ブレヒト『アンティゴネ』の翻訳ノート⑶ 第二エペイソディオン~第三スタシモン
第二エペイソディオン(B311- 572)
コロスは見張りにアンティゴネが連れられてくるのを見て驚く。
見張りはアンティゴネを今度は現行犯で捕え、連れてくる。それを見てコロスは、「アンティゴネ」ではないと言いたい気持ちに駆られる。それが「神のVersuchung」なので「試練」ではなく「誘惑」。「キリスト最後の誘惑(Versuchung)」で悪魔はキリストに試練を課したわけではない。
これも選択ないし解釈の問題。
この箇所は「著作集」11巻にはある。初演時の演出用台本にはあったがModellbuchでは削除されていたもの。私が定本にしたHecht編のSuhkampf Taschenbuch 版(1988)では復活。既訳では意図的に、こうした箇所のいくつかを復活しいくつかを削除のままにしている。両訳ともたとえば450a、467aは訳している。全部復活した上で注記するのが親切だとは思うけれど。
見張りはアンティゴネによる二度目の埋葬の場面を次のように語る。
自分がかけた砂が取り払われ、剥き出しの遺体を見て「ひなが消えて巣がからなのを見た母鳥が悲しんでいる、そうなふうに嘆」いていたアンティゴネは、もう一度砂を集めて遺体を覆い、鉄の甕から三度Ergießungenで死体をverschüttenした。ここはソフォクレスではἔκ τ' εὐκροτήτου χαλκέας ἄρδην πρόχου/ χοαῖσι τρισπόνδοισι τὸν νέκυν στέφει. (S430-31)「立派な造りの青銅の水差しを高く掲げ、死体の周りに供養の飲み物(コエー)を三度注ぎかけたのです。」で、ヘルダーリンは "Und aus dem wohlgeschlagnen Eisenkruge kränzt / Sie dreimal mit Ergießungen den Toten."と訳しており、Ergießungenはコエーの訳語なので液体。彼女の行為(στέφει, kränzt)は「花冠で飾る」を意味するが、死体の周りに水を注ぎかける比喩になっている。ブレヒトはヘルダーリンの訳文の語順を変え、「再び死体に砂を集めると」を補い、kränztからverschüttendに動詞を変更している。
私は、死体のverscüttenに用いられているErgießungenはやはり液体で、一度目の埋葬で砂を振りかけ、二度目の埋葬では本来はコエーを注ぎかけに来たのだが、死体が剥き出しにされているのを見て、塵を集め被せたのちコエーを注いだと解した。この解釈はアンティゴネのテクストの「合理化」にもなっている。ブレヒトは本編冒頭でのイスメネとの対話中にアンティゴネに甕に砂を入れさせているが、その砂は最初の埋葬に使われている。両訳ともErgießungenを訳文に入れていないので「砂」と捉えているのだと思う。C "And gathered dust on him again from the iron jug/ Three times with waterings so burying over The dead man." はwateringの訳語を当て、M "Three times she sprinkled dust on the dead man"は「砂」。
見張りに捕えられたアンティゴネが「自分が埋葬した」と述べる場面で
ポリュネイケスの死体はいままさに野晒しにされているので、ich… hätt grablos liegen lassenは「野晒しにされているのを私がそのまま放置していたとしたら」。
「こんなこと(das)」とは、死ぬこと=捕えられてクレオンの手で処刑されること。
その後、テクストはヘルダーリンから離れ、ブレヒト独自のものになる。アンティゴネはクレオンが行っているのが侵略戦争であると訴え、コロスも同じように「震えている」(B399)として、コロスにも声をあげるよう求めるが、コロスは黙認する。コロスの沈黙に対するアンティゴネの言葉。
両訳ともにコロスに好意的だけれど、ここは「認める」「黙認する」。アンティゴネは声をあげることを、クレオンは沈黙を求めていたのであり、沈黙は我慢ではなくクレオンへの協力、承認。「この男のために口を閉じてる。」邦訳のコロスへの甘さは『アンティゴネ』の一番最後でグロテスクになるが、とても日本的な民衆無罪論だと思う。
アンティゴネはコロスへの期待が裏切られたと捉えている。B429も沈黙が「報われる」かどうか、「いつか思い知る」かどうかという予測ではなく、侵略への協力が決定的であって「忘れさられることはないだろう」という判断を示す。なのでクレオンの応答が「こいつは帳簿をつけておるぞ。」になる。アンティゴネは、誰が侵略の仲間で、だれが仲間でないのかを確認した。C: "A: So then you let it be and keep your mouths shut for him. / Let that not ·be forgotten./ C: She notes it against you."
M: "A: And you take it and let him shut you up. / It will be remembered./ C: She's keeping accounts!"
アルゴス侵略を正当化するクレオンに「あなたと一緒に敵の家に住むよりは、祖国の瓦礫に腰掛ける方が良いし、安全。」(B473-475)と答えるアンティゴネに対するクレオンの罵倒。
「もう居座れなくなり、 二度と戻るなと言われているのに、荷物を纏めるのに、Lagergurte を切断する客」と言われているが、Lagergurt(ベッドの革紐?)がちょっと辞書にない単語で、両訳とも、「寝床を壊してその革紐で荷物をまとめる」という意味に理解しているが、ドイツのベッドには革紐が標準装備で、ベッドをまず壊してそこに付属していた革紐を取り出して、それで荷物を纏めるの?
die Lagergurte durchschneidetをこのように解釈するのは普通ではないので、この二つの訳が依存的である実例だと思う。どちらがどちらに依存しているのかはわからないけれど。
ググってみると、移動用に毛布や寝袋などの荷物を巻いて纏めるための革紐のことをLagergurtと言うらしいので、荷物をまとめるのに、纏めるための紐を切断してしまう→やたら愚図愚図するということなのだろうと理解した。Cは"Who packing his bags in his insolence cuts through the guy-ropes" で直訳的、Mは"who insolently tampers with his luggage”で荷物を弄んで支度を長引かせるという意訳。
B484あたりから、再びソフォクレス(ヘルダーリン)のテクストに戻ってゆく。ただし、省略や変更の度合いは大きい。アンティゴネとクレオンの対立が頂点に達したところでイスメネが登場。彼女は、クレオンに埋葬に関わっているのかと問われる
イスメネの最初の言葉はヘルダーリンでは"Getan das Werk hab ich, wenn die mit einstimmt, / Und nehme teil. Die Schuld nehm ich auf mich."と、「彼女が認めてくれるのなら」の条件がwennではっきりしているが、ブレヒトのように倒置しても条件であることは変わらない。ブレヒトは、「認める」の主語をdie Schwesterと明示している。アンティゴネの応答は"Das wird das Recht ja aber nicht erlauben./ Du wolltest nicht. Ich nahm dich nicht dazu mit." 「正義はそれを許さないだろう。お前は望まなかったし、私はお前を関わらせなかった」だが、ブレヒトでは、前行のdie Schwesterを反復して、「姉が認めてくれるのなら」「だが姉は許さない」と対応させている。そもそも、イスメネが「罪」という言葉持ち出している点で、アンティゴネとの隔たりは大きい。
ソフォクレスの”{ΙΣ.} Τί γὰρ μόνῃ μοι τῆσδ' ἄτερ βιώσιμον; / {ΚΡ.} Ἀλλ' «ἥδε» μέντοι μὴ λέγ'· οὐ γὰρ ἔστ' ἔτι." 「イ:この人なしで、私一人でどうやって生きていけば良いのでしょう。ク:「この人」などと言うのは止めることだ。もうおらぬ者なのだからな。」をヘルダーリンは、" I: Mir lebt nichts, wo allein ich bin, nicht die auch. / K: Die Red ist nicht von dieser. Die ist nimmer."と訳し、ブレヒトはイスメネの台詞を簡略化し、クレオンの台詞はそのままにした。お前が「この人«ἥδε», diese」などと呼ぶ対象は(死刑にするので)もういない者なのだ、という酷薄な言い方。
兵士が姉妹を連れて退場すると、クレオンは、勝利の印に剣を神殿に収めるため、コロスにそれを渡し、代わりにバッコスの笏丈を受け取る。勝利の後の粛清があまりにも過酷にならないようにとの嘆願を行う長老の言葉。
前半部分は、あまり過酷な粛清を行っても、また、利益を齎しそうな者を滅ぼしてもならないとの含意で、後半部分は国内の不満分子への対応のアドヴァイスだろう。
第二スタシモン (B547-B577)
ソフォクレスのスタシモンはラブダコスの一族の禍いを歌うが、それに対応するブレヒトのテクストは、ソフォクレスにもギリシア神話にも見当たらないオリジナルの、「ラクミュスの兄弟たち」の物語で始まり、小さなきっかけで「積み重ねられた悲惨」が爆発すると述べる。スタシモンのヘルダーリン訳、ピンダロスのヘルダーリン訳が部分的に用いられている。
ブレヒト独自のラクミュスの物語のテクストでは、敵に虐待され、妻たちは夜の相手をさせられた日々を耐え続けたラクミュスの兄弟たちをある日ペレアスが杖打とうとする。
Lachmyschen Brüderは谷川訳では「ラケミスの兄弟」岩淵訳では「ラクミスの兄弟」。だがペレアスが二人を軽く杖で打つと、二人は立ち上がって敵を全て打ち殺してしまう。"Dies war diesen das ärgste"だったのである。このDies を両者とも「苦しめられたこと」と訳すが、文脈から明らかに「ペレアスが杖で打ったこと」である。この物語は「積み重ねられた悲惨が、ほんの小さな事柄で熟して終わる。」ことの実例になっている。
また両者とも「ペレアス」に注をつけて「ペレアスまたはペリアスは」イオルコス王だと述べる。ドイツ語全集版の注釈に基づいているのだけれど、TLGでΠελεαで検索しても結果がないし、Neue-Paulyの事典もPeliasの異綴としてPeleasに言及していないので、根拠がないようにみえる。メデイアに唆された娘たちが、父を若返らせる魔術だと信じてペリアスを八つ裂きにして大釜で煮たというのは、イオルコス王ペリアスの神話の中心部分の一つなので、これはブレヒトがどこかでイオルコス王のことだと書いていない限り全集版の注釈の間違いだと思う。そもそもブレヒトオリジナルの物語だし。
ラクミュスの兄弟たちの妻たちが、「密かに緋の衣に包まり」(B551)座していたという言葉は、イアソンの両親がペリアスを恐れて生まれたばかりの息子を「密かに緋の衣に包んで」ケイロンに託したというピンダロスの『ピュティア祝勝歌」第四歌のヘルダーリン訳の借用だが、ペレアス=ペリアスの根拠にはならないだろう。