ブレヒト版『アンティゴネ』の翻訳ノート(2) エイソドスと第一エペイソディオン・スタシモン(B106-310)
本編のエイソドスと第一エペイソディオン
ソフォクレス版のエイソドスに対応する箇所は、ブレヒトの独自テクストなのでTもIも大きな問題はないように見える。老人たちのコロスは勝利とそれがもたらす略奪を喜んでいる。戦いはアルゴスで起きているので、コロスは「勝利した」という報告を聞いて喜んでいるに過ぎない。登場人物としてのコロスは、後半でテイレシアスによってその「報告」が間違っていること、戦争がうまく進んでおらず略奪の見通しが暗いことを知って初めて、コロスはクレオンに対する態度を変更する。
他方、とりわけソフォクレスのスタシモンに対応する箇所では、コロスは「語り手」、それも、物語世界内の回顧的に語る語り手であるだけではなく、不特定の、物語世界外の語り手としての側面も持つ。
第一エペイソディオンに対応する対話が始まり、クレオンが、戦争の勝利についての詳しい報告と国への新しい布告を携えて登場する。
Tでは十一の「軍団」はテバイのものであるように見える。Iは「十一の地区軍団のうち」でアルゴスの軍団と捉えるが、Stadtschaft(独和辞典だと「都市信用組合)は、Cがtownshipと訳しているように、アルゴスの地区そのもの。Mはcities。
ついでクレオンはテバイへの呼びかけの形をとった称賛を行う。ここはゲーテの西東詩集によるアラビア語の詩の翻訳が利用されている。テバイをdu(君)と呼びかけるクレオンの言葉は、一応そのように訳されている。
興奮したコロスが「略奪品の絵図も付け加えてくれれば満足です」と問うのに対して、クレオンは、「直ぐだ!友よ、直ぐだ!だがまずは仕事だ」と返し、二つの用件を告げる。
二つ目はポリュネイケスの埋葬禁止だが、一つ目は、ソフォクレスにはなく、ブレヒトがこの作品に導入した戦争の収支の主題である。
大勝利を告げ、略奪品の報告を求めるコロスに「友よ」と呼びかけた直後に、また、裏切り者の埋葬禁止を命じる直前に、クレオンが「お前たちは金も血も出し惜しんでいる」と言うのは信じられない。コロスに独裁への批判的視点を見る日本語の考察はこうした翻訳の影響を受けているのではないかしら。rechnenは「計算する」「算定する」で、「戦車の車輪の数を数える」とは戦費をうるさく勘定することの比喩だろう。だから「算定しない」のは総力戦で臨んだことを意味する。谷川訳のの「戦車の収支をないがしろにし」はそう言う意味かもしれないが、クレオンがそれに対し否定的なのは分からない。岩淵訳の「払っていない」はどこからかしら?
後半、nicht…, noch…は「~も~もない」を表すので、「血を惜しんでもいない」にしかなりようがないと思うが、両訳ともに逆にしている。Cの"I know You don't keep count how many wheels the war god's Foe-crushing chariots need and don't begrudge him Your sons' blood in the battle"は直訳的。
勝利だとしても人的・物的損失はあるので「戦いの神」は「弱って」戻ってくる。部隊がテバイに戻ってきたら、出費と略奪による利益との考量がなされることになる。「神が兵力を減らして自らを安全に保護してく れる屋根の下へ戻るとき」は敗戦を含意しない。そのときのために、人的損失がそれほど大きくないという報告をできるだけ早く行うように求めたのである。
コロスはクレオンの埋葬禁止の布告を直ちに承認し、ソフォクレスよりも同調的であることはFlashar (1988)の指摘がある。そこに見張りが登場し、ポリュネイケスの遺骸に砂がかけられていることを告げる。その登場の言葉
ソフォクレスが「王」を意味するἄναξやβασιλεύςにヘルダーリンはほぼKönigの訳語を当てているが、ブレヒトは一貫してその言葉を避け、HerrやMenökeus' Sohn, Führerで置き換えており、それは意図的だと考えるべきである。谷川訳はHerrは「王様」とし、Menökeus' Sohnにも「メノイケウスの子クレオン王」と王を補う。岩淵訳では「王」はさらに多用されている。岩淵訳も「支配者」が「総統」と同じ言葉だと注記している。「総統」という言葉を舞台で使いたくない理由があったのかもしれない。ブレヒト版で避けるべきは「王」という言葉だと思うのだけれど。
ブレヒトが一貫して「王」を避けていることとともに、ソフォクレスにおいてはアンティゴネだけが決してクレオンを「王」と呼ばないことも注目に値する。1951年に書かれた「新しいプロローグ」でも、アンティゴネは「オイディプス一族の領主の娘(Fürstin)」、クレオンは「独裁者(Tyrann)」と呼ばれている。
第一スタシモン(B268-310)
「凄まじきものは数多あるが、人より凄まじきものはない」で始まるいわゆる人間讃歌。「凄まじき」と訳した言葉はソフォクレスではδεινός で、ヘルダーリン訳ではungeheuer。ブレヒトは全四連のうち第三連の途中(B299)までは変更を加えつつもヘルダーリンに従い、その後は独自のテクストにしている。
B271-272のgegen den Winterのgegenは「逆らい」「でさえ」と逆説的な意味に捉えているが、単純に時間の意味ではないかしら。これはS335の
πόντου χειμερίῳ νότῳ(海の冬の(激しい)南風)へのヘルダーリンの訳文をそのまま用いている。エーゲ海は冬の激しい南風で知られていた。Jebbは「冬の南風」の与格を「道具的与格」と捉え、"driven by stormy south wind"(「激しい南風にのり」)と訳すが、環境、状況を表す与格かもしれない。
ソフォクレスS337-338はθεῶν τε τὰν ὑπερτάταν, Γᾶν のθεῶνは複数の部分属格「神々のうち、最も尊きガイア様」ヘルダーリンは「神」と言う言葉を避けDie Himmelischeとし、さらに最上級で訳さないので、Erdeが神(精霊)であるとことは分かりにくい。そしてErdeが神格化されていることを考えると、B376のaufreibenは「消耗させる」とか「擦って傷つける」の含意を出さないと人間がungeheurlich(凄まじい)ものであるというニュアンスがでない(まあこれは細かすぎる)。「神」という訳語は避けたほうがよかった。
「暴れ馬」「悍馬」「暴れ牛」とされているが、ここでは人間がもともと野生だった牛馬を家畜にしたことが肯定的な意味で人の「凄まじさ」として挙げられているのであって、「暴れ馬」「暴れ牛」の含意はない。岩淵訳が馬を「白」くした理由は不明。馬のたてがみがrauh(粗い)のは、野生なのでブラッシングしていないからかしらね。
「矢の雨」を避ける知恵を人が持っているとは思えない(重装歩兵はある程度そうだったのかもしれないけれど)。普通に「雨の矢」「矢のように降り注ぐ雨」。
その続き、ソフォクレスの原文は 'παντοπόρος· ἄπορος επ᾽ οὐδὲν ἔρχεται τὸ μέλλον· '「万象に策を用いる。先に何があろうとも、決して無策のまま向かいはしない」(S360-361)。それをヘルダーリンは「万策に通じるが何も知らぬ。 何も成し遂げず(Allbewandert,/ Unbewandert. Zu nichts kommt er.)」と、Unbewandertの後にピリオドをおくことで逆転してしまった。だが、ブレヒトは、ヘルダーリン訳をそのまま用いた後、「何事にも策を知り、策なしで向かうことはなし」と、ソフォクレスの原文に対応する言葉を付け加えている。このことは、ブレヒトがヘルダーリン以外の訳も参照していたことを示唆する。そのまま訳すと撞着的表現になる箇所だが、人がungeheuerであることの二面性の表れなので、撞着的で構わないと思う。谷川訳は、zu nichts kommt erと、Ratlos trifft ihn nichtsを「とどまるところを知らぬその欲望」、「その知も結局役立たず」としたが、どう言う理屈でそうなるのかはよく分からない。岩淵訳はは、「すべてに精通して/なおも無知で未到達」に「だと思う」を付け加えて人間の持つ主観的信念として合理化したように見える。
最終連はソフォクレスから完全に離れるが、人と社会との関係を扱っている点は共通している。ブレヒトのコロスは、人が知識では限界を知らないとみなし、そこに良い意味で人のUngeheuerlichkeitを見てとる。他方、他人を踏みつけにし、独占しようとする欲望のうちに、悪しき「凄まじさ」を見てとるのである。
ここは純粋に解釈の問題。
人は「一人では腹も満たせ」ないのに、「持ち物は壁で囲う」。なので「壁は取り壊さねばならない」まではわかりやすいのだけれど、その後の「屋根が雨に向かって開いている」とは何を指しているのか。谷川とマリーナは、壁を取り壊さねばならのと同様、屋根を開かねばならないとmuß seinを補って理解する。岩淵は、人の財産を奪うためには壁を壊さねばならず、そうすると、雨の中、部屋を破壊する羽目になると捉えているように見える。
あまり自信はないが、「壁」は同じ人間を遮るものであり、「屋根」はより自然の暴力を遮るものを指すのではないか。「雨の矢」を避ける術を学んだことは肯定的に捉えられていた。雨ざらしの中、他の人間からは財産を「壁」で囲おうとすることの「凄まじさ」だと捉える。Cは両義的だがそのように解していると思われる。
第一スタシモンではコロスは、侵略を積極的に支持するテバイの老人としてではなく、「物語世界外的な語り手」として語っており、その内容は物語と直接の関係を持っていない。スタシモンのコロスは基本的に「語り手」であるが、それと劇的行動との関係はやや複雑であり、これについては徐々に検討を深めてゆく予定。