現実主義者の平和論。|2024,Week32.
何か問題があるたびに、その対象の大小問わず、道義主義的な発言が繰り返されているように思う。「対話が大事」「争いは何も生まない」「相手を理解する心が大事」。もちろん、これら一つひとつが大切なことは言うまでもないし、誰しもが心がけるべきであることに疑いの余地はない。僕も小さい頃から、相手のことを尊重しなさいと教えられ、育てられてきた。特に、僕はキリスト教の家庭に育ったからその手の教育というか、倫理的なものに接する機会はまあまあ多かったとさえ思う。「もし、誰かがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬も向けてやりなさい」というのもよく教えられたものだった。
しかし、ここに1つの逆説があると思う。これだけ対話やコミュニケーションの普遍的な価値が認められ理解されているにもかかわらず、問題は無くならないという逆説だ。これは何も国家主体が繰り広げる戦争や紛争だけに限らない。個人間でのいざこざもそうだし、会社や何らかの組織に所属していれば、多かれ少なかれその手の問題から避けることなど不可能だと思ってしまいます。
もちろん、対話はコミュニケーションは言うまでもなく大切だ。意外と話せばなんとかなったとか、むしろ雨降って地固まるのように前よりも仲良くなったとか、その手の話しはゴマンとあるわけで、実際に自分自身もそういう経験、よくあります。でも、必ずしも毎回そんなふうに解決しているだろうか。ちょっと胸に手を当てて考えて欲しい。「あいつが悪い」とか「俺は悪くない」とかとか、誰しも思ったことがあるでしょう。
要は、ここに書いてある道義主義的な内容のほとんどは「言うは易く行うは難し」だということです。誰しも頭でわかっているんだけど、いざそれが必要なときに実行できるかというと、それは別問題という。何かしらそれっぽい理由をつけて、対話をしなかったり、理解しようとしなかったり。そもそも、理解しようとすら思わなかったり。多かれ少なかれ、誰しも経験があると思います。僕もかなりある。
僕らの社会を構成する、見えない「パワー」の作用
ここまで書いたものを読むと、そうした対応が無駄かのように見えるけど、僕は何もそういった道義主義的な態度が必要ないと言うために、この文章を書いているわけではない。むしろ、こうした心持ちを何度も再認識することで、問題への対処方法が徐々に変化していくだろうし、相手を理解し慮る姿勢は社会生活を営む上で必要不可欠であろうとも思っている。
しかし、ここで取り上げたいのは、そうした過度な理想主義的態度を強調するあまり、世の中を構成するパワーへの理解が危ぶまれるんじゃないか?ということだ。単に「話せばわかる」「お互いを理解しよう」というのは、相対する両者のパワーバランスが拮抗しているときには有効でも、どちらかが強大な力を持っているときには使用できない。例えば、ジャイアンとのび太では、初めからパワーバランスが崩れているがゆえに話し合いなどもたれない。一方的にジャイアンはのび太に暴力を振るうし、のび太もそれに抵抗しない。ドラえもんという「均衡装置」が用いられて初めて、ジャイアンとのび太は対等な関係を構築できている。これは何もドラえもんに限った話ではない。僕らの周りでも、例えば上司と部下が同年齢でお互いに信頼し、普段から仲の良い友だちとして振る舞っていても、仕事の場になれば振る舞い方も変わってしまうのはよくあることだと思う。
つまり、僕らには見えない「力」が何らかの形で前提的に備わっており、お互いにそれらを感じ取り合っている。分かりやすいものでいえば、「肩書き」や「役職」、「経歴」やらそういったものから、何かこの人は腹に据えかねているものを持っているんじゃないかという「雰囲気」、そして主体を国家レベルまで引き上げれば、「経済力」「軍事力」「文化力」など、さまざまある。国際政治において、このような構造を「バランス・オブ・パワー(勢力均衡)」と呼ぶ。1国また1国家群が優越的な地位を占めることを阻止し,各国が相互に均衡した力を有することによって相対的な国際平和を維持しようとする思想,原理のことで(出典:コトバンク)、つまるところ、このような力の構造を把握しなければ、理解が不十分であれば、せっかくの道義主義的な態度も成立しない、実体のないスローガンに成り下がってしまうのではないか。相対的にパワーの無いほうが「対話が大事」と言ったところで、それに耳を貸してくれる存在が果たしてどれだけいるのか。人間感情的には耳を貸してやってほしいと思うけれど、実際問題、そうした力なき声はかき消されてしまうのがオチだと思う。悲しいけれど。
余談になるが、僕は大学時代、政治学科に所属していたもののあまり熱心に勉強をした記憶がないが、この「バランス・オブ・パワー(勢力均衡)」という概念を1年生のときに学んで、電流が走るほどの衝撃を浴びたことを覚えている。もちろん、政治自体、そのような単純な図式で表せるものでもないし、特に国際政治は異なる政治的空間が折り重なった「複合体」であるから、余計ややこしいのだけれど(国際政治学者の中西寛は国際政治を「主権国家体制」「国際共同体」「世界市民主義」の3つの位相によって成り立つと定義づけている。僕はこれがいちばんしっくりきたので紹介する。出典『国際政治とは何か 地球社会における人間と秩序』)。
バランス・オブ・パワーは、目に見える概念ではない。『13デイズ』
こうしたバランス・オブ・パワーを理解するのにとても有効な作品がある。キューバ危機を題材にした『13デイズ』という映画だ。この作品は、世界が核戦争に最も近づいたとされるキューバ危機の「13日間」を、アメリカ側の視点で紐解いたポリティカルサスペンスドラマです。2年ほど前、映画エッセイとして紹介したことがあるのだけれど、今回は改めてこの映画を取り上げようと思う。
「危機の13日間」は、1機のアメリカ軍偵察機U-2が撮影した航空写真から始まる。そこにはソ連が中距離弾道ミサイルをキューバに配備している様子が映し出されていたからだ。ジョン・F・ケネディをはじめとするアメリカ政府は事態を重くみてすぐにNSC(国家安全保障会議)を招集し、対応を話し合うが空軍トップのカーティス・ルメイ参謀総長を中心とした「即刻キューバを空爆し、危機を未然に防ぐ案」と、ロバート・マクナマラ国防長官の「まずは海域を海上封鎖し、ミサイル配備を防ぐ案」で紛糾する。 確かに、早い段階でミサイルを攻撃不能にすれば、アメリカへの発射を防ぐことができる。しかし、もしミサイルのうち数機でも残ってしまったら? 核という強大な兵器を発射する口実をみすみすソ連に与えてしまうことになってしまう。結局は、事態の悪化を懸念したケネディ大統領が海上封鎖を選択することになったのだが、事態はそう簡単に収まるはずはなかった。「海上封鎖」は国際法で認められていないからだ。
「海上封鎖」のような強制力をともなう措置を講じるには、事前に国連安全保障理事会のような国際機関での決議が必要だ。が、理事国にはソ連も含まれているから拒否されるのは目に見えている。そこでアメリカ側は「海上封鎖」を「海上臨検」と言い換え、あくまで自国内の措置という名目にすり替えるのだが、そんな都合はソ連には関係はない。フルシチョフ政権はアメリカの海上臨検に対し、武力行使も辞さない構えで徹底抗戦をちらつかせる。まさに一触即発。そして、そのようなときに最悪の事態が生じてしまう。キューバ上空を偵察していたアメリカ軍機が、ソ連軍の地対空ミサイルに撃墜されたのだ。
実は、この海上臨検を行っているのと同時に、空軍主導でキューバの低空飛行偵察が行われていた。ケビン・コスナー演じる主人公の大統領補佐官オドネルは、こうした軍主導の作戦は攻撃開始の口実を作るだけだと批判していたものの、NSC内のパワーバランスゆえに聞き入れられることはなかった。というのは、彼の肩書きはあくまで大統領補佐官であり、軍の作戦決定プロセスには組み込まれていないからだ。そう、こうした国家VS国家のような影響範囲がとてつもない分野においてもなお、組織というのはお互いを理解し「一枚岩」になることは難しいのだ。言ってしまえば、NSCに列席する彼らは、僕なんかの想像をはるかに超える「Best & Brightest」という、最も頭脳明晰で優秀な人間たちですら、状況を判断することは非常に難しい。学校のテストのように、明確な答えがあるわけではない。あるのは、過去に行われた膨大な人間の歴史の蓄積と、自身の頭脳だけ。アメリカ軍機撃墜によって即刻キューバへの爆撃を大統領に迫る軍部。まるで、初めからそれを狙っていたかのように……。
しかし、すんでのところで戦争は回避された。水面下で行われたソ連との交渉で、アメリカがキューバへの不可侵とトルコに配備する中距離核ミサイルの撤去を約束したからだ。いわばソ連からしてみれば、もともとアメリカがトルコに配備していた中距離核ミサイルこそ、ソ連の安全保障を揺るがす「脅威」であり、許されるものではなかった。だからこそ、社会主義国であるキューバにアメリカを狙うミサイルを配備することで、勢力均衡を図ろうとした。これは「安全保障のジレンマ」と呼ばれる状況で、ある国が軍備拡張をすれば、別のある国が自国防衛のために軍備を拡張し、それをみた別の国もまた軍備拡張を….と続く状況をいう。
キューバ危機は、勢力均衡状況を意図的に作り出したことで、結果的に「核戦争」という最悪のシナリオを回避できたといえる。もちろん、アメリカにとってこの判断は大きな痛手を伴うものでもあった。一度でも譲歩をすれば、次第に要求はエスカレートする恐れがあるからだ。トルコを手放したら、ベルリンも、ベルリンを手放したらヨーロッパもと。
これは非常に難しい判断だというのがわかる。この時点で取引に応じなければ、アメリカは軍部の強硬派の意見を封じることができずにソ連侵攻を決断していたかもしれない。もし、そうなら行き着く先は本当の「戦争」だ。しかし、だからといって対話をすればどうなったたろうか。史実的に戦争は免れたが、それはあくまで結果論。その時点ではオドネルのいうように、今後の米ソ対立を左右しかねない決断だったから。
こうしたバランス・オブ・パワーは、あくまで国家規模の話だけでないことは、冒頭で話したとおりです。「対話をする」「相手を尊重する」「争いは何も生まない」。そんなこと、言うまでもなくお互いに理解はしている。しかし、このような事態は生じてしまうのだ。お互いの置かれた状況、役割などなど。物事はそう簡単に解決できるほど、シンプルなものではない。アメリカもソ連も、置かれた状況における最適解を求めつつ、お互いにコミュニケートする。そして、物事の帰結が導かれる。このような道義的主義的態度は、あくまで前提の姿勢のことであって、それ自体が問題解決の糸口になることはない。それを満たしたうえで、問題の解決が図られるのだ。
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海上封鎖のさなか、国防省内ではあるやり取りが繰り広げられる。停止線を越えて航行を続けるソ連船に対し、アメリカ海軍は曳光弾を撃ち放つのだ。
現実主義者の平和論
現実における諸問題は、目的と手段との「双方向的な会話・対話」を通じて導かれるものだと思う。それは何も、13デイズで取り上げたキューバ危機のようなものだけでなく、日常のさまざまなものも含めて。「対話をする」「相手を理解する」「争いは何も生まない」。そうした前提の姿勢を取りつつ、そのうえで具体的な解決策を導けるかどうか。
奇しくもこの8月は、先の大戦で亡くなった方々を悼む期間でもある。安易なスローガンに逃げず、どのような解決策が導けるか。現実主義者の平和論として、これからも考えていきたいと思います。だいぶ長くなったけど。