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文庫本ノートを使うことで得られるものと失うもの。

こんにちは。ネットフリックスのドラマ「三体」にハマっています。このままテクノロジの進化が進んでいくとどうなるのか。そんなことをふと考えさせられますね。まあ時間を上手く作れなくて鈍足ですけど・・・。


枠に囚われない。

アナログへの回帰、とは呼べないのでしょうが、テクノロジに頼らない生活に憧れるときがよくあります。デジタル・デトックスしたら禁断症状でおかしくなるくらいテクノロジとの距離感が近くなりすぎてしまった。少なくとも「書く」という行為だけでもアナログでいたい。そう思っています。

以前、無印良品の文庫本ノートを使っていると書きました。

使いはじめてもうどれくらいになるのかわからないですが、なにもない空間に自分自身の手で書き記していくことが自分の心身に快感をもたらしてくれます。個人的にも枠に囚われたくないという思いもあって罫線入りのノートがとても窮屈でならなかった少年時代。時折、ふと思い出したりします。

文庫本ノートの使い方。

基本「書く」情報は文庫本ノートにまとめます。ミーティングやメモはiPad標準のメモを使い、一晩寝かせて、翌朝に前日のメモをすべて文庫本ノートに転記します。これにより自分のなかの記録と記憶の相互関係を整理できます。また翌朝には、前日あった出来事を中心に日記を五行でログします。

この日記は、レゴ®シリアスプレイ®のワークと同様に限られた時間内で書くようにしています。小説のように熟考するよりも直感とインパクトを信じて書くほうがより鮮明に残ります。原則、左のページのみを利用し、右ページはその時に入手した記録と記憶の断片を貼ったり、落書きしたりします。

右ページは落書きしたり・・・
こんなの貼ったり・・・誰得

触覚と視覚。

なにも「アナログのほうが人間味溢れていていいぜーベイベー」と言いたいわけではなく、人間の本質としてアナログな部分を残しておいてもいいのではないかと思います。実際に手を動かすことで導き出されることも多い。レゴブロックに触れる感覚と同様、ペンを持つ手も感じ方が違ってみえます。

また、もうひとつの理由は視覚。日記と、その日に発生した記録と記憶の断片が密接にリンクしていく。マンネリ化したイマジネーションを劇的に変えるファクターにもなっています。こじつけに近い気もしますが、7つの習慣で言えば「あるがままの世界を見る」ことへと直結していくのしれませんね。

あ、レゴ®シリアスプレイ®も、ですね。

アナログには失うものある。

ただ、ネガティブな部分もないわけではありません。ひとつは文庫本ノートの置き場所。大量のアーカイブの管理にはいつも困っています。そしてもうひとつは左ページに書くということで、新しいノートの場合に下敷きが必要になってくること。こういった部分を如何にクリアするかを考えています。

ポジティブな事柄はたくさんあるのでここでは割愛しますが、このように物理的なノートとなるとどうしても保管場所や保管方法を検討しなければならない。失うものもあります。しかし書くことを止められないのも自分自身の性(さが)と呼べてしまうのもまた真なり。デジタル化の検討要かな・・・。

フランクリン・プランナー民だったときは、こんなバインダーも使っていたなあ、としみじみ・・・。

最後に。

とは言え文庫本ノートから離れるつもりは毛頭ございません(笑)なにより枠に囚われない無地の荒野にこそ自分自身という存在証明ができるのだと確信しています。昔から新聞広告の裏や学校からの案内の裏に、文字や絵やマンガを書いていたのをふと思い出す。書くという原点は確かにここでした。

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