「働く」とは?戦わずして勝つためのアクション2025
年初でもあり、つい、勝つという表現を使ったが、己に勝つ。という意味として理解してほしい。自分の在り方に、納得感をもって生きることができたら、それは大勝利といえるのではないだろうか。以前『もっともっと、私になりたい。』というnoteを書いた。この生きている時間を使ってどう動き、終わりに何を感じるのか。人生のエンドロールが流れる時に満足できるようになることが、私になるということなのではないかと考えている。
「人が動く」と書いて、「働く」だ。多くの人が、経済的に生きながらえるため、社会に貢献するため、自己実現のために、働いている。今回は、年末年始の読書を振り返りながら「働く」について深堀りし、私として生きるために、2025年をどんなモードで過ごしどんなアクションをするといいのかについて書いてみたい。
半身で働く。選ぶべきは、自分のモード。
競争ではなく、共創する社会。と言われているが、この時代変化の背景について、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読んで、解像度が上がった。これはつまり、外部との戦いから内部との戦いに敵が変わった、ということなのだ。20世紀までは他国・政府・他社・他人との戦いだったが、21世紀に入り、敵は自分の内側となる。新自由主義は自己責任と自己決定を迫る。自発的に頑張りすぎて鬱になる疲労社会だ。労働による自己実現が内面化し、強制されていないのに自分で自分を搾取してしまう。
この全身コミットを求めてくる資本主義の欲望に対して、三宅氏は「半身」で働くことを推奨している。仕事、家庭、文化、副業、趣味など複数の文脈に身を置き、他者理解の余裕を持つことが持続可能な生き方だ、という提言には納得感がある。平野啓一郎氏の分人主義にも通じるところがあり、大変共感した。そもそも人間は矛盾した存在で、正しさも一元的では無い。一人の中に、多次元の世界が存在する。都市と地方の双方に生活拠点を持つ二地域居住なども、半身社会の実現に寄与していくであろう潮流として注目している。
選ぶべきは、自分のモードなのだ。『DIE WITH ZERO』の冒頭に出てくるアリとキリギリスの寓話もそれを象徴している。遊んでばかりで冬に飢え死にしたキリギリスは自業自得という話だが、はて?一方の働きアリはいつ遊ぶ事ができるのだろうか?奴隷のように働いてそのまま死んでいくのか?人生を豊かに生きていくには、働くモードと、遊ぶモードを人生のフェーズでバランスよく組み合わせていくことが必要なのではないか。他者を知る文脈を増やすための努力は、面倒かも知れないが人生を豊かにするための方法でもある。複数の価値観の両抱え状態、アンビバレンスを模索し、揺らぎながら生きていくのが人間なのだ。
個人の能力ではなく、他者との関係性にフォーカス。
先月、社内で丸一日を使った全職員参加型の研修が行われた。前半は講義で、後半はグループディスカッションを行い発表するという形式だ。年に一度開催されるこの研修は、毎回後半が盛り上がるので年を追うごとに後半のディスカッションの時間が長くなってきている。良い傾向だ。講義によるインプットもありがたいが、他者の合理性を承認し合い、よくやってきた!と棚卸して感謝し、エンパワメントし合う場は貴重だ。
職場での単なる数値データがその意味を問うことなく、そのまま仕事の評価のように扱われることに、ずっと違和感があった。そもそも我々は、競争するためにここにいるのではない。組織全体として良くなるために、優先すべきは認め合う土壌づくりなのではないのか。『働くということ「能力主義」を超えて』に書かれている通り、個の能力ではなく、人と人の関係性に焦点をずらしていく必要性を感じている。
私事ではあるが、ここで宣言をしておこう。今年は職場の人と人との関係性の強化に足元から取り組んでいきたいと思う。一職員の草の根活動で、半身でもあり、ゆっくりとした動きにはなるだろう。しかし、意識を持つだけでも何か変化が生まれる可能性はある。プレイフルに、とりあえずやってみる!の感覚で、今年は実験的に組織を耕すことに注力してみたい。
知識創造によるアップデートの可能性。
入学試験、就職活動、人事評価など、個人はあらゆるシーンでランク付けされる。その評価ランクによって人が人を選んだり、選ばれたりしている。そのように、個を分けるためにつくったモノサシが能力だ。選ばれるために、塾に行き、試験を受け、能力開発セミナーに通う。気づけば、ずっと競争。それが当たり前できてしまったが、著者の勅使河原氏の言う通り、本来組み合わさってなんぼの人間を個に分断し、序列をつけて競争させるとはいかがなものか。少し立ち止まって考えてみると、この生きづらさを次世代にこのまま引き継いでいいのか?と疑問が湧いてくる。
『学力喪失ー認知科学による回復への道筋ー』の中でも、学力調査として行われる「全国学力テストの得点=学力」という大人たちの誤認識について触れ、序列をつけることに疑問を呈している。子どもたちは高得点をとることが成功と認識するようになり、失敗することを怖がるようになる。すると子どもたちもAIと同じように、フレーム問題に突入してしまうそうだ。学ぶ力とはそもそも何なのか?今、まさにそこから問う必要があるのだ!と、大変興味深かった。また、評価の観点で最も重要なのは、「どういう知識を持っているかということよりも、自走した学び手に育ち、やりがいを持って充実した生活を送っているかどうかだ」、というところに大変共感した。教育のみならず、社会全体の中でも評価すべきは個の知識ではなく、協働する中でどんな知識創造を実践したかなのではないだろうか。
『マンガでやさしくわかる知識創造』のモデルとなったナレッジマネジメント活動の実践者である村上さんと偶然知り合い、この本を手にすることとなったが、とてもいいタイミングで知識創造について理解することができ、ご縁に感謝している。暗黙知と形式知を無限に変換するSECIモデルを回す場は、他者との関係性がフォーカスされる時代に最も求められているものであり、無限のアップデートをもたらしてくれるのではないだろうか。
私になるためのアクション2025
以上から、働くを通した今年のアクションについてまとめてみる。
半身で働き、半身で遊ぶ。自分のモードに気づく。自己と向き合う訓練。
認め合う土壌づくり。知識創造の下地づくり。足元の再認識。
既知の物事から新しい一面を見る挑戦。客観視。メタ認知。
他者をありのまま受け止める。聴く訓練。
フィールド開拓。文脈を増やす努力。
矛盾に対する考え方。自分と自我を分ける。
最後に、大好きなコテンラジオの深井さんのnoteを載せておく。選ぶべき自分のモードについて、この中では「自我の持ち方」として語られている。
矛盾する価値観や思想を、シーンに応じて器用に切り替えることはそんなに簡単ではない。自己矛盾を曖昧に抱え続けるのは、モヤモヤして自己否定したくなることもあるかもしれない。相手の価値観を許せなくて、怒りが生まれることもあるかもしれない。そんなことが、私は、大いにある。でも、多分みんなそんなモヤモヤをどうにかこうにかやり過ごしながら生きているのだ。だから、あなただけじゃない。
自分を乗りこなす操縦者としてのスキルを上げ、機体としての自分の特性を理解し、その特性はどの場所やシーンならより活きるのか?そして、価値観の衝突事故にあった時は、どう視座をあげることができるのか?どうすれば、両抱えできるのか?ゆらぎながら、共に試行錯誤していこう。