貴様・・・上官に銃を向けるか」
 ゆらりと中川が体を起こす。
余裕の顔で腰の銃へゆっくりと手を伸ばす。
その様子を親子二人が息を呑んで見守る。
 スーパースローのように感じる。
 喉を唾液が流れていった。
 銃を握る掌に汗が滲む。

 ため息を一つ吐いた。

 和泰は自然に銃口を中川の額へ当てて撃った。中川の頭が鮮血を噴出しながら後ろに仰け反る。
 後方で何発か銃声が轟く。前方でもそれが連なる。
 前に立っていた中川の部下7名が一斉に崩れ落ちる。後ろでも悲鳴が上がった。
 「銃を下げろ!」
小川の声が響き渡る。中川の生き残った部下ら4名は判断に遅れ、向けられた七つの銃口を眺めながら持っている銃を手放した。
 ようやく親子らが悲鳴を上げる。
 後ろを振り返ると仲間の一人が腕を押さえていた。厳しい顔のまま和泰へ軽く笑みを見せる。すぐに別の仲間が手当てに掛かった。
 嘆息の色を見せる和泰の肩に小川の手が置かれる。
 「どうする。殺すか?」
 小川が手を上げる四人へちらりと目をやる。
 「・・・いや。大隊に戻らせろ」
 「いいのか。お前は上官を殺したんだぞ?死罪は免れない」
 「あぁ」
 和泰は銃口の返り血を拭う。
 「連隊はこの街から引き上げているらしい」
 「本当か?」
 和泰は静かに頷き返す。
 「人革連の連中が新潟を落として山形へと侵攻しているそうだ。このままでは第2師団が囲まれる」
 それを聞いて小川は顔をしかめた。
 「・・・それで、どうする?」
 和泰は困ったような顔へ僅かに笑みを浮かべた。
 「さぁて・・・。どうするかなぁ・・・」

 夕方。街の制圧を完了した第2中隊は中心にある広場へと集結した。中隊長を失った200余りの兵士らは、既に撤退しきった連隊から取り残され笠麻市で孤立していた。しかし彼らの心は数ある武勇伝を持つ和泰の下、ゆるぎない力で結束していた。多くの陸兵たちにとって無敗の記録の少年兵はただの強靭な一兵士ではなく、軍神のような一種の信仰の対象となっていたのかもしれない。
 和泰は同調する兵らに感謝の意を唱え、とりあえず街の救助活動を開始させた。日を増す毎に怪我人の数は増え、仮死体安置所にはその亡骸が所狭しと並べられた。
 しかし彼らの人道的活動に街の人々は敬意を表し、炊事の給仕などを手伝ってくれるようになっていった。
 駐留三日目の夕食の折、和泰の下へ一組の親子が尋ねてきた。あの時中川に襲われていた親子であった。
 「その節はどうもありがとうございました」
 母親が礼を言って頭を下げる。それに続いて少女も頭を下げた。
 「顔を上げてください」
 和泰は恥じるような声で応えた。
「礼など・・・俺たちは責められるべきであり、感謝されるようなことは何一つやっていません。ご主人の事は本当にどう謝ればいいか・・・・」
 和泰はそう言うと重たい頭を垂れた。これ以上二人の目を見ることが出来なかった。
その手をそっと少し小さな手がとる。
 「ありがとう・・・。助けてくれて」
 少女は小さな声でそう言った。和泰は両手に包まれる自分の汚れた手をしばらく眺め、そして彼女へ目を向けた。
 「・・・君、名前は?」
 「千夏。大柴千夏」
 少女の顔に笑みが浮かんだ。
 「そうか。俺は大森和泰」
和泰もそれに微笑み返した。そしていささか厳しさを目に含ませて視線を小川へ向ける。
「小川。決めたぞ・・・」
「何をだ?」
小川は食事の手を止めて尋ね返す。
「これからのことだ」
炊事の炎から上がる煙を辿って薄暗い空を仰ぐ。
これ以上罵倒も感謝もいらない。
ただ人が笑っている姿を見ていたい。
 この目が光を映す限り・・・。



   9.

 急激に勢力を拡大する人革連は東西に隣接する他勢力を次々に打破し、その支配下に置いていった。人革連軍の侵攻は烈火の如き速さで拡大し、東へは日本海沿いに北上していった。
 10月下旬、人革連軍は青森へ達した。砂戸羽市評議会はこの危機に対し意見が二分した。一つは迫りくる人革連軍に従わず徹底抗戦を推し進め、もう一つは無駄な血を流すことなく人革連に屈しようと提案した。意見は中々まとまらず、終には自治会内部で人格連の息の掛かった者によりクーデターが起こった。徹底抗戦派を唱えた者たちは殺害され、来る10月28日には砂戸羽市は人革連軍へ無血で町を開放した。その後、町の政治体制は人革連の新憲法の下、クーデターを起こした者たちに委ねられた。加えてこれまで砂戸羽市の武器密輸を独占していた「唐沢カンパニー」は、砂戸羽市による輸出入制限を緩和された。それにより更なる莫大な利益を上げて人革連から政治的恩賞を与えられ、自治会にも有力な発言権を得るようになっていった。

――11月12日 午前10時 高麗亭――

 初冬の厚い雲が空一面を鉛色に覆い、微かに太陽の光が灯っている。
通いなれた高麗亭のドアを開けて萌鏡が入ってきた。店には奥にいる清とハル、工藤、幸の四人とカウンターで新聞を読むソンゴだけだった。
 「おはよう、小父さん」
 「お~」
 萌鏡の挨拶にソンゴはそう応えて片手を軽く上げた。 萌鏡は羽織っていたコートを脱ぎ、傍らの壁に掛かったハンガーに吊るした。
 「おはようっ、皆」
 「おはよう、じゃねえよ」
 清が訝しげな目を萌鏡へよこす。
 「最近お前、朝からここにいるだろ。学校はどうしたんだ?」
 「だって、新しい先生が来てから授業はほとんど神話に関することばっかりだし、授業らしい授業なんて全然無いんだもん。朝なんて教育勅語の朗読までするんだから」
 「でもちょっとはまともな授業してんだろ?だからこそお前んとこのねーちゃんも学校続けさせてんだろうが。ボッてばっかじゃ兄貴の金も勿体ねえだろ」
 ぴしゃりと言われた萌鏡は頬を膨らませる。
 「清、お前萌鏡の親父みたいだな」
 笑みを零してハルが呟いた。
 「はぁ?んな歳じゃねえよ」
 「でも教育勅語って明治のよね?」
 「何だか更に天皇崇拝の色が濃くなってるみたい」
 幸に萌鏡は答えて彼女の隣へ腰を下ろす。
 「1890年10月30日発布。国民道徳の根源、国民教育の基本理念」
 唐突に工藤が呟き始める。
 「お前よく覚えてるな」
 若干呆れた声で清が返す。
 「俺は明治憲法発布の年も忘れちまったな」
 「あの憲法こそスノビズムの象徴だ。列強に依存しすぎた」
 「確かに。明治政府はマンネリズムを打破し迎合に走った」
 ハルと清の会話に萌鏡と幸はまたかと言うように、うんざりした顔を互いに見合わせた。偶に慎吾を加えた三人はこのように難解な討論を始める。この辺りを仕切っている不良のボスたちが難しい顔をして政治を語ったりするのが、萌鏡にはどうも可笑しかった。
 「幕府はエピゴーネンに囚われていた。その点だと人格連も明治政府も、共同体から逸脱した風雲児とでも言えるか」
 「ただラジカルだった。ヘゲモニーを始め、あらゆるイニシアチブを天皇へ与えすぎた」
 「清は今の人革連をどう見る?」
 「タナトスの塊、或いはただのナルシスト集団だ。これでは皆、ペシミズムに陥るしかねえ。もちろん、あのなんたら教の信者たち以外はな」


 その時だった。
 遠くの方で一発の銃声がした。火薬が燃え移るように銃声は一気呵成に連続して通りに響き渡る。次第に悲鳴も混ざっていく。
 「何だ?」
 清が言った時だった。店の前を一人の男が鬼気迫る形相で駆けていった。その背中へ何者かが発砲し、男は悲鳴を上げて倒れこんだ。
 萌鏡が短く悲鳴を上げる。清は腰の銃へ手を忍ばせ、ハルは持っていた文庫本をテーブルへ放り出した。ソンゴもカウンターの下のライフルを手に持つ。
 程なくして暴徒の波が店の前を横切った。窓ガラスが割られてナタを手にした男たちが数人入ってくる。迷いなく清が男の一人の頭を打ち抜く。ハルや工藤も銃を手に部屋の脇へ移動する。ソンゴのライフルで三人が同時に吹き飛んだ。すぐに次弾を装填する。
 途端にソンゴが悲鳴を上げて崩れ落ちた。
 「小父さん!」
 萌鏡が声を上げる。ハルと工藤が銃を乱射し手前の男たちを撃ち殺す。その隙に清がカウンターへ移動した。萌鏡も幸に手を引かれてその後に従う。
空薬莢の転がる音。
硝煙の鼻を突く臭い。
 「おじ貴、しっかりしろ」
 落ち着いた声で清がソンゴを助け起こす。ソンゴの胸から真っ赤な血が溢れている。
 「・・・奥に隠し通路がある。行けっ」
 清が幸へ目を向ける。無言のアイコンタクトで幸が萌鏡の手を引いてカウンターの奥へ入っていった。清はソンゴを肩に担いで移動を始めた。殿(しんがり)をハルと工藤が勤める。
 薄暗い店内の床に酒瓶の詰まった段ボール箱が散乱している。幸はそれを手当たり次第に押し退け、床の隠し扉を発見した。取手を持ち上げて萌鏡と一緒に扉を開ける。真っ黒な闇が口を開けていた。
 「おいっ。早く行け!」
 ソンゴを担ぐ清が叫ぶ。
 「萌鏡、先に行って!」
 幸は萌鏡へペンライトを放り投げて清を手伝った。萌鏡は緊張した面持ちで頷き、ペンライトで闇の中を照らした。階段が続いている。萌鏡は震える足取りで一歩一歩それを降りていった。冷たい空気に体が更に震える。しばらく降りると平坦な通路に降りた。頭上で扉が閉められ騒々しい喧騒が断ち切られた。
 「みっ、みんな、大丈夫っ?」
 真っ暗闇の中、萌鏡は不安そうに声を漏らした。
 「おう。俺とおじ貴と幸は大丈夫だ」
 近くで声がして足元を照らすと三人の姿が見えた。
 「俺も無事だ」
 ハルの声がした。
 「工藤さんは!」
 「俺の横にいる。こんな時ぐらい無口解禁しろよ、お前」
 笑いを含んでハルが答えた。
 「おじ貴、しっかりしろ。寝んじゃねえぞ」
 「お前・・・もっと怪我人を労われ」
 ソンゴは疲れ果てたような声で言い返した。
 「ところでこの通路、密輸用の?」
 ハルが尋ねる。
 「あぁ。ここらの同業者と一緒に作った。真っ直ぐ行けば港に出る」
 ソンゴの言ったとおり、幾つかの曲がり道があったものの彼に従っていくと港の下水管に出た。一行は辺りを警戒しながら、とりあえず市役所へ向かった。今回の騒ぎでまた野戦病院を開いているかもしれない。
 そしてその予想は的中していた。何人もの怪我人が内にも外にも溢れている。低い呻き声と高らかな悲鳴が重なり合う。
 「おい!診てやってくれ」
 清の数度の呼びかけにやっと一人の男が応じた。傷の程度を調べる。
 「よし。奥へ運んでやれ」
 ずっと担いできた清に変わって工藤がソンゴを運んでいった。
 「あれ・・・?慎吾さん」
 そう呟く萌鏡の視線の先に、ぐったりとうな垂れる慎吾の姿があった。彼の前に誰かが倒れている。近づくと、それは血まみれになった智樹と分かった。
 「おい、サル!どうしたんだ、これ!」
 慎吾は黙ったままだった。
 「慎吾っ」
 ハルが彼の肩に手を置く。
 「おいっ、慎吾!」
 今度は激しく揺すってみた。すると虚ろな目で慎吾が顔を上げた。
 「くそっ。おい、あんた!」
 清が先ほどの男を捉まえた。
 「こいつも診てやってくれ」
 しかし男はちらりと智樹を見やっただけだった。
 「言ったろう。この子はもう駄目だ」
 男は清の手をそう言って解いた。
 男の顔がゆっくりと逸らされる。
 全てがスローモーションのように。
 音がぼやける。
 ぼやける・・・。
 ・・・ける・・・

――去ろうとする男の腕を清が掴む。
 「何だよ、それ!いいから診ろっつってんだろ!」
 「離しなさい。僕にはまだやるべきことがある」
 男が冷静に言い返す。清が思わず男の胸倉を引っ掴んだ。
 「てめぇ!ふざけんじゃねえよ!」
 「ふざけてなどいない!」
 男も声を上げる。
 「大多数の患者がいる場合、命の助かる確率の高い順に診ていくんだ。それがより多くの命を助けられることになる」
 尚も清は男へ凄まじく睨み返す。
 「清」
 ハルが低い声で清の腕を掴み、男からそっと手を離させる。男は唇を噛み締めながら喧騒の中へ消えていった。
 「萌鏡ちゃん!」
 突然、看護服姿の暁珠が萌鏡に駆け寄ってきた。
 「暁珠お姉ちゃんっ」
 「良かった、無事で」
 「暁珠お姉ちゃん、お願い!この子を、智樹君を助けて!」
 暁珠はぐったりとする智樹へ目を落とした。首下の傷と腹の傷を診る。
 「鎖骨が折れてる・・・。内臓も貫通していて、これじゃ・・・」
 「ねぇっ。そんなこと言わないで!お医者さんに治療してくれるように言って!」
 萌鏡は暁珠にすがり付くが、彼女にはどうすることも出来なかった。
 「暁珠さんっ、手を貸して!」
 背後から暁珠を呼ぶ声がした。
 「ごめんねっ、萌鏡ちゃん」
 暁珠はどうにか萌鏡の腕を解いて声の方へ駆けていった。萌鏡の頬を涙が伝っていく。
 清が智樹の首に手を回して半身を起こし上げた。
 「サル・・・」
 清の声が届いたのか、智樹は薄く瞼を持ち上げて口を開いた。しかしその口から言葉が発せられることはなかった。そして最後に柔らかく微笑んで――

 智樹は死んだ。

 しばらく誰も何も言わなかった。ただ呆然と、もう二度と動かなくなった智樹の体を見つめていた。
 「五丁目の大通りでデモ行進があったんだ・・・」
 今まで黙したままだった慎吾が口を開いた。
 「面白半分に智樹はそれに参加するって言ってた。俺もちらっと見てみようかと思って行ってみたら、軍が銃を乱射してた。血まみれの死体の中に智樹がいたんだ・・・」
 慎吾が語り終えてもやはり皆黙ったままであった。

 数日後、大崎を襲ったのはその二日前に決起した平安団に対する暴徒であったことが分かった。20名以上の朝鮮人が虐殺され、40名近い人が重傷を負った。それと時を同じくして桂木町の五丁目で「非武装・非暴力」を掲げた民主主義団体がゲリラ的にデモ行進をしていた。両鎮圧部隊の中で情報が錯乱し、結果的にデモ隊にも威嚇射撃無しの攻撃がなされた。これにより200人の内40人近くの死者が出た。そしてその中に智樹も含まれていたのだ。
 市役所に設けられた入院室で、智樹の死を知らされたソンゴは静かに泣き崩れた。彼にとって店にやってくる不良少年たち一人ひとりは大切な我が子のように思われていたのだ。
 一件の後、行方の分からなかった清が萌鏡を郊外の小高い丘の上に呼び出した。しんしんと今年の初雪が降る日であった。
 街を一望できる丘に清の背中があった。いささか小さくなったようなみすぼらしい感じがする。
 「大きいよな・・・こう見ると」
 清は街を見下ろしたまま言った。
 「清、智樹君は・・・?」
 「焼いちまった。灰になって、何処かに散らばって・・・もうどこにもいない」
 萌鏡はかける言葉も見つからなかった。この数ヶ月間しか一緒にいなかった萌鏡でさえ、智樹の死に数日間泣き明かした。ましてそれ以上に付き合いの長いであろう清たちの気持ちはどれほどのものだろうか。
 「決めたんだ。あいつらに一泡吹かしてやる」
 清は決意の固い声で言った。
 「何をする気なの?」
 少し心配そうな声で萌鏡が尋ねる。
 「新勢力を立ち上げる」
 振り向いた清の顔は野心に燃えていた。
 「唐沢カンパニーの現金輸送車をパクッて武器を揃える」
 「そんなっ・・・どうやって」
 「模索中だ。でも大体のことは出来上がってる」
 「・・・もし成功しても人数が――」
 「昔、ハルと慎吾はここらの不良グループのボスだったんだ。そいつらも今じゃ皆浮浪者になってる。二人なら鶴の一声で二百は集まる。近くの奴らにも呼びかければもう少しいくだろうよ」
 「たった二百でどうするのっ?」
 「さぁ、どうするつもりかな」
 「真面目に答えてよ!」
 「・・・何かをしなくちゃ収まらねえ」
 しばらく清は拳を握り締めて沈黙した。
 「意味を成すのかどうかなんて、どうだっていいんだ」
 「気持ちは分かるけど、焦ったってどうにも――」
 「分かるのかよ!」
 清が急に声を荒げた。萌鏡の肩を引っつかんで押し倒す。
萌鏡の背中に柔らかな雪の感触が伝わった。
清が萌鏡にゆっくりと顔を近づける。
何故だか怖くなかった。
「どうした・・・。お前犯されそうになってんだぞ。叫べよ・・・。喚けよ、暴れろよ!」
清が瞼に涙を浮かべて叫んだ。
零れた雫が萌鏡の頬へ移る。
 萌鏡はそっと清の頬に手を触れた。
 「・・・大丈夫。怖くなんかないよ」
 自分でも驚くぐらい落ち着いた声だった。
 清はじっと萌鏡を見つめ、そしてしばらく目を固く瞑った。そして彼女を引き起こしながら自分も立ち上がった。そして萌鏡へ背を向ける。
 「わりぃ・・・気が動転した」
 「ううん」
 答えながら萌鏡はコートについた雪を払った。
 「輸送車襲撃にあたって、お前に頼まれてほしいことがある」
 「なぁに?」
 「輸送車は必ず総合学校沿いを通る。監視カメラの死角を調べるために動いて欲しい」
 「・・・うん。でも、どうして私に?」
 「俺たちみたいなきたねえ連中だと怪しまれるだろ。それとなく、ゆっくりでいい。頼む」
 清からの頼み事など初めてだったので、若干萌鏡は嬉しいような気持ちになった。
 「分かった・・・。私も共犯だね」
 清の顔を覗き込みながら萌鏡はにこりと笑った。清は黙ったまま彼女を見つめ返し、悲しそうな笑顔を浮かべた。
 本当に雪の振る音が聞こえてくるほど、薄暗く静かな昼下がりであった。


つづく

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