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初期ブラジル移民の人々(長野県出身だった義父と義母)

私は今年の6月で82歳になる者ですので、だいぶ体も頭もヨボヨボしてきましたが、さらにもっと昔の話をいたしましょう(脳トレの一環として 笑)

私の義母がブラジルに来たのは大正7年(1918年)、第一次世界大戦の終わった年でした。
ブラジルに来た最初の移民船は1908年の笠戸丸ですから、義母は初期の移民となります。

義父は大正10年、1921年3月に移民船パナマ丸で、27歳の時に渡って来たそうで、二人とも長野県の東北にある中野市の近くの出身でした。

昔は若い移民が結婚するときは、気心の知れた同県人を相手に選ぶことが多かったようです。

特に僻地や山国、離島といった人の交流が少なかった僻地出身の人は、人見知りする傾向があるようで、こちらにある日本会や県人会、お寺の信徒会、婦人会などといった日系団体への参加にも消極的な傾向があります。

でもそのような孤独を好む人というのは、不便な奥地の未開の開拓地で頑張るのが性に合っているようです。

めったに訪れる人のいない淋しい所で暮らすには、夜になると赤いネオンや提灯の明かりが恋しくなる都会向きタイプの人には向いていません。

そんな人は入植しても、すぐに離農して街に出て商売をしたり、日系の商店や企業に勤めたりします。

もともと日本という国がユーラシア大陸の東端の辺境に位置し、大陸からの文化や渡来物は積極的に取り入れるものの、未知の人に対しては気やすく接するという社交性が発達しなかったではないかと思っています。

ただ、人の出入りの多い港町や街道筋の宿場町、城下町や門前町周辺で育った人は、やはり明るくて付き合いやすい人が多いように感じます。

移民は自分の生まれ育った時代の、その地域の文化や気風をブラジルに持ち込み、そのまま化石のように保存する傾向がありますので、よく観察しているとそれぞれの出身地が想像されて面白いです。

評論家の大宅壮一は、1954年に取材旅行のために来伯した際、「明治の日本が見たければブラジルにいけ!」との名セリフを残しました。

【今日の名言】
「年を取ったら遊ばなくなるのではない。遊ばないから年を取るのだ」
バーナード・ショウ

【名言もうひとつ】
「友情には絶えず怠らぬ繕いが必要である」 
サミュエル・ジョンソン


編集協力:和の国チャンネル


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