おいしいって何?
これまで食べたものの中で一番おいしかったものを聞かれたら何と答えるだろうか。
一番高かったもの?部活終わりの空腹でかきこんだラーメン?留学から帰ってきて久しぶりに食べた日本食?夜中に友達と買い食いしたアイスクリーム?沢山のフルーツで飾られた10歳の誕生日ケーキ?大学受験勉強の息抜きに食べたマクドナルドのポテト?母が早起きして作ってくれた運動会のお弁当?バレンタインでもらった手作りのチョコレートクッキー?高熱の時に父が走って買ってきてくれたグレープフルーツゼリー?スキー場で飲んだ温かいココア?
候補を挙げていけばきりがない。この世にはなんて多くの美味しいものがあるのだろう。そんなことに感心していると、上に挙げた候補ほとんどに「○○の食べ物」という注釈が付いていることに気付く。
好きな食べ物を聞かれるとほとんどの人が、ラーメンや焼き肉、唐揚げやパイナップルのように食べ物の名前だけを答える。「どこどこのラーメン屋さんの味噌ラーメン」のように多少限定が入ることもあるだろうけど、そう答えた人のことを僕らは”ラーメン”が好きな人と記憶する。好きな食べ物や嫌いな食べ物について語る時、シチュエーションはあまり問題にならない。
けれど美味しかったものとなると話は変わってくる。なぜなら美味しかったものについて話す時、僕たちは実際に口にしたものだけでなくそれを一緒に食べた人や自分の状態、周囲の環境などの食事に付随する様々な経験を合算した”美味しかった記憶”として思い出しているからだ。
すべての生物が行っている生きる為に必要不可欠な栄養を摂取する「食べる」という行為。その食べるという行為に対し人類は「美味しさ」を栄養価と同等もしくはそれ以上に求めてきた。そして「美味しいものを口にしたい」という欲求は、おいしくない食材を自らの手で加工することで美味しく変身させる方法を生み出すに至り、それは「調理」と呼ばれる。多くの生物が食材を選り好みするが、味が悪く・栄養価の低い食材を調理してまで食べるのは人間だけだ。社会人類学者のレヴィ=ストロースは「生もの」と「調理されたもの」という食品の対称性について論じ、その境界に「自然」と「文化」の境界を重ねた。彼が生エビは自然の一部だが茹でたエビは人間の創作物であるとみなしたように「"自然"を調理する能力」は人間固有のものであり、人間を人間足らしめている一つの要素と言えるだろう。
人類が火を発見して以来、料理は技術発展と共に進歩し、美食への飽くなき探究は落ち着くどころか加速し続け、化学調味料や遺伝子組み換え食品、さらには牛の細胞1つからステーキを”生成できる”培養肉技術(生産過程で排出する二酸化炭素が牛を育てるよりも少ないためクリーンミートとも呼ばれる。)などを生み出し続けている。
味覚センサーという”味”を数値化できる機械がある。そもそも人間の味覚は舌の味蕾と呼ばれる器官によって知覚されている。生理学的に味覚は、甘味・酸味・塩味・苦味・うま味の5つの基本要素に分類されるが、味覚センサーを用いると、あらゆるものの”味”を電気信号として測定し、定量的な数値データとして出力することができる。さらに食品同士の相性や時間経過による味の変化(後味)についても測定することができ、赤ワインにステーキが合う理由が科学的に証明されたりもしている。この最新技術によると美味しさは計算可能な数値として扱われるが、1つの食品を様々な要素に分解してチャートを埋めるように再構成する考え方は分子ガストロノミーという僕たちの祖父母は想像もしなかったであろう奇妙でフォトジェニックな料理を生み出した。
そんな美食への欲求と技術の進歩の両輪で食欲の荒野を進み続ける僕たち人間が数十年後何を口にしているのかはとても気になるけれど、未来の食事が今よりも”おいしい”ものであるかどうかはわからないなと思う。なぜなら、”おいしさ”とは食べ物の味だけで決まるものではないから。例えば空腹度合い。美味しく食べるにはお腹が減っていることが最低条件だ。どれだけ高級なものでも、どれだけ自分が好きな食べ物でもお腹いっぱいの時にそれらを美味しいと感じることはできないだろう。満腹の時に何かを口にすることはもはや苦痛をもたらすものだ。(食べ放題の終盤のように)反対に、ひどい空腹の時には食べ慣れた特別でもないものがとびきり美味しく感じられることだってある。そんな当たり前のことを味覚センサーの出力するチャートと睨めっこをしている人たちは忘れてしまっているんじゃないだろうか。
そんな、温度や匂い、個人の好み、盛り付け方、その前に何を食べたのか、誰と食べたのかといったような無数の要因が複雑に絡まり合った結果現れる”美味しさ”。美味しさを計る絶対的な基準はなく、数字で計れない曖昧さこそがこれほどまでに多種多様な食文化を地球にもたらしたのかもしれない。『ダンサー in Paris』という映画では料理人がダンサーやアーティストと同じくらい創造的な職業だと描写されていたように、コンビニやファストフードは様々な面での”お手軽さ”が売りだけど、シェフがいるようなレストランの料理はある種の自己表現だ。そしてそのようなレストランが盛り付けは勿論、食器やユニフォーム、インテリアに店内音楽までを気遣うのは、”美味しい料理”を提供する為には料理の味以外の要素が同じくらい大切だと分かっているからだろう。
僕はこれまで漠然と、料理と芸術はどこか似ていると考えてきたけれど、それはどちらも”絶対的”な基準がないという点で似ているからだったのかもしれない。僕は同年代の人たちと比べると比較的、芸術との距離が近い人生を生きてきた。それゆえだろうか、友達に「芸術とか美術館って難しいから苦手。どうやって観ればいいの?」「どう鑑賞するのが正解?」といった質問をされることがある。そんな時僕はいつも「あなたは自分の食べ物の好き嫌いをどうやって決めてるの?」と聞き返したくなる。味覚は人が最も自分の感覚を信じている基準だ。どれだけみんなが美味しいと言っても自分がおいしいと感じなければ人はその料理を美味しいとは感じない。たとえ食べログで高評価の店やミシュランで星付きの店であっても自分の好みに合わない場合があるということを当たり前だと思っている。「あなたがどれだけこれを美味しいと評価しても私にはあんまりだった。」ということは多々あるし、それを口にすることは自然なことだ。多くの人が「美味しいかどうかを決める」のは自分だと当たり前に信じている。そして、美味しさに絶対的な基準が存在しない以上それは正しい。
ならば同じく絶対的な基準がない芸術に対しても料理と同じように自分基準で接すればいいんじゃないだろうか。自分がいいと思うかどうか。それを絶対的な指針とすればいいと思う。美術館や専門家、オークションの値段、賞は食べログやミシュラン、ベストセラーの料理本と同じだ。それらはあたかもそれが”絶対的”であるように見せかけた一つの基準を提供する。(誰もがゲームの審判になりたがる。「私があなたたちに代わってすべてジャッジしてあげましょう」と。)しかしそれらは参考にはなれど、自分の意見を最終的に決定する際の理由にはならないし、するべきでもない。あなたが美味しいと、あなたが美しいと感じたものこそがあなたにとって本当に価値があるものだから。
*もともと、誰かと一緒に何かを食べるということについて書こうと思って始めた文章だったけれどそこにたどり着くまでに思ったより長くかかってしまったからそれについてはまた別のところに書こうと思う。
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