エッセイ/ほんとう
りきんでも、かけ声かけても、どうにもこうにも力が入らず、仕事を休んだ。ベッドに寝ころがって、はめ殺しの羊羹みたいな窓から、まっさおな空を見ている。写真をとってみたんだ。
私が見ているのは、この空じゃない。ほんとうは、空がもっとあおく、屋根の雪がもっと白いのだ。スマホのカメラ、素人の腕――そんな話じゃない。ほんとう、と口にだしたときの、ざらっとした後ろめたさ、ばれもせず、指摘もされない、そんなうその話だ。いいえ、それがうそ、なのかどうかも、わかっちゃいない。これをあなたに共有して、あなたのパソコンなりスマホなりで見てくれる。こうやって、ほんとうは、どんどんあさっての方へむかい、私の手がとどかないところにある。こちらはといえば、空は、さっきより日を受けて、きいろく、白くなっている。くじらのような綿あめ雲が流れてき、屋根の雪は角がとけ、ねずみがかじったように落ちた。現場でも、ほんとうは、なめらかに流れさってゆく。何十分前にとったその写真は、どんどん何かをあきらめてゆく。そうやって、力みが抜けた写真は、うって変わって、おどろくほどにうつくしい。このディジタルな写真は、もちろん、なにも変化していない。ほんとうの呪縛からのがれたのは、私のほうだ。ほんとうだとかうそだとか、息のつまるばかりの、不毛な諍いを抜けだし、ただうつくしい、だけが、箱の底にのこってゆく。目が開かず、脚は萎え、腕もだるく、こんなものは、ほんとうの私じゃない、見てろよ、などと、私は日に何百回も、歯がみするのだ。なんどもなんども補正し、トリミングをほどこし、まるで、あの中也のあのポートレイトみたく、ほんとうを御本尊にあがめている。言われなくても、知ってるのだ。こんな経文みたいなことばを連ねる日は、くやしくてくやしくて、ぼろぼろ涙がおちる日。もっとも、ほんとうは、泣いてなどいないけどね。レンタルビデオと自転車ごと、ダンプカーにつぶされて、十九で死んだリカコが笑ってる。リカコに借りたCDを、まだ返しそびれてる私も、ついつられて笑う。はやい雲々が、羊羹みたいなほそい窓をとおって、私に見えないところへ、旅にでる。