そうか。「誰かのために」だったのか。
こんにちは。以前は新しいガジェットが出たりするとすぐに買ったりしていましたが、最近ではなかなか。たまには手に入れないといけないですね。
メロビンジアンの言葉。
このnoteもそうなんですが、ほぼ毎日のように何かを書いています。社内でもいくつかのマイクロブログを書いたり、ときには長文を書いたり。そのひとつに「ラボ」というコーナーがあるのですが、ラボとは名ばかりのノー研究になっているのがつらい。ちょっとはラボ的な行動を取らないと。
先日ふとこれらの文章を「何のために書いているんだろうか」と自問自答する機会がありました。すべての行動には理由がある、と。映画「マトリックス リローテッド」のメロビンジアンの言葉にもあるように、普遍的なのは、真実と、因果関係と、作用と反作用と、そして、理由と結果なのか、と。
どんな文章も、そうか。
本当にそうなのだろうか。何も考えずただ闇雲に文章を書き連ねることははたして悪なのか。そのときには考えたりしていました。「理由なき反抗」なんていう映画もあったし、理由のない書き物だって、あってもいいじゃないか。ここまで来るともう中学生に戻った気分(現に感覚はそうなっていた)。
というのは冗談で、やはり「何かを書く」というのは、言い換えると「誰かのために書く」なのかもしれません。大切な人に向けてのみ、どんな文章も世に現れてくるのではないか。大切なサッカー関連について1990年代からブログを書き続けてきた身としてはそう思うしか理由が思い当たりません。
目的地(ビジョン)はどこなのか。
7つの習慣の「第2の習慣:終わりを思い描くことから始める」は、まさにこの「誰かのために」なのだろう。有名な告別式の場面を思い描き、自分について嘆き悲しんでくれる感謝してくれる場面を想像しながら考えをまとめていきます。自分のために泣いてくれる人は一体どれだけいるのでしょうか。
この第2の習慣と、その前の「第1の習慣:主体的である」が進まなければ、いくら最優先事項を優先しようとしても土台無理。物事には原則があり、原則は揺るがない。目的地はどこなのか。知的創造(第一の創造)がなければ物的創造(第二の創造)は起こらない。それはビジョンとも呼べますね。
必要とされているのか。必要とされていないのか。
長生きをしたいと決して思わないけど、せめて死ぬときくらいは仲間から祝福されたい。実にそう思います。そんな仲間のために文章を書き続けていくのだろうなと思うと、指が進む気もしますね。(サッカーブログのように)年々手を動かすのが億劫になってきているので、是非応援お願いします。
そして、この駄文を読んで、少しでもなにかの足しになれば、明日への希望になれば良いなと思いながらタイプし続けます。そのためには日々精進し学び続ける必要があるなと改めて考えさせられます。その先で必要とされなくなったときに筆を置きます。え?もう必要とされてないって?悲しい…。
みんな「誰かのために」生きているがものすごく伝わってくる映画。何回見ても泣いてしまいます。
最後に。
ITの能力も年々衰えていっています。もう少し頑張らないといけないです。サッカーのほうはまだまだ「誰かのために」頑張れそうなので、もし興味があればTwitter Spaceでも聴いてみてください。