自分史⑫人生を変えた農業との出会い
前回の自分史で長男が生まれたばかりなのに先日第三子である娘がが生まれた。
このコロナ禍で自分のやりたいことはなかなか進まず悶々としていたところに舞い降りた泣き虫天使は私と妻の睡眠時間を奪うと同時に山浦家に大きな幸せを運んできてくれている。
何も解決したわけではないけど、3人の子どもたちの前で素敵な父ちゃんであることを演じながら、今の家族の形であったり、夫婦関係の良さを更新し続けているのは いつも通り妻のおかげなんだと感謝が絶えない。
プレッシャーではないが、私は負けるわけにはいかないのだ。
とか何とか言いつつ、家族をおいてカンボジアに出発。。
ハイウェイと八ヶ岳で新天地を感じる朝
32、3歳の4月。
大型ドライバーを辞めて最初に就農する予定だった軽井沢の会社は農業をするには少し早いというわけで 4月の一か月間は別の会社でつないでくれと言われ二つの選択肢を挙げられた。
①長崎のハウステンボス?のところでサバゲーの会社がたち上がるのでそれを手伝う。
②長野県野辺山というところでほうれん草農家がビニールハウスを建てているからそれを手伝う
なんじゃそらっていう選択肢であったが、これから農業やるって言ってんのにサバゲーに絡むのも意味不明なので 迷わず後者を選んだ。
滋賀から約5時間程度の道のり。
地元の後輩から7万円で買ったプラッツという年寄りしか乗っていない車で野辺山に向かった。
八王子に住んでいた時代に走りなれた中央道だったが、目的地が近くなってきたときに高速道路最高地点という看板を見たのを鮮明に覚えている。
野辺山は標高1350m。
八ヶ岳を横目に始めていく繋ぎの職場と新たな出会いに緊張を覚えていた。
農業法人アグレスと筋肉痛
現在の職場であるアグレスとの出会いがこの時だった。
代表である土屋はその当時専務という肩書を持つ20代後半に差し掛かったばかりの若者だった。
そして、その社員もみな若く20前後の若者や同姓代が一人などとにかく若いチーム。
繋ぎとはいえ僕にとっては新天地だったので、前のめり気味に仮住まいの風呂を掃除した。
ついて2,3日でアグレスは歓迎会を開いてくれた。
場所は実習生が住むフィリピン小屋と呼んでいたお世辞にもきれいとは言えないプレハブのキッチンスペース。
そこで大音量で音楽を鳴らし、浴びるようにビールを飲んで歌って踊って騒ぎまくる夜は飲めないお酒ではあったものの彼らと打ち解けるには十分な宴だった。
ただその当時ドライバーでなまっていた体には過酷すぎるほど、ハウスの仕事はきつかった。
最初は数十棟あるハウスのビニールをはしごなど全く使わず、筋力のみで登り、細いパイプの骨組みの上を動き回り、ビニールをおろしてばねで固定していく。
上っては下りて、おりては上ってを一日中繰り返す。
体中の使ったことのない筋肉という筋肉が悲鳴を上げた。
周りの若者たちは平気な顔をして ハウスの上を歩き回り、時にはハウスからハウスへジャンプした。
程なくして僕は全身筋肉痛で熱を出して寝込んでしまった。
情けないがその当時の自分の限界だった。
ただ、アグレスのみんなはそんな自分を笑いながらも受け入れてくれた。
そして、僕はできない自分をネタ出来るくらいは大人になっていた。
家族計画ゼロ
そんな中、というわけでもないが年明けの時点で第二子が気配から実態に変わってきていた。
えま。エマ。EMMA。
アグレスの4月。
第二子長女がすでに嫁のお腹に宿っていた。
アグレスへも環境がわからなかったのでひとまず一人で来たが、一軒家で一人だったので残り2週間くらいだったけど家族も呼ばせてもらった。
好意で日本有数の桜どころ高遠桜への花見にも参加させてもらうなど、結婚後もあまりできなかった一家団欒をさせてもらった。
農業法人という概念を体で味わった自分はその時は栽培にはノータッチだったが 若いチームで農業するって楽しいそうだな と感じていた。
ただし、僕が新規就農したのはあくまでも野辺山アグレスではなく、軽井沢のコロボックルという会社。
約一か月の間で野外フェスを一緒にやろうというところまで仲良くなったアグレスに後ろ髪をひかれつつ、家族を帰し、一人軽井沢に向かった。
私が軽井沢にいる間、嫁は浜松の実家の方で生活していたが 両親がいるとはいえ、身ごもった体で初めての育児を旦那なしでやるのは肉体的にも精神的にもすさまじい戦いだったと思う。
今 3人目にして初めて乳児と生活してみてよくわかる。
でもこの後、自分で選んだとはいえなかなかきつい新生活を始めることになる。
このころの写真はあまりない。。。
次は 新天地コロボックル。
ありがとうございます。何かしら社会の役に立ったり、誰かの人生に影響するような記事を心がけていきます。 根が照れ屋なので 若干の不真面目は照れ隠しです。 ご承知おきを。