万葉集との重複歌 古今と後撰
最初に、今回の話題は素人の興味からの全くの与太話です。ただし、内容が日本の文学史に重大な影響を与える可能性を持った与太話ですので、御奇特な御方によりご批判を頂きますと大変にうれしいいことです。なお、今後、日本古典文学の分野での活躍を目指す若い学生さんたちは「大人の知恵」としてこの問題に触れないことが大切です。
馬鹿話はさておき、万葉集編纂史や読解の研究では、古今和歌集と万葉集の重複歌の研究、また、後撰和歌集と万葉集の重複歌の研究は、平安時代初期から中期までの人たちの万葉集に対する理解度や万葉集の編纂状況を推定するのに重要な情報を提供するものと考えます。その重要性から大正時代から昭和30年代ごろまでにかけて多くの重複歌の研究が行われ、その時代としての研究成果として古今和歌集と万葉集との重複歌、後撰和歌集と万葉集との重複歌が特定されています。おおむね、古今和歌集では11首が、また、後撰和歌集では24首が重複すると報告します。
理屈として、古今和歌集の仮名序が述べるように万葉集約4500首と古今和歌集約1100首との間に重複歌が認められないのなら、古今和歌集を編纂した人々やその奉呈を受けた人たちは万葉集の歌を完全に読み解き、古今和歌集の歌との区別・分別が出来たことになります。また、同時に現代において重複問題が検証できるのですから、古今和歌集が奉呈された時のものは現代に伝わる二十巻本万葉集とほぼ同じ万葉集だったことになります。つまり、話題の多い万葉集の編纂時期として、それは古今和歌集の編纂時期を下らないことになります。最大に万葉集の編纂時期を遅らせても古今和歌集の編纂時期と同時です。
加えて、紀貫之たちによる古今和歌集の編纂時期と源順たちによる約1400首を載せる後撰和歌集の編纂時期の差はおよそ50年程度ですし、後撰和歌集の選者には紀貫之の子の紀時文が参画していますから、古今和歌集の編纂時期に漢語と万葉仮名という漢字だけで表記された万葉集の歌が読めたのなら、後撰和歌集の編纂時期でも万葉集の歌は読めたとするのが穏当です。
対して昭和時代中期までの重複歌の研究では古今和歌集では約11首が、また、後撰和歌集では約24首が重複すると報告しますから、その重複歌の研究者たちの推定として紀貫之たちから源順たちの時代までには万葉集は正確には読解不能な歌集となっていたか、別の可能性として仮名序の言葉が正しいのなら古今和歌集の編纂時に重複歌がなかったのであるから平安時代中期までの万葉集と現代に伝わる二十巻本万葉集とが相違していた可能性があると考えます。この研究者たちの主流の考えは、万葉集と言う歌集自体はおおよそ古今和歌集時代と現代とでは同じものであるが、平安時代初期までには万葉集は全体としては正確には読み解けない歌集となっていた。その本格的な再読解は源順たちによる万葉集古点(天暦古点本)まで待つ必要があったとします。なお、この考え方の背景に無謬でなければいけないとの暗黙の了解があり、数首のまぎれなどの誤差を一切認めないことで論理が成り立っています。歌の表現方法の違いによる誤読などのまぎれや盗古歌などの可能性を認めると研究成果が台無しになります。
ここで平安時代前期の歌学者の第一人者と目される源順たちが行った後撰和歌集の編纂と万葉集古点との二つの事業の先後の関係について、昭和30年代までの考えでは後撰和歌集の編纂が先に行われ、万葉集読み解き事業の天暦古点本の成立はそこから約10年遅れるとして、多数の重複歌を持つ後撰和歌集編纂と万葉集読み解きの天暦古点本との間での論理の整合性を取ります。ただ、現代では各種の文献の精査により後撰和歌集は天暦九年(956)から天徳二年(958)の間に成立し、万葉集の読み解き事業となる天暦古点作業はそれより早い天暦五年(951)には開始していると指摘します。ここから後撰和歌集の編纂事業の開始前には万葉集はほぼ読み解けていたはずと報告します。つまり、後撰和歌集の最終編纂時には現代の万葉集解釈の基盤となる天暦古点が成立しているのだから、多数の重複歌が存在することはおかしなことになります。そのために、この平成時代になってから提出された二つの事業の先後問題に対する報告は昭和時代の重複歌の研究と解釈に対して相当なインパクトを持つものとなっています。
改めて、古今和歌集並びに後撰和歌集と万葉集との重複歌の状況を確認することは古典文学の研究では基礎的な研究課題になります。ここでは、この重要性を認識して、令和時代から古今和歌集並びに後撰和歌集と万葉集との重複歌の状況を再確認したいと思います。
あだ花の話題となりますが少し古い本に万葉集の編纂時期について研究したものがあります。それが熊谷直治の『万葉集の形成』(翰林書房 2000)です。この本に示す熊谷直治の万葉集編纂時期の推定の大前提に、渋谷虎雄の『万葉和歌集成 平安・鎌倉期』(桜楓社 1988)で紹介する古今和歌集に万葉集の歌が17首あるとの指摘を採用します。熊谷直治はこの重複歌17首説を受け入れ、古今和歌集の両序が宣言するように、本来、存在しないはずの重複歌が17首も存在するのは紀貫之たちが見た万葉集と現在の万葉集が違うためと考えます。熊谷氏は両序が宣言するように古今和歌集を編纂した紀貫之たちは古今和歌集に万葉集の歌を載せないことに成功したし、古今和歌集の奉呈を受けた当時の貴族たちも重複がないことを確認したと考えます。しかし、昭和の古今和歌集の研究者が報告するように重複歌が17首ほども存在するのは現在の二十巻本万葉集と古今和歌集時代の万葉集が違うためと指摘し、その矛盾の理由を解説します。熊谷直治はここを出発点とし、『万葉集の形成』では現在の二十巻本万葉集が最終に編纂された時期を探ります。ただ、論理根本となる重複歌の定義に重大な欠点があることが渋谷氏や熊谷氏の提起の難点です。
例を紹介しましたように、古今和歌集から万葉集の編纂史を考える時に重複歌問題は外せないものですが、現在、この問題を正面から捉えたものはあまりありません。万葉集研究者にとってこの問題は昭和30年代までに結論が得られた事柄と捉えているためと思われますし、日本文学史の暗黙的な了解事項の変更に直接に係りますから研究者にとっては触れないことの方の利益が大きいのでしょう。
日本古典文学史の話題として、昭和47年(1972)に阿蘇瑞枝が上梓した『柿本人麻呂論考』(おうふう 1972)以降、世の人は200年ぶりに万葉集の原歌表記には大きく分けて四形態が存在することを再認識し、同時にその原歌表記の四形態の存在を認めると鎌倉時代以降の漢字交じり平仮名に翻訳した仮名万葉を万葉集の擬似原歌とは出来ないこともまた再認識しました。つまり、平安時代までの作品の検討に際し、鎌倉時代以降に編纂された藤原定家たちの翻文歌集と翻文歌集とを比較しても意味がないことの認識です。重複歌を研究するなら原歌の形を下にしてそれぞれの歌集を比較・検討しないと意味が無いのです。
古今和歌集と万葉集との重複歌の研究では、おおむね、昭和30年代までに重複歌の研究は出尽くし、その結論が得られたとしますが、その重複歌の研究は基本的に鎌倉時代以来の漢字交じり平仮名和歌に翻訳された伝統の仮名万葉を使用しています。また昭和時代は、時代毎の研究成果を受け入れて校訂されてきた仮名万葉自体も、江戸期からの伝統の校本万葉集を底本にするものから昭和中期以降の新しい西本願寺本万葉集を底本にするものへの転換期です。従来の重複歌の研究は万葉集の原歌表記が持つ四形態の存在の再認識以前に行われたものであり、それは原歌に色々な校訂が加えられて原歌が変質したものを下にした校本万葉集を底本にするものです。同じ仮名万葉と称しても校本万葉集系と西本願寺本万葉集系では歌が違うものがあります。結果、従来の重複歌の研究は本来の万葉集の原歌に対し厳密に万葉集と古今和歌集とを比較・確認したものではありません。あくまでも藤原定家たちの漢字交じり平仮名歌に読み下した万葉集と鎌倉時代の歌風に漢字交じり平仮名歌に直した古今和歌集に載る歌との比較です。
平成時代後期になって古今和歌集の原歌研究が進み、漢字交じり平仮名表記の古今和歌集は正しく原歌を示すものではなく、それは鎌倉時代の人々の為に読み易さを追求して翻文されたものとの認識が研究者に共有されることになりました。つまり、昭和30年代までに行われた重複歌の研究は読み易さを追求して翻文されたものから研究していたのです。それは共に鎌倉時代の解釈となる万葉集と古今和歌集との漢字交じり平仮名に翻文された擬似原歌に対する比較研究だったのです。高野切などを通じて行われた古今和歌集の原歌復旧事業もまた平成時代後期の事業であって、その研究成果が示すものは古今和歌集の原歌は一字一音清音の音字だけによる表記形式を持ち、歌中に表語文字となる漢字を一切持ちません。つまり、藤原定家筆古今和歌集はその当時の読者の水準に合わせた読み易さを最優先した漢字交じり平仮名への翻文なのです。鎌倉時代初期での、その時代の現代語訳による古典歌集なのです。
平成時代に行われた古典原典の復元研究の状況を踏まえると、重複歌の問題で難しいのは、まず、万葉集と古今和歌集の歌の定義が必要で、その後に重複歌の存在の確認と、それが重複歌か本歌取技法(盗古歌)の歌なのかの判定と検証が必要です。古今和歌集で紀貫之は額田王の歌を下に本歌取技法の歌を詠いますから、重複歌と本歌取技法の歌との適切な仕分けが必要です。そのためここでは重複歌の判定について、重複とするためには最低限、歌意は同じとなる必要があると考えます。歌を解釈した時、歌意が異なればそれは本歌取技法の歌です。さらに重複歌となるには骨格となる言葉もまた同じとなる必要があると考えます。例えば、風景を詠うとき地域の名前などが違えばそれは本歌取技法の歌です。地名を入れ替えていても、例えば磯浜の風景を詠むのであれば地名以外の歌意が同じならば重複歌にして良いとの主張は認めません。私は伊勢の磯浜と紀伊の磯浜は違うという考えで比較を行います。
本歌取技法の歌
(ア) 標準解釈で本歌取技法の歌と認めるものの例
古今集94 紀貫之
原歌 美和也万遠志可毛加久寸可者留可寸美比止尓之良礼奴者奈也左久良无
翻文 三輪山をしかも隠すか春霞人に知られぬ花や咲くらん
万葉集歌18 額田王
原歌 三輪山乎 然毛隠賀 雲谷裳 情有南畝 可苦佐布倍思哉
翻文 三輪山をしかも隠すか雲だにも情(こころ)あらなく隠さふべしや
(イ) 本議論で本歌取技法の歌と認めるものの例
古今集1107
原歌 和幾毛己尓安不左可也万乃之乃寸々幾本尓八伊天寸毛己比和多留可那
翻文 我妹子に逢坂山のしのすすき穂には出でずも恋ひわたるかな
万葉集歌2283
原歌 吾妹兒尓相坂山之皮為酢寸穂庭開不出戀度鴨
翻文 吾妹子に逢坂山しはだ薄(すすき)穂には咲き出ず恋ひ渡るかも
古今集1108
原歌 以奴可美乃止己乃也万奈留奈止利可者以左止己多部与和可奈毛良寸奈
翻文 犬上のとこの山なる名取川いさと答へよ我が名漏らすな
万葉集歌2710
原歌 狗上之鳥籠山尓有不知也河不知二五寸許瀬余名告奈
翻文 犬上し鳥籠し山なる不知哉川(いさやかは)不知(いさ)と聞こせ吾が名告(の)らすな
古今集1111
原歌 美知之良八川美尓毛由可武寸三乃衣乃幾之尓於不天不己日和寸礼久左
翻文 道知らば摘みにも行かむ住の江の岸に生ふてふ恋忘れ草
万葉集歌1147
原歌 暇有者拾尓将徃住吉之岸因云戀忘貝
翻文 暇あらば拾(ひり)ひに行かむ住吉し岸し寄るいふ恋忘れ貝
古今和歌集と万葉集との重複歌を調べる時、その対象となる古今和歌集の原歌について、汲古書院本藤原定家筆の古今和歌集の歌は歌番号1100の藤原敏行朝臣が詠う「冬の賀茂の祭の歌」までですが、別途、墨滅歌と称される歌が11首あります。ここで行う重複歌の検討では、いままでに行われて来た研究に合わせて比較するために古今和歌集の歌に墨滅歌を含めることとします。
先に紹介した熊谷直治の『万葉集の形成』では加茂真淵の『続万葉論』などから重複歌7首説を紹介し、その7首説を研究した春日政治の『古今集刪集と万葉集の歌』から重複歌として次の組み合わせを紹介します。
古今192と万葉1701、古今247と万葉1351、古今551と万葉1655、古今1073と万葉272、古今1080と万葉3097、古今1107と万葉2283、古今1108と万葉2710
さらに田中道麿の『選集万葉徴』から重複歌11首説を紹介し、その11首の組み合わせを『万葉集の形成』では次のように紹介します。
古今192と万葉1701、古今247と万葉1351、古今492と万葉2718、古今551と万葉1655、古今683と万葉2798、古今720と万葉1379、古今758と万葉413、古今1073と万葉272、古今1080と万葉3097、古今1107と万葉2283、古今1108と万葉2710
伊藤博の『古今の万葉』ではこのような各種の研究成果を整理分析し、そこでは次のように報告します。伊藤博の判断では古今和歌集と万葉集での重複歌は2首です。
① 歌辞の全く同一の歌:2首
古今192と万葉1701、古今247と万葉1351
② 歌辞に相違を持つ歌:9首
古今489と万葉3670、古今492と万葉2718、古今551と万葉1655、古今683と万葉2798、古今703と万葉1316、古今720と万葉1379、古今758と万葉413、古今1080と万葉3097、古今1082と万葉1102
同じように中西進は『続万葉集の形成(上) 平安朝文献の意味』で類似歌を三つの区分に別け、先行する論文を整理整頓します。その中西進の判定では重複歌は2首で、伊藤博の判定と同じ結果です。
① 万葉集と同一歌と目される歌:2首
古今192と万葉1701、古今247と万葉1351
② 万葉集と少異をもつ歌:8首
古今551と万葉1655、古今703と万葉1316、古今720と万葉1379、古今1031と万葉272、古今1080と万葉3097、古今1082と万葉1102、古今1107と万葉2283、古今1111と万葉1147
③ 時間的な伝誦の間に異同を生じて来た、元来同一歌であったものでないもの:5首
古今489と万葉3670、古今492と万葉2718、古今683と万葉2798、古今758と万葉413、古今1108と万葉2710、
伊藤博と中西進が考える万葉集と古今和歌集での重複歌は古今和歌集の歌を墨滅歌11首まで範囲を広げても2首です。
従来の翻文同士での比較でも重複歌は2首ですが、今回に行う重複歌の確認では近々の原歌研究成果を反映してそれぞれの原歌から重複の状況を確認します。なお、万葉集では原歌の訓じが重要な意味を持ちますから、私の独善とならないように比較参照として私が行った翻文、廣瀬本(以下、「廣瀬」)の翻文、西本願寺本(以下、「西本」)の翻文を紹介します。
以下に万葉集と同一歌と目される古今和歌集の歌2首を紹介します。
古今集歌番号247
原歌 従幾久左尓己呂毛者寸良武安左川由尓奴礼天乃々知者宇川呂日奴止毛
翻文 月草に衣は摺らむ朝露に濡れての後は移ろひぬとも
万葉集歌1351
原歌 月草尓 衣者将揩 朝露尓 所沾而後者 徙去友
翻文 月草(つきくさ)に 衣は揩(す)らむ 朝露に そ濡れにし後は ただうせるとも
廣瀬 つきくさに ころもはすらむ あさつゆに ぬれてののちは うつろひぬとも
西本 つきくさに ころもはすらむ あさつゆに ぬれてののちは うつろひぬとも
古今集歌番号192
原歌 左夜奈可止夜者不遣奴良之加利可祢乃幾己由留曽良尓月和多留見由
翻文 小夜中と夜は更けぬらし雁が音の聞こゆる空に月渡る見ゆ
万葉集歌1701
原歌 佐宵中等 夜者深去良斯 鴈音 所聞空 月渡見
翻文 さ宵中(よひなか)と 夜は深(ふ)けぬらし 鴈(かり)し音(ね)し そ聞く空し 月渡る見し
廣瀬 さよなかと よはふけぬらし かりかねの きこゆるそらに つきわたるみゆ
西本 さよなかと よはふけぬらし かりかねの きこゆるそらに つきわたるみゆ
最初に点検が簡単な古今集歌番号247と万葉集歌1351との組み合わせから確認します。古今集歌番号247の歌を比較の基準とすると万葉集歌1351の末句に相違があります。万葉集の“徙去友”の表記は、“うつろひぬとも”と訓じるために標準訓は原歌の「徒」を「従」と校訂し“従去友”としてからのもので、それでもある種の戯訓であって校訂した漢字表記に素直に従ったものではありません。また、万葉仮名の「所」は無音字とし、「而」は「の」と訓じるのも辛いものがあります。そこにはある種の古今和歌集の歌を参考にして戯訓や読解を与えたような姿があります。
なお、万葉集の「後」は「ゆり」とも訓じますが、ここでは月草と百合との対比は必要が無いとして「のち」と訓じます。そのため末句は露草の染料で描いた衣の柄が薄くなっていく「虚ろ」と柄の判別がつかなくなる「消え失す」との視覚の差です。万葉集の揩り染め衣は神事に使う御衣を指し、万葉集の集歌1351の歌の真意では水溶性の青の染料である露草の染料を使い白の和栲の御衣に鮮やかな柄を描くことを詠うものです。御衣を着る神事は真夜中から早朝に行われますから、その神事が終わった後は御衣の描かれた青の柄が朝露の水に濡れてダメになっても良いとの意味です。一方、古今集の歌番号247の歌は恋歌と解釈するのが標準解釈であって、妻問いの朝の後朝の別れを詠うと鑑賞します。「濡れての後」とは、体を濡らすほどに愛撫をした男との共寝した朝に男が朝露を置く草を分けて衣の裾を濡らしながら帰って行った後のことですし、「移ろひぬ」とは帰って行った男の恋心です。このように歌意は全くに違うのです。歌意を確認しますと重複歌には為り得ません。
参考に、摺り染め御衣の風習は平安時代初期頃には延喜式に記録されるような歴史の儀式装束となり忘れ去られます。これを反映するように万葉集歌1351の歌の原歌の末句は西本願寺本の原歌では「徒去友」ですが、校訂本万葉集では校訂して「従去友」と直し、それによって古今集歌番号247の末句「移ろひぬとも」と同じ訓じを得ます。なお、この校訂の「従」は元暦校本、古葉略類聚鈔鈔、温故堂本の三本だけで、他の諸本は「徒」です。この「徒」は万葉集では漢字原義の「空也、僅」などから一字で「いたずらに」と訓じる意味合いを持つ漢字で、「従」の漢字原義は「隨行也、就也」ですので「移ろひぬ」とは歌意において全く趣を異にします。このように原歌が「徒去友」であれば、用字が示す歌意からも古今和歌集との重複歌にはなりません。理屈から歌を鑑賞しても歌の表記から鑑賞しても重複とするのは相当な力技が必要です。
次に、本質的に問題となるのは古今集歌番号192と万葉集歌1701との組み合わせです。この万葉集歌1701の原歌は諸本による異同はありません。諸本すべて同じ表記です。古今和歌集ではその両序で重複歌は無いと宣言します。もし、相互の歌に相違があるなら、そのキーワードは万葉集の「佐宵中」と古今和歌集の「左夜奈可=小夜中」、「鴈音」と「加利可祢=雁が音」ですから、これを紀貫之たちがどのように評価したかを確認する必要があります。
鎌倉時代以来の万葉集の標準解釈では「鴈」一字は「かり」と訓じ、「鴈鳴」は戯訓として「鴈(かり)が音(ね)」と訓じます。そこから万葉集歌1701の歌の「鴈音」は「鴈(かり)が音(ね)」と訓じます。同じように「佐宵中」は「さ宵中(よなか)」と訓じ、「小夜中」と解釈します。これにより全句が一致することになります。
ところで、古今集歌番号192の歌の鑑賞では「雁が音の聞こゆる空に」を「月渡る見ゆ」から離して置き、雁が鳴き飛ぶ空間に対し月明りの空間を対比させて空の大きさを示すと解説します。一方、万葉集歌1701の歌の下句「鴈音所聞空月渡見」をどこに区切りを入れるかで、鴈の鳴く場所が変わります。標準解釈でも「鴈音」、「所聞空」、「月渡見」と区切りを入れますが、「所聞空」の解釈には相違が現れます。三句切れと見て「所」を万葉仮名の標準音となる「そ」と訓じると、時に「鴈が鳴く、その声を聞く空に月が渡って行く」となり、この場合には鴈は必ずしも空を飛ぶ必要はありません。可能性として、紀貫之たちは万葉集歌1701の歌に宵闇の中、鴈が集い鳴いている野原に立って上り行く月を眺めたかもしれません。歌の世界は鳴き声だけが聞こえる野原に立って見る宵闇の月です。
それに対して、四句切れの古今集歌番号192の歌に典型的な宵闇の雲井に鳴き飛ぶ鴈と空の半分が夜晴れした大空に月を見たかもしれません。歌は確かに似ていますが、万葉集の原歌の解釈によって歌意は大きく変わります。そこから古今和歌集の両序は古今和歌集に重複歌がないと宣言したと考えられます。平安時代初期の歌人は、古今集歌番号192の歌は四句切れの歌で、万葉集の歌は三句切れの歌と解釈したと考えると、確かに歌意では別の歌であって重複歌にはなりません。
次に伊藤博が「歌辞に相違を持つ歌」と区分した古今和歌集と万葉集との組み合わせを紹介します。この組み合わせは中西進の「万葉集と少異をもつ歌」や「時間的な伝誦の間に異同を生じて来た、元来同一歌であったものでないもの」の区分に含まれるものと似たものです。伊藤博は先輩学者が行った重複歌の研究で挙げた組み合わせに対し婉曲に「歌辞に相違を持つ歌」と表現しますが、それぞれの歌を誠実に確認すれば判るようにこれらは全くに重複歌として扱うことは出来ません。単に平安時代にあって藤原清輔が指摘する「盗古歌」と呼ぶもので、今で云う本歌取技法の歌です。
ただし、古今和歌集と万葉集との重複歌の研究を行った春日政治、田中道麿や渋谷虎雄たちが定義する「重複歌(以下、「渋谷たちの重複歌」)」と私が考える「重複歌」との意味合いが違う可能性があります。私が考える「重複歌」の定義は先に紹介しましたが、歌意が同一で、さらに歌に使う骨格の言葉もすべて同一であることが必要です。私が唱える定義からすると、以下に示す組み合わせに重複関係の歌は有りません。盗古歌(本歌取技法)の歌です。
古今集歌番号489
原歌 寸累可奈留堂己乃宇良奈美多々奴比者安礼止毛幾美遠己日奴比八奈之
翻文 駿河なる田子の浦浪立たぬ日はあれども君を恋ひぬ日はなし
万葉集歌3670
原歌 可良等麻里 能許乃宇良奈美 多々奴日者 安礼杼母伊敝尓 古非奴日者奈之
翻文 韓亭(からとまり)能許(のこ)の浦波(うらなみ)立たぬ日はあれども家に恋ひぬ日はなし
古今集歌番号492
原歌 与之乃可者以者幾利止於之由久美川遠止尓八多天之己日八之奴止毛
翻文 吉野河岩切り通しゆく水の音には立てじ恋は死ぬとも
万葉集歌2718
原歌 高山之 石本瀧千 逝水之 音尓者不立 戀而雖死
翻文 高山(かくやま)し岩もと激(たぎ)ち行く水し音には立てじ恋ひに死ぬとも
古今集歌番号551
和歌 於久也万乃寸可乃祢之乃幾布留由幾乃遣奴止可以者武己日乃之个幾尓
古今 奥山の菅の根しのぎ降る雪の消ぬとか言はむ恋のしげきに
万葉集歌1655
原歌 高山之 菅葉之努藝 零雪之 消跡可曰毛 戀乃繁鶏鳩
翻文 高山し菅(すが)し葉凌(しの)ぎ降る雪し消ぬとか言ふも恋の繁けく
古今集歌番号683
原歌 伊世乃安万能安左奈由不奈尓加徒久天不三留女尓比止遠安久与之毛可那
翻文 伊勢の海人の朝な夕なにかづくてふ見るめに人をあくよしもがな
万葉集歌2798
原歌 伊勢乃白水郎之 朝魚夕菜尓 潜云 鰒貝之 獨念荷指天
翻文 伊勢の白水郎(あま)し朝な夕(ゆふ)なに潜(かづ)くいふ鰒し貝し片思(かたもひ)にして
古今集歌番号703
原歌 奈従飛幾乃天比幾乃以止遠久利可部之己止志計久止毛多衣武止遠毛不奈
翻文 夏引きの手引きの糸を繰り返し事しげくとも絶えむと思ふな
万葉集歌1316
原歌 河内女之 手染之絲乎 絡反 片絲尓雖有 将絶跡念也
翻文 河内(かふち)女(め)し手染めし糸を絡(く)り反(かへ)し片糸(かたいと)にあれど絶えむと念(おも)へや
古今集歌番号720
原歌 堂衣寸由久安寸可乃可者乃与止美奈者己々呂安留止也比止乃於毛者武
翻文 絶えず行く飛鳥の河のよどみなば心あるとや人の思はむ
万葉集歌1379
原歌 不絶逝 明日香川之 不逝有者 故霜有如 人之見國
翻文 絶えず逝(い)く明日香し川し逝(い)かざらば故(ゆゑ)しもあるごと人し見まくに
古今集歌番号758
原歌 寸万乃安万乃志本也幾己呂毛於左遠安良美末止遠尓安礼也幾美可幾万左奴
翻文 須磨の海人の塩焼き衣をさを粗み間遠にあれや君が来まさぬ
万葉集歌四一三
原歌 須麻乃海人之 塩焼衣乃 藤服 間遠之有者 未著穢
翻文 須磨の海人し塩焼き衣の葛服(ふぢころも)間(ま)遠(とほ)にしあればいまだ着なれず
古今集歌番号1080
原歌 佐々乃久万飛乃久満可者尓己万止女天志波之三従可部加計遠多尓美武
翻文 笹の隈桧の隈川に駒止めてしばし水飼へ影をだに見む
万葉集歌3097
原歌 左桧隈桧隈河尓駐馬馬尓水令飲吾外将見
翻文 さ桧(ひ)隈(くま)し桧隈(ひくま)し川に馬(むま)留めし馬に水飼へ吾れ外(よそ)し見む
古今集歌番号1082
原歌 満可祢布久幾比乃奈可也万於比尓世留本曽多尓可者乃遠止乃左也个左
翻文 まがねふく吉備の中山帯にせる細谷川の音のさやけさ
万葉集歌1102
原歌 大王之 御笠山之 帶尓為流 細谷川之 音乃清也
翻文 大王(おほきみ)し三笠し山し帯(おび)にせる細谷川(ほそたにかは)し音の清(さや)けさ
以上、古今和歌集と万葉集との重複歌を確認しましたが、歌の解釈次第により重複と認められるもの1首、重複とするために校訂を行えば重複となるもの1首の計2首以外に重複は無いことが確認できます。議論は有りますが、平安初期の貴族たちが万葉集の歌約4500首と古今和歌集の歌約1100首の間で重複がないとしたことに十分に根拠があったと考えます。
帰結として、万葉集と古今和歌集に重複は有りませんし、紀貫之たちが見た万葉集は現在の二十巻本万葉集とほぼ同じものです。ただ、この帰結は鎌倉時代以降の和歌人達にとっては、非常に困った話です。古今和歌集を編んだ紀貫之たちは現在の二十巻本万葉集とほぼ同じ万葉集を完全に読み解き、次の時代の後撰和歌集の選者の一人は紀貫之の子の紀時文です。紀時文が父親の紀貫之から万葉集の読解の手ほどきを受けなかったとするのは非常に無理筋の提案です。当然、鎌倉歌人が信じた万葉集古点の伝承と解説からすると後撰和歌集の編纂時代前後には万葉集は読み解きが出来ない歌集になっていたことが前提ですから、ここでの帰結は受入不能な話となります。
次に後撰和歌集と万葉集との重複歌の確認を行いますが、確認として従来の万葉集読解の歴史での暗黙の了解として、後撰和歌集を編纂した源順たちが万葉集の読解研究を行っており、その成果を万葉集古点(天暦古点本)と称しています。つまり、日本古典文学史での標準的な扱いでは、万葉集古点が成るまで万葉集は既に読解不能な和歌集になっていたと解釈します。また、既に紹介しましたが平成時代に下るまで天暦古点に対して後撰和歌集の編纂が先に行われ、天暦古点はその事業の後になされたとします。つまり、後撰和歌集には万葉集の読み解きの事業成果は反映していないと考えますから、それを反映して多数の重複歌が存在すると考えます。
当然、そのような従来の理解では古今和歌集の選者の紀貫之と後撰和歌集の選者の紀時文は親子関係を前提に、天暦古点の事業まで子の紀時文が十分に万葉集を読み解けないのなら親の紀貫之もまた十分に万葉集を読み解けなかったと推定します。その証が古今和歌集での重複歌の存在報告です。逆に考えると、紀貫之は時代の和歌の第一人者で、その紀貫之が万葉集を十分に読み解けていたのなら、子の紀時文もまた親の手ほどきを受けて万葉集は読めたと理解すべきことになります。この考えから、天暦古点の事業内容として「万葉集歌の和らげた」と伝承するのは宮中女官たちへの仮名文の解説書作成の意味であって、改めての読み解きではなかったと推定します。
このように相当に日本古典文学史への解釈が変わります。参考として、鎌倉時代になって天暦古点の事業で源順がその読解に苦心したことの解説に「左右」の言葉の訓点付けの説話が生まれていますが、その「左右」の言葉は万葉集だけでなく新撰万葉集の和歌にも多数使われる漢字表記ですから、その時代の歌学者である源順が苦心して読み解くような言葉ではありません。昭和時代の研究者はそのような「左右」の言葉の訓点付けの説話を真に受けますから、大正から昭和の時代は日本古典文学の研究史の中では、やや、特殊な時代だったのでしょう。
新撰万葉集で「左右」の表記を持つ歌の例
歌番号23 佚名
和歌 夏之夜之 霜哉降禮留砥 見左右丹 荒垂屋門緒 照栖月影
漢詩 夜月凝来夏見霜 姮娥觸處翫清光 荒涼院裏終宵讌 白兔千群人幾堂
寛平御時后宮歌合で詠われたもの 夏五番右
原歌 なつのよの しもやふれると みるまてに あれたるやとを てらすつきかけ
推定 奈川乃代乃 之毛也不礼留止 見留末天尓 安礼多留也止遠 天良須川幾可个
ここでのものは素人のものですので独自に重複歌の抽出を行うことなく、その昭和時代の重複歌の研究成果を利用して、再度、後撰和歌集と万葉集の重複歌とを確認します。熊谷直治の『万葉集の形成』では各種のものを調査した上で重複歌は24首とし、それは以下の組み合わせとします。ここではその24首を下に私の判断でその組み合わせから重複歌と認められるもの、盗古歌(本歌取技法)のものとに区分して紹介します。
1.重複歌と思われる歌、5首
後撰和歌集歌番号22
原歌 和可世己尓三世武止於毛比之武女乃者奈曽礼止毛三盈寸由幾乃布礼々八
翻文 吾が背子に見せむと思ひし梅の花それとも見えす雪の降れれば
万葉集歌1426
原歌 吾勢子尓 令見常念之 梅花 其十方不所見 雪乃零有者
翻文 吾が背子に見せむと念(おも)ひし梅し花そともそ見えず雪の降れあれば
後撰和歌集歌番号187
原歌 堂比祢志天徒末己比寸良之本止々幾寸可美奈比也万尓左与不个天奈久
翻文 旅寝して妻恋ひすらし郭公神無備山に小夜更けて鳴く
万葉集歌1938
原歌 客尓為而 妻戀為良思 霍公鳥 神名備山尓 左夜深而鳴
翻文 旅にしに妻恋すらし霍公鳥神南備(かむなび)山にさ夜(よ)更(ふ)けに鳴く
後撰和歌集歌番号239
原歌 安満乃可者止遠幾和多利者奈个礼止毛幾美可布奈天者止之尓己曽万天
翻文 天の河遠き渡はなけれども君が船出は年にこそ待て
万葉集歌2055
原歌 天河 遠度者 無友 公之舟出者 年尓社候
翻文 天つ川遠き渡りはなけれども君し舟出(ふなで)は年にこそ候(く)る
後撰和歌集歌番号243
原歌 安満乃可者世々乃之良奈美堂可遣礼止堂々和多利幾奴万川尓久留之三
翻文 天の河湍瀬の白浪高かけれどただわたり来ぬ待つに苦しみ
万葉集歌2085
原歌 天漢 湍瀬尓白浪 雖高 直渡来沼 時者苦三
翻文 天つ川湍瀬(せせ)に白浪高けども直(ただ)渡(わた)り来(き)ぬ時は苦しみ
後撰和歌集歌番号295
原歌 安幾乃多乃加利本乃也止乃尓本不万天佐个留安幾者幾美礼止安可奴加毛
翻文 秋の田の仮庵の宿の匂ふまで咲ける秋萩見れどあかぬかも
万葉集歌2100
原歌 秋田苅 借廬之宿 尓穂經及 咲有秋芽子 雖見不飽香聞
翻文 秋田刈る借廬(かりほ)し宿(やど)りにほふまで咲ける秋萩見れど飽かぬかも
2.万葉集を参考にした盗古歌と思われる歌、十九首
後撰和歌集歌番号23
原歌 幾天三部幾比止毛安良之奈和可也止乃武女乃者川者奈於利川久之天无
翻文 来て見るべき人もあらじな我が宿の梅の初花折りつくしてん
万葉集歌2328
原歌 来可視 人毛不有尓 吾家有 梅早花 落十方吉
翻文 来て見べき人もあらなくに吾家(わがへ)なる梅し早(はつ)花(はな)散りぬともよし
後撰和歌集歌番号33
原歌 加幾久良之由幾者布利川々志可寸可尓和可以部乃曽乃尓宇久比須曽奈久
翻文 かきくらし雪は降りつつしかすがに我が家の苑に鴬ぞ鳴く
万葉集歌1441
原歌 打霧之 雪者零乍 然為我二 吾宅乃苑尓 鴬鳴裳
翻文 うち霧(き)らし雪は降りつつ然(し)かすがに吾家(わぎへ)の苑(その)に鴬鳴くも
後撰和歌集歌番号37
原歌 幾美可多女也万多乃佐者尓恵久川武止奴礼尓之曾天者以末毛加者可寸
翻文 君がため山田の沢にゑぐ摘むと濡にれし袖は今も乾かず
万葉集歌1839
原歌 為君 山田之澤 恵具採跡 雪消之水尓 裳裾所沾
翻文 君しため山田(やまだ)し沢しゑぐ摘むと雪消(ゆきげ)し水に裳し裾濡れぬ
後撰和歌集歌番号62
原歌 者留久礼者己加久礼於本幾由不川久与於本川可奈之毛者奈可个尓之天
翻文 春来れば木隠れ多き夕月夜おぼつかなしも花蔭にして
万葉集歌1675
原歌 春去者 紀之許能暮之 夕月夜 欝束無裳 山陰尓指天
翻文 春されば樹(き)し木(こ)の暗(くれ)し夕(ゆふ)月夜(つくよ)おほつかなしも山蔭(やまかげ)にして
後撰和歌集歌番号177
原歌 日止利為天毛乃於毛布王礼遠本止々幾須己々尓之毛奈久己々呂安留良之
翻文 独りゐて物思ふ我を郭公ここにしも鳴く心あるらし
万葉集歌1476
原歌 獨居而 物念夕尓 霍公鳥 従此間鳴渡 心四有良思
翻文 ひとり居に物思ふ夕(よひ)に霍公鳥こゆ鳴き渡る心しあるらし
後撰和歌集歌番号199
原歌 和可也止乃加幾祢尓宇部之奈天之己八者奈尓佐可奈无与曽部徒々見武
翻文 我が宿の垣根に植ゑし撫子は花に咲かなんよそへつつ見む
万葉集歌1448
原歌 吾屋外尓 蒔之瞿麦 何時毛 花尓咲奈武 名蘇經乍見武
翻文 吾が屋外(やと)に蒔きし瞿麦(なでしこ)いつしかも花に咲きなむ比(なぞ)へつつ見む
後撰和歌集歌番号204
原歌 奈天之己乃者奈知利可多尓奈利尓个利和可末川安幾曽知可久奈留良之
翻文 撫子の花散り方になりにけり我が待つ秋ぞ近くなるらし
万葉集歌1972
原歌 野邊見者 瞿麥之花 咲家里 吾待秋者 近就良思母
翻文 野辺(のべ)見れば撫子(なでしこ)し花咲きにけり吾(あ)が待つ秋は近づくらしも
後撰和歌集歌番号234
原歌 多万可川良堂衣奴毛乃可良安良堂満乃止之乃和多利者堂々比止与乃美
翻文 玉葛絶えぬ物からあらたまの年の渡りはただ一夜のみ
万葉集歌2078
原歌 玉葛 不絶物可良 佐宿者 年之度尓 直一夜耳
翻文 玉(たま)葛(かづら)絶えぬものからさ寝(ぬ)らくは年し度(たび)にただ一夜(ひとよ)のみ
後撰和歌集歌番号244
原歌 安幾具礼者可者幾利和多留安満乃可者加者可美見川々己布留比乃於本幾
翻文 秋来れば河霧渡る天の河川上見つつ恋ふる日の多き
万葉集歌2030
原歌 秋去者 河霧 天川 河向居而 戀夜多
翻文 秋されば河し霧(き)らふる天つ川河し向き居(ゐ)に恋ふる夜(よ)ぞ多(まね)
後撰和歌集歌番号300
原歌 之良川由乃遠可満久於之幾安幾者幾遠於利天八佐良尓和礼也加久左无
翻文 白露の置かまく惜しき秋萩を折りてはさらに我や隠さん
万葉集歌2099
原歌 白露乃 置巻惜 秋芽子乎 折耳折而 置哉枯
翻文 白露の置かまく惜しみ秋萩を折りのみ折りに置きや枯らさむ
後撰和歌集歌番号305
原歌 和可也止乃於者奈可宇部乃之良川由遠計多寸天多万尓奴久毛乃尓毛加
翻文 我が宿の尾花が上の白露を消たずて玉に貫く物にもが
万葉集歌1572
原歌 吾屋戸乃 草花上之 白露乎 不令消而玉尓 貫物尓毛我
翻文 吾が屋戸(やと)の草花し上(へ)し白露を消(け)たずに玉に貫く物にもが
後撰和歌集歌番号359
原歌 加利可祢乃奈幾川留奈部尓可良己呂毛多川太乃也万者毛美知志尓个利
翻文 雁が音の鳴きつるなへに唐衣竜田の山はもみぢしにけり
万葉集歌2194
原歌 鴈鳴乃 来鳴之共 韓衣 裁田之山者 黄始南
翻文 雁鳴きの来(き)鳴(な)きしなへに韓(から)衣(ころも)龍田(たつた)し山は黄葉(もみち)始(そ)めなむ
後撰和歌集歌番号376
原歌 以毛可比毛止久止武春不止太川多也満以末曽毛美知乃尓之幾遠利个累
翻文 妹が紐解くと結ぶと竜田山今ぞ紅葉の錦織りける
万葉集歌2211
原歌 妹之紐 解登結而 立田山 今許曽黄葉 始而有家礼
翻文 妹(いも)し紐(ひも)解(と)くと結びに龍田(たつた)山今こそ黄葉(もみち)始(そ)めにありけれ
後撰和歌集歌番号377
原歌 可利奈幾天左无幾安之多乃川由奈良之太川多乃也万遠毛美多寸毛乃者
翻文 雁鳴きて寒き朝の露ならし竜田の山をもみだす物は
万葉集歌2181
原歌 鴈鳴之 寒朝開之 露有之 春日山乎 令黄物者
翻文 雁鳴し寒き朝明(あさけ)し露あらし春日し山を黄葉(もみ)たすものは
後撰和歌集歌番号441
原歌 那加川幾乃安利安个乃川幾者安利奈可良者可奈久安幾八寸幾奴部良也
翻文 長月の有明の月はありながらはかなく秋は過ぎぬべらなり
万葉集歌2300
原歌 九月之 在明能月夜 有乍毛 君之来座者 吾将戀八方
翻文 九月(ながつき)し有明(ありあけ)の月夜(つくよ)ありつつも君し来(き)まさば吾(われ)恋ひめやも
後撰和歌集歌番号581
原歌 加久己不留毛乃止志利世八与留者遠幾天安久礼者幾由留川由奈良万之遠
翻文 かく恋ふる物と知りせば夜は置きて明くれば消ゆる露ならましを
万葉集歌3038
原歌 如此将戀 物等知者 夕置而 旦者消流 露有申尾
翻文 かく恋ひむものと知りせば夕(ゆうへ)置きに朝(あした)は消(け)ぬる露ならましを
後撰和歌集歌番号670
原歌 之良奈美乃与寸留以曽満遠己久不祢乃加知止利安部奴己比毛寸留加奈
翻文 白浪の寄する磯間を漕ぐ舟の舵取りあへぬ恋もするかな
万葉集歌3961
原歌 白浪乃 余須流伊蘇末乎 榜船乃 可治登流間奈久 於母保要之伎美
翻文 白波の寄する礒廻(いそま)を榜(こ)ぐ船の楫取る間(ま)なく思ほえし君
後撰和歌集歌番号743
原歌 川幾加部天幾美遠者三武止以比之可止日多尓部多天寸己比之幾毛乃遠
解釈 月かへて君をば見むと言ひしかど日だに隔てず恋しきものを
万葉集歌3131
原歌 月易而 君乎婆見登 念鴨 日毛不易為而 戀之重
翻文 月(つく)易(か)へに君をば見むと思ふかも日も易へせずに恋し繁けむ
後撰和歌集歌番号1298
原歌 和礼毛於毛不飛止毛和寸留奈安利曽宇美乃宇良不久可世乃也武止幾毛奈久
翻文 我も思ふ 人も忘るな 有磯(ありそ)海の 浦吹く風の 止む時もなく
万葉集歌606
原歌 吾毛念 人毛莫忘 多奈和丹 浦吹風之 止時無有
翻文 吾(あれ)も念(も)ふ 人もな忘れそ たな和(にぎ)に 浦吹く風し 止む時なかれ
以上、重複歌と紹介される歌を確認しました。おおむね同じ音表記となる歌を重複歌とし、音表記においても五句中四句が似ているだけでは重複歌と認めないとしますと、重複歌は5組となります。残りの19首は万葉集の原歌を十分に理解した上での盗古歌と考えます。
ただし、重複歌としました5組の歌の内、3組については次のような恣意的な疑義を申し立てると、盗古歌に分類できる可能性があります。つまり、重複歌となるものは万葉集約4500首と後撰和歌集約1400首との中で2首、最大で5首の可能性です。コンピューターによる機械的な重複検索・確認が出来ない時代でのこのような結果ですと、ほぼ、平安時代人たちは万葉集の歌を原歌から完全に読み解いていたと認識すべきと考えます。
検証のために表面上は類似重複歌ですが疑義を持つ組み合わせについて、以下に確認を行います。
後撰和歌集歌番号187
原歌 堂比祢志天徒末己比寸良之本止々幾寸可美奈比也万尓左与不个天奈久
翻文 旅寝して妻恋ひすらし郭公神無備山に小夜更けて鳴く
万葉集歌1938
原歌 客尓為而 妻戀為良思 霍公鳥 神名備山尓 左夜深而鳴
翻文 旅にしに妻恋すらし霍公鳥神南備(かむなび)山にさ夜(よ)更(ふ)けに鳴く
この後撰和歌集歌番号187と万葉集歌1938との初句に注目しますと、後撰和歌集は旅の途中の寝床の中で聞いたホトトギスの声への感情です。一方、万葉集は旅の途中ですが寝床での情景か強行軍での夜道での情景かは定かではありません。厳密に歌を鑑賞すると2首が同じ歌かというと、やや疑義は残ります。全くの素人の与太ですが、現代の和歌コンクールでどちらかの歌が最終選考に残ると、盗作か、独自かで議論が起きそうな関係と考えます。
後撰和歌集歌番号239
原歌 安満乃可者止遠幾和多利者奈个礼止毛幾美可布奈天者止之尓己曽万天
翻文 天の河遠き渡はなけれども君が船出は年にこそ待て
万葉集歌2055
原歌 天河 遠度者 無友 公之舟出者 年尓社候
翻文 天つ川遠き渡りはなけれども君し舟出(ふなで)は年にこそ候(く)る
後撰和歌集歌番号239と万葉集歌2055とで、万葉集歌2055の末句の“年尓社候”の標準訓は後撰和歌集に揃える形で“年にこそ待て”と訓じます。揃えた形で訓じますから、伝統として重複歌と認定とします。なお、万葉集に“候”の用字の歌が9首ありますが、集歌381の“風候”を“風守(まも)り”と訓じる例を除いて、原則として“さもろう”の言葉です。その言葉の意味としては“候曰、訪也。護也”の漢字本来が持つ語意に従っています。つまり、標準訓として万葉集歌2055の“年尓社候”を“年にこそ待て”とするのは意訳ではありますが、非常に恣意的な戯訓なのです。また、その訓じが平安時代に遡れるかは不明で、鎌倉時代以降の伝統です。
一方、“年尓社候”を表記のままに訓じますと、“候曰、訪也。護也”の漢字本来が持つ語意から“年にこそ候(く)る”となります。その場合は、「今年は生憎、雨模様で、七夕の夜の彦星による天の川の渡りはありませんでしたが、それでも彦星による天の川の渡りは毎年にやって来るものです」という歌意でしょうか。ところが、“年にこそ待て”ですと、歌が詠われたのが七夕の祭り以前ですと、今はまだ彦星の天の川を渡る船出はないけれど、ただ時期が早いのだからもう少し待てのような意味合いにもなります。万葉集の原歌を原歌通りに訓じますと、まったく同じ歌意の歌になるかは保証されません。既に紹介しましたが昭和30年代までは相互に三句から四句が似た類型歌や盗古歌も重複歌に分類していますから、歌本来の鑑賞となる歌意の相違などは些末な問題としていた可能性はあります。
後撰和歌集歌番号243
原歌 安満乃可者世々乃之良奈美堂可遣礼止堂々和多利幾奴万川尓久留之三
翻文 天の河 湍瀬の白浪 高かけれど ただわたり来ぬ 待つに苦しみ
万葉集歌2085
原歌 天漢 湍瀬尓白浪 雖高 直渡来沼 時者苦三
翻文 天つ川 湍瀬(せせ)に白浪 高けども 直(ただ)渡(わた)り来(き)ぬ 時は苦しみ
後撰和歌集歌番号243と万葉集歌2085との末句で、万葉集の標準訓は後撰和歌集に合わせて“時者苦三”の表記を“待つは苦しみ”と読みます。そのように特殊に読むことで重複歌となります。当然、原歌表記に従って“時者苦三”を“時は苦しみ”と訓じますと、歌の感情が大きく変わる可能性があります。場合によっては、傍観者による七夕の織姫と彦星との逢瀬は年にたった一度だけとは残酷ですねとの感想です。“待つは苦しみ”ですと、織姫と彦星との感情とも解釈できますが、“時は苦しみ”ではそのような解釈は無理筋と思います。つまり、表記は非常に似ていますが、さて、同じ歌意を持つ歌でしょうか。ここでは歌本来の鑑賞となる歌意の相違から違う歌と考えます。
後撰和歌集歌番号295
原歌 安幾乃多乃加利本乃也止乃尓本不万天佐个留安幾者幾美礼止安可奴加毛
翻文 秋の田の 仮庵(かりほ)の宿の 匂ふまで 咲ける秋萩 見れど飽かぬかも万葉集歌2100
原歌 秋田苅 借廬之宿 尓穂經及 咲有秋芽子 雖見不飽香聞
翻文 秋田刈る 借廬(かりほ)し宿(やど)り 匂ふまで 咲ける秋萩 見れど飽かぬかも
さらに後撰和歌集歌番号295と万葉集歌2100との初句を比べますと、後撰和歌集は秋の稲穂が実る田園での旅の仮寝の風景を示しますが、万葉集は当時の貴族の務めとして自分の荘で秋の収穫の陣頭指揮している、その情景を示します。同じ秋の田の情景かというと平安貴族と飛鳥・奈良貴族の社会基盤の差が明確にあります。厳密に疑義を申し立てると、確かに表記は非常に類似していますが、歌の内容としては平安貴族の秋の遊行の歌であり、方や飛鳥・奈良貴族のは労働歌の分類になります。つまり、歌意において別々のジャンルの歌です。
このように見て行きますと、後撰和歌集約1400首中に可能性で2首、最大で5首の万葉集との重複は、それほど重大な採歌ミスとは思えません。特に万葉集の歌が漢語と万葉仮名と称される漢字だけで表現された歌ですから、編集点検時に清音平仮名文字で表記されていたと推定される後撰和歌集の歌とは表面上の表記からは容易に比較・確認が出来ません。まずまず、重複をなくす編集は成功していると考えます。
また、歴史として梨壺の五人衆は、宮中女房たちのための万葉集の平仮名表記への翻訳本作成と並行して後撰和歌集の編纂も行っていたと考えられていますから、万葉集の平仮名表記へと直したときに、時代に合わせた表現に変更したり、そこから盗古歌のような歌を作成したりした可能性はあります。さらには後撰和歌集の編纂上での都合で、万葉集や古今和歌集と比較において不足すると思われる部立の歌を盗古歌などで補った可能性もあります。この辺りは、万葉集、古今和歌集、後撰和歌集の編纂と歌の分布比較が必要になると思いますので、その専門家による比較検討に待ちたいと思います。
古今和歌集並びに後撰和歌集と万葉集との重複歌について与太話を述べて来ました。ほぼ音表記に直したときに同じ表記となるものについて歌意の相違からの重複歌とすることへの疑義を紹介しましたが、これは素人の原歌表記から鑑賞したときのものです。ただ、もし、平安貴族がそのように鑑賞し、それぞれが別の歌と認識していたとすると、平安貴族たちは万葉集の歌を原歌表記から厳密に読み解き鑑賞していたとの推測となります。それはそれで重大な日本文学史への指摘ではないでしょうか。
繰り返しになりますが、重複歌の研究や点検では、それぞれの原歌とその適切な翻文を使用することを推薦します。特に万葉集の訓じは原歌が読めないことを前提に一字一音万葉仮名歌や後年の類型歌から類推して与えられたものがあるために、時に原歌で使用している漢語や漢字が本来持っている意味などを無視していることがあります。そのような手法を使いますと、研究者の恣意的な“校訂”や“読解”で重複歌を創作することも可能になります。平成時代後半から万葉集原歌の読解水準は上がっていますから、原歌と原歌との比較から検討をしていただき、批判を寄せていただければ大いなる幸せです。
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