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万葉集から物語を鑑賞する

 最初に、この文章は意図を持って政治的または思想的な背景を下に与太話をしていませんので、時に与太話が走り過ぎたことがありましても、それは無知・無教養の奴(やつこ)のたわごととしてご勘弁を願います。もし、与太話に無礼がありましたら、最初にお詫び申し上げます。申し訳ありません。
今回は題に示すように万葉集から物語を鑑賞したいと思います。
 その物語ですが、一般的な説明では物語の初めは源氏物語に載る文章から竹取物語を想定するようです。場合によっては物語に先行する歌物語を物語の初期の姿とすることがありますので、その場合は標準的な理解では伊勢物語を最初期の物語に位置に置くようです。
 このあたりの解説をウキペディアでは次のように解説しています。
 
 歌物語の成立には諸説あるが、『万葉集』の「左注」や、『古今和歌集』などに見られるような、和歌の「詞書」に記された出来事との関係が指摘される。例えば『伊勢物語』は『古今和歌集』と重複する和歌を含むが、『古今集』の詞書を改変したと考えられる章段や、『古今集』において隣同士に配列された和歌同士で一つの物語を作ったと考えられる章段が確認できる。
 このような歌物語は、次第にその詞書にあたった部分が長大化していくことにつながった。また、その歌物語の作品そのものが、『源氏物語』など後の作品に影響を与えたものも多い。『源氏物語』は「歌物語」とは言えない長大な作品であるが、『伊勢物語』の影響を色濃く受けており、その表現にも引き歌(注)のみならず、和歌の措辞を多く用いた作品である
注:和歌に類似した表現を用いることで、和歌自体やその周辺の状況を背景として表現すること。
 
 当然、これは建前の解説ですし、この解説が通用するのは大学入試問題までの世界だけです。国文学や日本の歴史をまともに研究する人ですと、この解説を本気で信じている人は、まず、いないと思います。この建前の解説を真に受けて竹取物語の成立を平安時代十世紀頃と推定する人もいますが、登場人物や文中の漢語に対する洒落からすると漢語真仮名交じり表記の竹取物語は奈良時代中期から平安時代初頭のものでないと困りますし、その登場人物の名前への言葉遊びが成立するには、読者が登場人物を十分に知っている必要があります。では、平安時代十世紀頃の人々が奈良時代初頭の人々への知識が十分にあったのでしょうか。人々が奈良時代史を十分に知っていたかどうかを抜きにして、十世紀頃に成立したとの提案を扱うことは出来ません。私の考えでは、ほぼ、知らないだろうと思っています。また、日本語での文字歴史からしても竹取物語の成立を平安時代初期となる十世紀頃と大きく遅らせて置くことは無理筋です。まず、漢字平仮名交りの文章は十世紀では早すぎますし、漢語変体仮名交りですと、奈良時代までを考慮に入れる必要があります。
 ここで、政治的な誤解や思想的な指弾を恐れなければ、現在に伝えられる文章に残る日本最初の物語は古事記です。古事記は建前では歴史書でなければなりませんが、中国の歴史にも殷や周時代の物語が存在するように日本の歴史に神代の物語が存在して良いと思いますし、それが文明水準の証でもあると考えます。ギリシャ神話がトロイヤに、殷の物語が殷墟に通じたように、古代の物語=創り物とはならないと考えます。つまり、それは伝承物語です。
 古事記は三部構成で編集された書物ですが、第一部の神代紀は物語以外のなにものでもありません。古事記の序文からすると天武天皇の時代には原古事記となる帝紀などが編纂されていたことは確実ですから、物語の最初に位置し現代に伝わる古事記神代紀の成立は天武天皇の時代として良いのではないでしょうか。ただし、その古事記の序文が示すように原古事記の文章は専門の読み手が歌謡のように詠まなければならないような、特殊な大和言葉を一字一音の漢字で表現するような音漢字使いの表記スタイルだったと推定されます。その問題の背景には当時の人々が持つ物語創作能力に対して日本語表記の手段が未発達であったことが主因ではないでしょうか。当時、日本語の発音を表すために漢字の文字から音を借りる方法は知られていましたが、共通の認識下での基準化した音を表す万葉仮名は定まっていなかったと思われます。ちょうど、その姿は万葉集巻一、額田王が詠う歌番号9の歌、日本書紀の歌謡歌番号121や古事記の歌謡番号113などに類似する漢語と音漢字の使用状況だったと考えます。
 
万葉集 歌番号9
原文 莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
読下 しづまりし うらなみさはく あかせこし いたてしけむ いつかしかもと
訓読 穏まりし浦波騒く吾が背子し致てしけむ厳橿が本
 
日本書紀 歌謡121
原歌 于都倶之枳 阿餓倭柯枳古弘 飯岐底舸庚舸武
読下 うつくしき あがわかきこを おきてかゆかむ
解釈 愛しき吾が若き子を置きてか行かむ
 
古事記 歌謡113
原歌 意岐米母夜 阿布美能於岐米 阿須用理波 美夜麻賀久理弖 美延受加母阿良牟
読下 おきめもや あふみのおきめ あすよりは みやまかくりて みえずかもあらむ
解釈 置目もや淡海の置目明日よりはみ山隠りて見えずかもあらむ
 
 しかしながら現在に残る古事記の神代紀や風土記の説話などの成立時期などの状況から推定しますと、天武天皇の時代には少なくとも人々の間には語りでの物語は存在し、ひとたび、表記の手段を与えれば文章の物語として記録されるほど整備された段階に達していたものと思われます。そうでなくても、藤原京時代後半以降の筆記者には語りの物語を採取して直ちに古事記神代紀の物語として文章として書き起こす能力が備わっていたと考えられます。
 この状況からしますと、万葉集が詠われた時には既に宮中には古事記神代紀相当の物語(淤能碁呂島と伊邪那岐・伊邪那美の国産み神話、天孫降臨や出雲神話など)を創る能力があったことになります。この状況を前提として、そのような宮中の人々が日々に楽しんだ物語の世界を万葉集から取り上げてみたいと思います。
 ただし、万葉の時代、人々が求めた娯楽は人が個として書に起こされた物語を楽しむのではなく、車座になっての物語の朗読や歌劇的な集団で楽しむものであったと推定します。知識階級が個として書に起こされた物語を楽しむのであれば洗練された漢詩の世界があり、それは趣味の楽しみでもありますが、日常の漢字漢文を扱う職務にも通じる世界です。対して、人々の娯楽は続日本紀の記録に示すように歌垣は参加資格制限を要するほどの最大の娯楽であり、見せものだったと思われます。およそ、この推測から物語は、男女の恋愛をテーマとする相聞形式の歌物語が中心に座ると考えられます。代表例としては巻二に載る石川女郎と大伴田主との相聞の歌物語であり、巻五に載る大伴旅人が詠う松浦河に遊ぶの歌物語です。
 今回はこの代表例の内、石川女郎と大伴田主との相聞の歌物語を鑑賞してみたいと思います。最初に伊藤博氏の集英社文庫萬葉集の現代語訳文を紹介し、後に原文及び訓読を載せます。
 
<集英社文庫萬葉集 現代語訳>
石川郎女が大伴田主に贈った歌、
「あなたは粋な人だと噂に聞いておりましたのに、泊めてもくれないで私を帰してしまいました。ずいぶんとにぶい粋人だこと」
 
「大伴田主は、通称を仲朗といった。容姿は端麗、風流はたぐいなく、見る人、聞く者、一人として感嘆しないものはなかった。折しも、石川郎女がいた。郎女は、常日頃から田主を一緒に暮らしたいと思い、常々独り寝の苦しみに堪えかねていた。心ひそかに恋文をとどけたいと思ったが、よい伝手がなかった。そこで一計を案じて、みすぼらしい老婆になりすまし、見てよがしに土鍋を提げて田主の寝屋のそばに行き、しわがれ声を出し足をよろめかせ、戸を叩き尋ね問うて、「私はこの近所の貧しい女ですが、火種を頂こうと思ってやって参りました」と言った。この時、田主仲朗は、あたりまっ暗なので相手がよもや変装しているとも知らず、また思いもよらぬことだったので相手に共寝を願う下心があることも見通すことができなかった。それで、女の思いどおりに火種を取らせ、すぐさま帰らせてしまった。明けての朝、郎女は仲立ちもなしに自分から押しかけた恥ずかしさに悩み、また、ひそかな願いがうまくいかなかったことを恨んだ。そこで、この歌を作って戯れごとを贈ったのである」
 
その大伴田主仲朗が贈られた歌に応えて石川郎女に贈った歌、
「私は、やっぱり噂どおりの風流人であったことがこのたびよくわかりました。あなたを泊めもせずに帰した私こそ、本当の風流人だったのです」
 
応えの歌を贈られた石川郎女がさらに大伴田主仲朗に贈った歌、
「私が耳にした噂通り、葦の末のようなおみ足がままならぬとお悩みのあなた様、どうぞお大事にね」
 
 万葉集原典では、相聞和歌となる三首の歌に挟まれて、歌が詠う状況を解説する文がありますから、石川女郎と大伴田主との関係は掴み易いと思います。ただ、令和に生きる現代人は昭和から平成の時代の人のようにへそ曲がりに二人の関係を解釈しないで下さい。なにがへそ曲がりかというと、歌の舞台を真実と思い、そこから男女の関係を妄想し、女から男の下に出向く姿から石川女郎を自ら性を求める女として淫売かのように思いこむことです。実に幼い鑑賞です。
 現代に生きる私たちは昭和から平成の時代とは違い、きちんと歌の背景を理解し、楽しむ必要があります。まず、この二人は相聞歌を詠い交換すると云う設定から飛鳥藤原京時代にあって、万葉仮名で歌が詠えると云う教養人であり、それ相当の身分の人物です。その立場からすると、共に従者や召使いを使うことなく生活することはありえません。それが律令世界の知識・貴族階級の生活ルールですし、実態です。ところが、歌の説明文では若い男女が共に独り暮らしをしていると設定していますから、この設定は架空であることは明白です。当然、女の召使いが火種を貰う使いに行き、男の従者が女の召使の求めへの対応をしたのでは物語になりません。ここに物語の虚構があります。
 歌の舞台が虚構であることが明白なら登場人物はどうでしょうか。伊藤博氏は、やはり、虚構であることを疑っています。この虚構性について、集英社文庫萬葉集から伊藤氏の解説を紹介します。
 
 この、こまやかな身動きも示さずさっさと自分を帰らせたことに対する皮肉が、「葦の末の足ひく我が背つとめ給ふべし」(ひょろひょろ足のあなた様、お大事にね)の中に託されている。加えて、「田主」という名は「田の主」、つまり、一本足の案山子を連想させる。下三句には、「あなたはお名前どおりまるで案山子ね」という諷刺がこめられているように思われている。(286頁)
 
 氏はこのように澤瀉久孝氏の万葉集注釈を引用する形で大伴田主の名前の虚構性を触れ、そこから「『足ひく』に男の最も大事な『足』に活力がないことをもにおわせているとすれば、まことに痛快きわまる」と鑑賞をさらに展開されています。およそ、澤瀉久孝氏や伊藤博氏のように正確に歌を鑑賞すると登場人物も場面もすべて虚構と判断です。つまり、歌三首とそれに付けられた左注の漢文章はすべて虚構です。およそ、このような虚構で構成されたストリー性のある文章を物語や小説と云うジャンルで括ることは許されると思います。ここに飛鳥藤原京時代から平城京時代初期には、虚構の舞台を設定して、そこに若い男女の恋物語を展開する歌物語があったことになります。さらにその歌物語では、登場人物の足が不自由な「田主」に、山田に立って見張りをする案山子のイメージを持たせる言葉遊びがあります。当然、歌物語は平安時代の伊勢物語に起きたい人々には、時代が早すぎること、歌物語の構成に言葉遊びなどがあって高度なこと、このようなことから、まったく認められないものではあります。
 こうしますと、石川女郎と大伴田主との相聞が虚構の歌物語とすると、では、作者は誰かと云う疑問が湧くと思います。万葉集はそこのところは親切なもので、この歌物語の作者は大伴宿奈麻呂と明確に集歌129の歌の標題に記しています。
 なお、明治から平成の過ぎし時代には、この歌物語を実際にあった出来事と思いこんだように、平安末期から鎌倉時代頃の有名歌人もそのように思ったようです。それが標題に補注する形での「即佐保大納言大伴卿第二子 母曰巨勢朝臣也」であり、「女郎字曰山田郎女也。宿奈麻呂宿祢者、大納言兼大将軍卿之第三子也」の書き込みです。対象となるものが虚構で構成された歌と漢文であると云うことがきちんと読めれば、まず、あり得ない補注ですが、その誤解釈を下にした補注を、さらに信じる人もまた相当な人物です。さらにそれを以って古代の系図を研究すると云うのであれば、まったくもってブラックジョークです。この種の方々が活躍した昭和時代、この種の方々の頓珍漢な万葉集への知識を突いて、「万葉集は韓国語で書かれたもの」と言う珍説が現れます。そして、それに対し、即在に適切に反論できない失態を示しています。なんとも不思議な昭和時代の古典文学の研究です。
 脱線しますが、現代に繋がる万葉集は古今和歌集の編纂作業の一環で紀貫之の時代に最終整備がなされたと推定されます。そうしますと古今和歌集の奉呈が905年、大伴一族や紀一族が最終的に没落していく契機となった応天門の変は866年ですので、紀貫之の時代にはまだ大伴一族の系図は確かなものだったと思われます。ご存じのように紀一族は応天門の変では大伴一族と連座し、また、万葉集の中心歌人である柿本人麻呂の子孫と思われる柿本一族とは姻戚関係がありますから、紀貫之の時代の万葉集最終整備段階では、先に指摘した空想のような補注は書き込まなかったものと推定します。本文ではなく、後年の筆写時の補注までもを真実とするのはいかがなものかと考えます。文は虚構ですし、作者は大伴宿奈麻呂です。およそ、大伴田主仲朗とは宿奈麻呂本人のことと思い、その宿奈麻呂が宮中女官の前で自作したこの歌物語を披露していると想像して、にやにやと鑑賞するのが良いのではないでしょうか。
 もう少し付け加えますと、奈良時代の有名な説話に久米仙人と若き女性の話があります。これは橿原市久米にある久米寺縁起にも繋がりますが、久米仙人が女性のホトを見た場所は現在の地名では久米から石川付近だったようです。そのためか、飛鳥時代から藤原時代の男女の恋愛説話や相聞には「石川女郎」の名が良く登場するようです。これは、ある種、江戸から明治にかけての「小町」と同じような説話や物語での登場する美人をイメージさせる女性の名の約束だったのかもしれません。なお、万葉集では実在人物である大友皇子の宮侍であった石川女郎にこの石川女郎と大伴田主との歌物語の感想を集歌129の歌として詠わすことで、類似の名称への了承を取った形にしています。それが集歌129の歌が差し込まれた理由でしょう。ただ、伊藤博氏は、萬葉集釋注で次のように述べられています。
 
 石川郎女に対する説明が126の歌になく、この歌に記されているのは、この歌と126~128との出どころが違うことを示していよう。しかし、編者は、同じ石川郎女の歌群としてここに一括を図ったものと認められる。この意味では、「著名な石川郎女が、晩年にこんな歌を詠んでいます」というような意識での配列であり、一首は、石川郎女物語の終止符の機能を果たしている。
 
 伊藤博氏が指摘するように石川女郎と大伴田主との相聞を虚構の歌物語と推定されるのなら、その視線で現実に生きる石川女郎が歌物語の作者である大伴宿奈麻呂へ歌番号129の歌を贈った背景を想像するのが良いのではないでしょうか。なお、伊藤博氏の説明文中、「石川郎女」となっていますが、これは「石川女郎」の意図的な勘違いと思われます。原文は、次に紹介するように「石川女郎」です。
 伊藤博氏の萬葉集釋注から引用させて頂き、歌物語の鑑賞をしましたが、最後に万葉集原文、訓読、それに私が考える意訳文を紹介しようと思います。鑑賞の立場は集歌126から128の歌による歌物語に集歌129の歌による感想が付けられた、一連の歌群と云うものです。従いまして、一般の教科書的な鑑賞態度とは違います。
 
標題 石川女郎贈大伴宿祢田主謌一首 即佐保大納言大伴卿第二子 母曰巨勢朝臣也
標訓 石川女郎の大伴宿祢田主に贈れる歌一首
追訓 即ち佐保大納言大伴卿の第二子、母を巨勢朝臣といふ
集歌126
原文 遊士跡 吾者聞流乎 屋戸不借 吾乎還利 於曽能風流士
訓読 遊士(みやびを)と吾は聞けるを屋戸(やと)貸さず吾を還せりおその風流士(みやびを)
私訳 風流なお方と私は聞いていましたが、夜遅く忍んで訪ねていった私に、一夜、貴方と泊まる寝屋をも貸すこともしないで、そのまま何もしないで私をお返しになるとは。女の気持ちも知らない鈍感な風流人ですね。
左注 大伴田主字曰仲郎、容姿佳艶風流秀絶。見人聞者靡不歎息也。時有石川女郎、自成雙栖之感、恒悲獨守之難、意欲寄書未逢良信。爰作方便而似賎嫗己提堝子而到寝側、哽音蹄足叩戸諮曰、東隣貧女、将取火来矣。於是仲郎暗裏非識冒隠之形。慮外不堪拘接之計。任念取火、就跡歸去也。明後、女郎既恥自媒之可愧、復恨心契之弗果。因作斯謌以贈諺戯焉。
注訓 大伴田主は字(あざな)を仲郎(なかちこ)といへり。容姿佳艶しく風流秀絶れたり。見る人聞く者の歎息せざるはなし。時に石川女郎といへるもの有り。自(おのづか)ら雙栖(そうせい)の感を成して、恒(つね)に獨守の難きを悲しび、意に書を寄せむと欲(おも)ひて未だ良信(よきたより)に逢はざりき。ここに方便を作(な)して賎しき嫗に似せて己(おの)れ堝子(なへ)を提げて寝(ねや)の側(かたへ)に到りて、哽音蹄足して戸を叩き諮(たはか)りて曰はく、「東の隣の貧しく女(をみな)、将に火を取らむと来れり」といへり。ここに仲郎暗き裏(うち)に冒隠(ものかくせる)の形(かたち)を識らず。慮(おもひ)の外に拘接(まじはり)の計りごとに堪(あ)へず。念(おも)ひのまにまに火を取り、路に就きて歸り去なしめき。明けて後、女郎(をみな)すでに自媒(じばい)の愧(は)づべきを恥ぢ、また心の契(ちぎり)の弗(たが)ひ果(はた)さざるを恨みき。因りてこの謌を作りて諺戯(たはふれ)を贈りぬ。
 
標題 大伴宿祢田主報贈一首
標訓 大伴宿祢田主の報(こた)へ贈れる一首
集歌127
原文 遊士尓 吾者有家里 屋戸不借 令還吾曽 風流士者有
訓読 遊士(みやびを)に吾はありけり屋戸(やと)貸さず還しし吾(われ)ぞ風流士(みやびを)にはある
私訳 風流人ですよ、私は。神話の伊邪那岐命と伊邪那美命との話にあるように、女から男の許を娉うのは悪(あし)ことですよ。だから、女の身で訪ねてきた貴女に一夜の寝屋をも貸さず、貴女に何もしないでそのまま還した私は風流人なのですよ。だから、今、貴女とこうしているではないですか。
 
標題 同石川女郎更贈大伴田主中郎謌一首
標訓 同じ石川女郎の更に大伴田主中郎に贈れる歌一首
集歌128
原文 吾聞之 耳尓好似 葦若未乃 足痛吾勢 勤多扶倍思
訓読 吾(わ)が聞きし耳に好(よ)く似る葦(あし)若未(うれ)の足(あし)痛(う)む吾が背(せ)勤(つと)め給(た)ふべし
私訳 私が聞くと発音がよく似た葦(あし)の末(うれ)と足(あし)を痛(う)れう私の愛しい人よ。神話の伊邪那岐命と伊邪那美命との話にあるように、女から男の許を娉うのは悪(あし)ことであるならば、今こうしているように、風流人の貴方は私の許へもっと頻繁に訪ねて来て、貴方のあの逞しい葦の芽によく似たもので私を何度も何度も愛してください。
左注 右、依中郎足疾、贈此謌問訊也
注訓 右は、中郎の足の疾(やまひ)に依りて、此の歌を贈りて問訊(とぶら)へり。
 
標題 大伴皇子宮侍石川女郎贈大伴宿祢宿奈麻呂謌一首
女郎字曰山田郎女也。宿奈麻呂宿祢者、大納言兼大将軍卿之第三子也
標訓 大伴皇子の宮の侍(まかたち)石川女郎(いらつめ)の大伴宿祢宿奈麻呂に贈れる歌一首
追訓 女郎は字(あざな)を山田の郎女(いらつめ)といへり。宿奈麻呂宿祢は大納言兼大将軍卿の第三子なり。
集歌129 古之 嫗尓為而也 如此許 戀尓将沈 如手童兒
訓読 古(ふ)りにし嫗(おふな)にしにや如(か)くばかり恋に沈まむ手(た)童児(わらは)し如(ごと)
私訳 私はもう年老いた婆ですが、この石川女郎と大伴田主との恋の物語のように昔のように恋の思い出に心を沈みこませています。まるで、一途な子供みたいに。
 
 拙い意訳でしたが、真意を理解していただけたでしょうか。
 古事記は物語と歴史書との融合された書物と考えますと、同時代性を持つ万葉集にも物語性を持つ作品を見出すことは、冒険ではないと考えます。従来、解説される物語・歌物語の誕生の歴史などを鵜呑みにすることなく、その解説の根拠と背景を疑って古典を鑑賞することも必要ではないでしょうか。
 ネットの時代、古典の原文を調べることは容易になりました。時に有名な研究者の解説が原文を照会することなく、意訳・翻訳されたものを論説の根拠として使うと云うことが、まま、あります。不思議なのですが、藤原定家の時代、どうも、万葉集に載る漢文と長歌などは読めなかったようです。そして、その読めなかった背景を持つ万葉集読解が昭和まで歌道や歌伝と云う形で引き継がれたようです。驚かれるでしょうが、万葉集に載る漢文と長歌・反歌を一体で解釈しようと云うのは、昭和時代後期頃からの近々の話題であり、研究テーマです。以前にはあまり行われなかったことです。近々のその漢文研究では、なぜか、文選に寄り掛かる傾向があります。ところが使われる漢語や漢字を中国及び台湾での中国語ネット検索を掛けると、そうでもないケースが多々見られます。もし、お時間がおありでしたら、興味ある言葉に対し中国語繁字検索を行ってみると、けっこう、面白いと思います。
例えば詩経、小雅に次のような詩があります。
 
他人有心  だれかが何かを考えているなら
予忖度之  私はそれを当てて見せましょう
 
 この「有心」の漢字の使い方を前提にしますと、集歌126に付けられた左注の漢文の一節「復恨心契之弗果」の意訳は「心に深く誓った行動だったのに、その期待外れの結果を残念に思う」と云うことになり、意味合い的に相手の田主仲朗ではなく、期待外れの結果に対して残念に思っていることになります。そのために「怨」ではなく「恨」の用字です。歌の感情と漢文の用字とを比べ、解説が一致しない時、漢字本来の意味まで立ち戻ると、このようなこともあります。同じ漢字文字の解釈問題を別な場所で「龍門」と云う言葉に対して取り上げました。語彙検索が困難な時代では万葉集に現れる言葉や漢字と文選とで比較するだけでも一生の研究テーマだったと思います。しかし、今日、万葉集や文選もその原文はネット上にあり、語彙検索は数秒の世界です。残念ながら、もう、語彙検索と比較だけでは学問とは呼ばれない時代となりました。ある種のデータ前処理段階程度のもの扱いです。
 それにそのデータ前処理を行うだけで過去の語彙研究の可否をも明確に判断できる時代になりました。語彙比較を専門にされていた人には非常に辛い時代です。物語の研究もまた然りです。画像識別技術を応用した日本語の進化の歴史研究から、従来の説明に破綻が生じることがあります。竹取物語の成立時期の推定もそうです。竹取物語の成立時期が上代に動けば、必然、日本の文学史の研究も動揺します。
 ネット時代は色眼鏡を外すと万葉集はまだまだ楽しく遊べます。時間がありましたら、巻五に載る大伴旅人が詠う松浦河に遊ぶの歌を鑑賞下さい。旅人のものは、独り部屋で楽しむような男のための物語構成となっています。そこが大伴宿奈麻呂との違いです。実の兄弟ですが、ずいぶんと性格は違っていたようです。

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