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第4回:『ホーホケキョ となりの山田くん』(1999)

タイトルの『ホーホケキョ となりの山田くん』から、やけに軽そうな印象を受けるこの映画。実は今まで一度も観たことがなく、飲み会やちょっとした雑談に挙がっても「ああ、高畑勲の作品か」くらいにしか思っていなかったが、今回Blue-rayディスクを購入し、ようやくお目にかかることができた。


5人+1匹の、どこにでもいる普通の家族

設定はとってもシンプル。5人+1匹の家族の日常をほのぼのと、淡々と、そして堂々と描いているのみ。言ってしまえば父親がリストラにあって家族が露頭に迷うとか、冷え切った家庭に大事件が起き、それをきっかけに家族愛を取り戻すとか、そんなドラマティックな出来事はこの映画には1つも起こらない。

それどころか父親の「たかし」は威厳を見せようと命令口調で子どもを叱るが子どもにはまったく刺さっておらず、かえって子どもに行儀の悪さを指摘され、口をつぐんでしまうことだってある。母親の「まつ子」もかなりいい加減な性格だ。専業主婦だが洗濯物を干すのを忘れたり、3日連続で夕飯をカレーにしたり。子どもの「のぼる」と「のの子」もそれぞれの個性は両親に負けていないし、まつ子の母親の「しげさん」に関してはいつも口をへの字にしてチクリと皮肉を飛ばす。


要は、この映画は日本中にある普通の家庭の、普通の過ごし方を104分にわたって描いているだけなのだ。"ありふれた日常"というとベタな表現だが、別に誇張でもなく映画は変わったことも、不思議なことも起こらないまま104分が過ぎていく。家族5人でプリクラを撮り、エンディングテーマが流れ始めてからやっと、「ああ、終わったのか」と気づくほどに。


固定化された理想と、現実の間で

けれど、この映画は観終わったあとに「不思議な余韻」を残していく。余韻というと大げさなら「居心地の良さ」に言い換えてもいい。スクリーン上に映し出されるこの家族は、確かに普通で、それぞれ自分勝手で向上心があまり見られない人たちだけれど(言いすぎかな)、そこには「何でも言い合える”信頼関係”のようなもの」がある。作中でのぼるくんが家族の言い争いを見ながら高らかに言う。

のぼる「我が家が平和なのは、どうしてか分かったよ。みなさんが3人ともみんなヘンで、どっちもどっちだからなんだ!」
たかし「なんだと!」
まつ子・しげ「なんやて!」
のぼる「もし誰かひとりでもまともだと、バランスが崩れる」

人に何かを言う・伝えるとき、意識的にか無意識かそれを受け取る相手のことを考える。こういう言い方をしたら傷つくんじゃないか、もっと別の言い方があるんじゃないか、と。相手のことを「自分なり」に思いやり、いろいろと考えることは、コミュニケーションの上では必要だ。僕の好きな花森安治がこんな言葉を残している。

われわれの武器は、文字だよ、言葉だよ、文章だよ。それについて、われわれはどれだけ訓練しているか。それで言葉はむなしい、文章は力のまえによわい、なんて平気で言うんだ。ぼくは、そう思わんよ。
ぼくはやはり、ペンは剣に勝つと思うんだ。

『花森安治の仕事』

言葉は強い。物理的な実体を伴わないにせよ、自分に向けられた言葉はときにナイフのように僕らの心をえぐり取ることだってある。それは刺すよりもはるかに痛いだろう。だからこそ、僕らは言葉を丁寧に扱えるよう、最新の注意を払いながら、口から言葉を発する。

しかし、相手のことを「自分なり」に考え過ぎてしまうと、嫌われることや傷つくことを恐れるあまり何も言えない・書けない・できない人間になってしまう。繰り返し「自分なり」という言葉を使ったのは、相手のことを思う主体は「自分」だからだ。言ってしまえば、限度を超えると相手を思っているようで、実際は「自分が思い描く理想の相手」をつくっていることだってある。皮肉なことだが、真剣に考えれば考えるほど自分のなかでイメージがふくらみ、目の前にいる相手よりもそのイメージに圧倒され、目の前の相手に接しても頭の中で描く「理想の姿」として接してしまうような。だから、相手が自分の思っているものと違う反応をすると、それまで「自分なり」に考えている分、余計に傷ついてしまう。


再生産される「固定化された理想」

なぜ、こんなことが起きてしまうのか。それは僕らが生まれてから、ある種の「固定化された理想」に浸り続けていたからだと思う。典型的な例でいえば、良い大学を出て良い就職ができれば幸せになれるということ。働き始めて分かったが、良い就職=幸せとは限らない。エリート街道を歩む僕の友人も、会うと仕事のグチばかりで幸せそうには見えない。口では「私が選んだ道だから」というが、果たしてそれは本心だろうかと思わずにはいられない。ほかにも、「正義が悪をこらしめる」とか「最後は愛が勝つ」とか。僕らは生まれてからずっと、この手の「固定化された理想」に浸ってきたからこそ、たとえその理想が誤っていると思っていても、分かっていても、前提としてすでに社会システムに理想を追求することが組み込まれているために、無意識的に型やフレームに対象をあてはめて考えているのではないだろうか。


人には生まれ持って備わっている特徴や個性は違う。勉強が苦手な子もいれば絵が得意な子もいる。にもかかわらず等しく「勉強をしなさい」と押し付けるのは、果たして良いことなのだろうか。ポジティブに作用すれば努力の結果として社会から称賛されるが、ネガティブに作用する場合、押し付けられた「あるべき理想の姿」と「今の勉強ができない自分」との差を受け入れられず、殻にこもってしまう。そういう人間は表立って活動することが少ないために世の中は、努力が得意な一部の人間の、ごく小さな事例が「成功譚」として語られてしまう。そしてそれが「努力すればだれでも勉強ができる」のような新しい「固定化された理想」が再生産されていく。その延長線上に、今の過度な「多様性」とか「個性」の尊重があるのかもしれない。



甘えをも受け入れる、「ラクに生きる」ことのあたたかさ

話が二転三転してしまったが、要はこの映画で描かれている山田一家には、息苦しさを感じさせない「居心地の良さ」がある。あるべき理想のような、本当にあるのかわからない幻想に左右されず、本音をぶつけあいながら、許しあいながら毎日を過ごしている。そこには現代が思い描く理想の家庭像は微塵も見られないけれど、理想の家庭像よりもずっと「あたたかい」交わりがある。

ケ・セラ・セラ なるようになる
未来はみえない お楽しみ

挿入歌「ケ・セラ・セラ」

この映画の制作記者会見で高畑勲は、もののけ姫のキャッチコピー「生きろ」を引き合いに出し、この映画のテーマを「ラクに生きたら」といった。

理想と自分のギャップを埋める強さもときには必要だけれど、それと同時にありのままの自分、ありのままの相手をを受け入れる「強さ」も必要だ、と山田一家は訴えかけているのかもしれない。


久しぶりに、観てよかったと思える一本だった。みなさんもご興味があれば、ぜひ。

#思い込みが変わったこと


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