第8回:『コロンバス』(2020)
「言葉を選ぶ」という表現がある。相手をおもんばかって適切な言葉を使うという意味だが僕は常々、この「選ぶ」という表現がどうもしっくりこない。
というのは、言葉を選ぼうとするとき、選ぶ対象となる言葉はすでに世の中にある「語彙」からしか選べないからだ。たとえば、ある建物を見て「美しい」と感じたとしよう。そのまま「美しい」と表現しても何ら問題はないけれど、「美しい」と表現した瞬間にデザインが対照的だとか、色合いが鮮やかだとか、建物から受けた様々な周辺の要素がそぎ落とされてしまう。僕はこれをもったいないと思うし、美しさのその先を考える余地を奪ってしまうとも考える。それに、本当に「美しい」のかも分からないのに。
もちろん、「美しい」と表現したとしても、そこから派生して別の言葉を探す・生み出すこともあるし、他に言葉が見つからないけど何かを表現したくて適当(に見える)言葉を当てはめただけということもあるだろう。確かにそれも分かるし、僕自身も無意識に何回もやっている。けれど、これは僕の経験則で再現性のない主張だが、表現した内容から別の表現に「昇華」されるよりも、その状態で止まることのほうが回数的にずっと多いように感じるのだ。ある種、脳が無理やり言葉を当てはめることによって考えるエネルギーを節約するかのような。探せばもっと別の表現があるにもかかわらずありきたりな言葉に留まってしまうような。「言葉を選ぶ」という表現には、そういう「別の可能性」をそぎ落とすニュアンスを僕は感じ取ってしまう。
建築は人の心を癒やすのか?
つい最近、ある映画を見た。それは、今回の映画の瞬間でも取り上げる『コロンバス(2020)』という作品。アメリカはインディアナ州のコロンバスという街を舞台にした映画で、監督はコゴナダ(kogonada)という聞き慣れない人物。一瞬、「ん?」と首をかしげてしまうがこれは一種の偽名で、何でも小津安二郎作品の脚本を担当していた野田高梧(ノダ・コウゴ)からとっているらしい。コロンバスは人口わずか5万人にも満たない小さな街だが、街中にモダニズム建築があふれ、「モダニズム建築の宝庫」とも呼ばれている。この映画も「モダニズム建築は人の心を癒やすのか?」という作中でも語られているテーマを中心に、画面いっぱいにモダニズム建築が映し出される。
僕はもともと建築が好きで、モダニズム建築から派生した「メタボリズム建築」や「ブルータリズム建築」なんかはもっと好きだ。特に代々木にある国立代々木競技場は今までに見たことのない吊り屋根構造で初めて実物を見た高校3年生のときからずっと、好きな気持は色あせていない。今回、作中で何度も登場する建築の数々はどれも素晴らしい作品で、それを見られるだけでも十分だとも思う。
けれど、あえて僕は言いたい。この映画にとって言葉を選ぶことは「野暮」だと。コロンバスにたたずむモダニズム建築の数々や、お互いに家族関係の悩みを抱えた韓国人翻訳家の「ジン」とアメリカ人女性の「ケイシー」の関係などなど、場面ごとに盛り上がる瞬間はいくつかあるが、映画全体は淡々と進み、結末を迎える。この映画の瞬間では、映画のある1場面を切り取って紹介することをコンセプトにしているが、それすらも野暮だと思ってしまう。作品の全体観というか、場面場面を切り取ってみると主題とかけはなれてしまうような。要はつまり、僕は「言葉を選びたくない」という気持ちになっているのだ。正直なところ。
言葉にできない確かなものの「意味」を考える
実は、1週間前もこの映画をテーマにエッセイ(のようなもの)を書いたが内容に満足できず今は非表示にしている。そして今回、改めて作品を見返し何か言葉を「選ぼう」としたが、結局、何も書けなかったし、選べなかった。だから、今回のエッセイは多分、内容の薄い、エッセイと呼べるレベルにも満たない散文的な内容になるだろう。
だが、自己弁護のつもりではないが、作中でケイシーが建築に興味を持つようになったきっかけの建物をジンと眺めながらこう話している。最後にこの場面だけでも、見ていってほしい。
ケイシーは、建物のガイドをするくらいだろうから、今すでに持っている言葉の中から適当なものを「選ぶ」ことだってできるだろう。たとえば、モダニズム建築の要素として知られる「ピロティ」とか「連続水平窓」だとか。
けれど、誤解を恐れずに言えば、ケイシーにとってそんな理屈・御託は必要なく、むしろ説明できないことこそが、この建物に引かれた理由ではないだろうか。言葉にできないけれど、なんとなく雰囲気が「好き」・「美しい」。いや、「好き」とか「美しい」とかすらも必要なく、ただただ自分の感情の赴くままに流される状態。それこそが、ケイシーが建築に魅了されている要因ではないだろうか。
「言葉を選ぶ」という表現が定着しているくらい、僕たちは普段から何かを定義したり意味づけしたりして暮らしているが、本当にそれは必要なのだろうか。もっと心が動くままに右に左に、前後左右に流されるさまを感じるような状態のほうがずっと、「本当」ではないか。言葉にできない状態のなかで生まれる言葉とは言えない行間や単語。本来、そうしたものの「総体」を言葉として定義していたのが、言葉の歴史のような気がしている。
今、何かと言語化が求められている時代だからこそ、言葉にならない感情、心の動きに敏感になって、耳を研ぎ澄ますことこそ、必要なのではないか。非常に抽象的で、ときに自分の仕事(言葉を扱う仕事)を否定しそうになったけれども、むしろ言葉を扱う仕事だからこそ、言葉の持つ意味や役割を考え続けなくてはならないのだとも思う。これ以上言うと「野暮」になるから、このへんで。