職業人としての柿本人麻呂
第一章 氏族社会の和珥族と柿本臣
飛鳥池遺跡群から奈良大仏へ
先の考察から柿本臣は金属鋳造に関係する氏族であるとの仮定の下、奈良時代から歴史を遡ってみます。
近年の飛鳥地方の遺跡調査によると、古代の鉱山採掘跡や鋳造残滓の残る三輪山やそれを取り巻く巻向・穴師地域に近接する飛鳥浄御原宮のすぐ近傍に銅及び銀製品の鋳造を行ったと思われる工場やガラス・銀・金等の材料を使用した宝飾工房の遺跡が出土しています。これらの遺跡発掘の事例から、飛鳥時代の当時、明日香、三輪、巻向・穴師地区一帯は、日本有数の先進技術による銅鋳造の工人が住む地帯だったと推測されます。
さて、金銅仏の製錬鋳造には高温溶融炉の技術が要求されます。滋賀県教育委員会による東大寺大仏の先駆けとなる甲賀寺大仏の試作遺跡である信楽鍛冶屋敷遺跡の発掘で複数の鋳造炉と鋳込み穴の跡が出土しています。その鋳造炉の出土状況からの推定で、それぞれの鋳造炉が異なった形状や鋳込み作業をしていたことが指摘されています。このことから類推して甲賀寺大仏の鋳造には鋳造技法の異なった全国各地の銅鋳造職人が集められていたのではないかと報告がなされています。当然、東大寺大仏の鋳造には、それ以上の規模で日本全国各地から鋳造職人が集められたでしょう。その金銅仏の製錬鋳造の責任者が、さきに説明した柿本男玉です。
東大寺の大仏建立の記録では大仏鋳造に何度も失敗し試行錯誤して(記録記事では、七回の失敗を重ね・・とあります)、完成したとされています。先行する甲賀寺大仏は、その土地柄、百済系の鋳造技術者が鋳造を指導したと思われますが、大仏の鋳造に失敗して何度も火災事故を起こしたようで完成することができませんでした。今日の生産技術の観点から考えますと東大寺の大仏の建立のような巨大な大仏の鋳造には何基もの炉で同時に鋳込む必要があります。このため、鋳造の試行錯誤の内に鋳込み炉等は規模や形が統一され、炉の鋳込みの量や温度が炉の規模・形の統一や炉内の湯の色味によって製造管理が行なわれたと考えます。今日の製品管理の基本からすれば当然に職人の技術水準の統一と作業工程の標準化が行われたはずです。東大寺の大仏建立の時代、柿本臣一族に鋳物師の柿本男玉と同時代人として、後に主計頭となる柿本朝臣市守がいます。その主計頭の職務を考えるとき、主計頭が国家財政の計数管理を行う技術や知識を持つことからすると柿本臣一族とは工業標準化の手法を持つ技術者集団(または職人や技術を指導・管理する監理技能者)だったかもしれません。
少し雑談をしますと、古代の製鉄法には二種類の特徴ある製鉄方法がありました。それは、砂鉄からのたたら製鉄法と鉄鉱石からの箱型炉と坩堝炉とを使う鍛鉄製鉄法の二種類です。その異なる製鉄方法に関係すると思われる祭神として、砂鉄を原料とするたたら製鉄法の遺跡が出雲や但馬の山陰地方を中心に分布し、祭神として金屋子神をお祭りします。一方、鉄鉱石を原料とする坩堝炉の鍛鉄製鉄法の遺跡は山陽地方や琵琶湖周辺を中心に分布し、祭神としては八幡神(または市杵嶋比賣命)をお祭りします。この鉄鉱石からの鍛鉄製鉄法の工程は銅や鉛等の金属製錬の工程に類似し、その遺跡の分布状況からも関連性が指摘されています。先に紹介した備前国の山陽側南部地域での製鉄遺跡もまた、古代では褐鉄鉱を使用する鉄鉱石からの坩堝炉の鍛鉄製鉄法です。
金属製錬と祭神の関係において、鉱石から坩堝炉で鍛鉄を得る製鉄方法で金属製錬をする場合、その鍛冶職人たちは祭神として八幡神(または市杵嶋比賣命)をお祀りします。この風景の下、高市臣、柿本臣や宇佐八幡大社が市杵嶋比賣命を祀ることを考えますと、これらの氏族は大和朝廷の坩堝炉を利用しての金属製錬に強く係わる集団であったとの推定が可能と考えます。このように類推しますと東大寺大仏建立に登場する高市真国、高市真麿や柿本男玉たちの氏族背景と立場が想像できると思います。
そして、当時はまだ氏族社会です。つまり、職業選択の余地はありません。この氏族社会の面から推定して、柿本朝臣人麻呂が柿本臣の一員として金属製錬・鋳造に関わっていた可能性は非常に高いと考えます。
古代の銅及び銀の製法
ここまでの推定で柿本臣が金属製錬・鋳造に深く関わっていることが推測できそうです。この推論に従って柿本朝臣人麻呂の職業を考える前に、古代での金属製錬・鋳造について共通の認識を保つために、少し、金属製錬・鋳造について説明をしたいと思います。
普段に生活する私達では、どのようにして古代の人たちが銅の地金を手に入れたかは想像が出来ないと思います。そこで簡単ですが、当時の銅鉱石から銅の地金を製錬する工程を、現在、進められている飛鳥池生産工房遺跡の発掘の研究報告などから、次のように説明します。
主に西日本の地域ですが、花崗岩やペグマタイトなどの深成岩や熱変成岩が露出しているような地域では金色に輝く黄銅鉱などを見つけることが、今でも出来ます。金属色に輝く部分が優良な鉱石で、銅の地金を製錬する原料になります。西日本の多くの銅鉱石はマグマ活動による地下深部の熱水接触鉱床に由来するようで、多くの銅鉱石は銀や金などの貴金属を僅かに含みます。このため、銅鉱石は同時に貧含有ですが銀鉱石でもあります。
さて、発見した銅鉱石を鏨(たがね)などで砕き、鉱床の母岩から取り出して選鉱所へ集めて来ます。選鉱所へ集めてきた銅鉱石を足踏みや水力の唐臼(からうす)などを利用してある大きさの粒に砕き、その砕いて粒状にした鉱石から人の手で鉱物と石とに根気良く選り分けます。これが採掘・選鉱過程です。
次に、銅の地金の製錬の前段階として黄銅鉱などの選鉱された粒状鉱石に含まれる硫黄分や土砂分を除去します。除去方法は、焙焼と呼ばれる選鉱された粒状鉱石を円筒炉の中などで木炭や薪などで焼き上げる方法を取ります。粒状鉱石を円筒炉の中で焼き上げて含まれる硫黄を気化・分離し、その焼け跡に残る焼固粒を、再度、粉砕します。その砕粉を比重差から風や水などを利用して土砂分と銅の鉱石部分との分離を行ないます。この焙焼作業の終わった銅の鉱石砕粉に、煉土や融剤となる生石灰(または藻塩や木灰)を混ぜて練り、餅状のもの(以下、餅と呼びます)を作成します。これで、坩堝炉を使う銅製錬での鉱石の準備は完了です。
坩堝炉を使う銅の製錬では、吹場と呼ぶ「半円形のくぼみを持つ溶鉱炉」(=坩堝炉)に木炭を盛り上げ、その積み上げた木炭の表面に餅を載せて、鞴で送風される溶鉱炉の中で木炭火力により溶解させていきます。こうして、くぼみの中に荷吹と呼ぶ赤湯(素銅)が熔出して来ます。この熔出して出来た赤湯の表面には鉱滓が浮かびますから、それを生の松木の棒で掻き取ります。赤湯から表面の鉱滓を取り除いて出来たものが荷吹(にふき)と呼ばれる粗銅となります。
この出来た荷吹を杵と臼で砕き、鉱滓と金属分を選り分けて鈹吹(かわふき)の原料とします。この荷吹で得られた金属分に煉土や融剤となる生石灰(または藻塩や木灰)を混ぜて練り、再度、餅状のものを作成します。これを、再び、溶鉱炉で溶解させて鈹吹と呼ばれる粗銅を作ります。同様にして、この鈹吹をまた溶鉱炉で溶解させて、製錬したものが真吹(荒銅)と呼ばれる銅の地金となります。参考として、こうして出来た真吹には、銀やその他の金属がわずかに含まれています。優良な場合、銅地金に銀が約2%前後(雲州杵築鷺銅鉱山事例、巻末掲載)ほど含まれていたこともあったそうです。一般には、これ以上の銀の含有では銀鉱石の扱いになります。
次に、この真吹と呼ばれる銅の地金に鉛を加えて溶融炉で溶融させます。すると、この溶融した銅(比重8.95)の液体の下部に銀鉛合金(鉛として比重11.36)が溶解温度差と比重との関係で底に沈み込みます。この銅と銀鉛合金の溶融液の表面に水を吹き付けるような作業(いぶき=鋳吹く)を行い、溶融した表面を急激冷却し銅の膜を作ります。この膜を掻き取るような作業を通じて、溶融温度差を利用した金属分離作業をします。こうして、掻き取った銅を再融解して塊として得られたものが練銅や真銅です。
なお、古代日本では、その銀含有量が多かったためでしょうか、銅と銀の生産コストの関係で、真吹段階での銀の分離作業は一回程度のようで銅地金の中の残留銀量が諸外国に比べると多かったようです。このため、中国では日本から銅地金を輸入して銀を取り出していたとされています。なお、この坩堝炉を使う製錬法は、原理は同じですが、対象となる規模と銀鉛合金の溶融液の取り出し方の違いから、江戸期以降の南蛮絞りとは異なった製錬法として扱われます。
参考として銀の製錬の話をしますと、このいぶき作業で得られた銀鉛合金の塊を小割し、それを木灰の上で火炎を吹き付ける作業である小吹きをすると一酸化鉛と銀に分離します。鉛と銀の溶解時の表面張力の関係で一酸化鉛は木灰の中に吸収され、銀が木灰の表面に残ります。こうして、銀が銅から分離、生産されます。これが、灰吹き法と呼ばれる銀の製錬です。
これを手短に実験室のレベルに縮小して説明しますと、近世の鉱物試料の分析方法に吹管を使用する方法があります。この吹管を使用する方法は、銅鉱石の製錬方法と原理的に同じです。皆さんも、中学生時代に理科実験で経験していると思います。この吹管を使用する方法は、半割りした木炭の平らな面に小さなくぼみを作り、ここに鉱物試料の粉末と融剤として炭酸ナトリウムを混ぜ合わせたものを入れ、吹管でブンゼンバーナーの炎を吹き付けると鉱物試料の金属分離が出来ます。この作業で使われる炭酸ナトリウムが先ほど紹介した融剤で、岩石の融け出す温度を下げて金属分離を促す作用をします。この炭酸ナトリウムは、古くは海草を焼いて出来る焼灰の主成分から得られ、その製法にちなんでソーダ灰とも云われています。日本では、その製法から藻塩がそれに相当します。金属製錬過程で、この融剤となるソーダ灰や藻塩を使うか、使わないかで、木炭使用量が大きく違います。そのため、金属の生産コストの観点からも、飛鳥・奈良時代、朝廷は海辺の人々を動員して、大量に藻塩を生産したものと思われます。
ここで、戦時中の藻塩製造作業に関してですが、インターネットには『戦時中の昆布産業』と云う題名で関係する記事があり、その記事を要約すると「通常の海草の塩化カリ類の含有量は二%程度ですが、馬尾藻類(ホンダワラなど)は十数%含むため、これを使用して塩化カリ類を生産した」とあります。植物の生育環境の差で、陸上の草木灰からは水に溶けやすい炭酸カリウムが取れ、海草からは水に溶けにくい炭酸ナトリウムが採れます。記事での「塩化カリ類」とは炭酸ナトリウムのことと思われます。しかし、この記事から、西洋でソーダ灰と呼ばれ、日本では藻塩と呼ばれる炭酸ナトリウムの生産には玉藻(ホンダワラ)が最適であったことが戦時中の藻塩製造作業記事から判明します。これが万葉集で歌われる「玉藻刈る」の風景の背景のようです。
なお、万葉時代の食塩の製法について紹介しますと、遺跡発掘及び文献調査報告によると飛鳥・奈良時代では食用の塩の生産は縦長の土瓶や底の浅い鉄釜・石釜で海水を薪で煮詰める簡易で安価な生産方式で行われていたことが判明しています。現在の「藻塩」と云う商品名称を持つ食塩の生産方法として紹介される、海藻に海水を含ませ天日による濃縮作業を行ってから煮詰めると云う手の込んだ生産方式は取ってはいません。そこには古代に年間数百トンもの銅を製造するのに大量のソーダ灰の需要があるとの想像が出来なかったことから、藻塩の対するイメージの差があると考えます。逆に経済面から考えますと、万葉集歌で藻塩を焼く風景が詠われている近隣には製鉄・製銅が行われた遺跡の存在の可能性があります。製銅では近畿地方では大阪湾の河内国鋳銭司や明石須磨の播磨国鋳銭司が有名です。
現在、発掘された富本銭等の古銭の金属分析結果から、人麻呂時代にはこのような金属製錬方法が確立していたことが確認出来ます。後年の発明とされる真吹法や灰吹法とは生産効率を上げた改良製法であり、その冶金技術の原理は飛鳥・奈良時代からさほどに変わってはいません。なお、生産技術の要請からすると銅と錫の合金である銅銭や青銅器を安定的に製作するには、このような純金属の生産技術がないと実用の製品として製造することができません。そして、人麻呂の時代、銀や銅は眺めるお宝では無く、銀銭や銅銭と云う通貨として、ある一定量は市井に流通していました。つまり、飛鳥・奈良時代、都市では銀や銅などの金属は日常の風景となっていました。
参考に、人麻呂時代の有名な銅鉱山では、銅の黄銅鉱類と鉛の方鉛鉱類が近隣で産出する事例が多いようです。人麻呂ゆかりですと、
播磨国多可郡加美
長門国阿武郡蔵目木
長門国美祢郡長登
の地域の鉱山がそうです。
鉱業に関わる補足的な雑談
話題として、紹介した銅や銀の製錬作業の付随物として、鉛からは女性の必需品である白粉(おしろい)や紅が生産されます。白粉は古代では胡粉(こふん)と云いますが、実際は鉛白を指します。鉛白は人肌と相性がいい白粉ですが、その一方、肌になじみやすい分、鉛中毒を起こします。このため、鉛中毒の原因が判明し、人々が認識した昭和以降は使用されなくなりました。それでもこの鉛白は飛鳥時代から昭和初期まで使われ続けた代表的な基礎化粧品です。
その鉛白の製法は正倉院宝物の化学分析報告によりますと、それは日本だけに見られる特別な製法だったようです。その製造工程としては、先に説明した銀製造の副産物である一酸化鉛や鉛を食酢に溶かし酢酸鉛水溶液とし、これに藻塩(ソーダ灰)を熱湯に溶いて作った炭酸ナトリウムと塩化ナトリウムとの混合水溶液で中和させます。すると、不溶物の塩化鉛や酸化塩化鉛が鉛白として沈殿します。中国や西欧の製法では瓶に食酢を注ぎ、その食酢に触れないようにして鉛を瓶に入れ密閉しておくと鉛の表面に純白の鉛白が出来ます。一方、日本独特の製法では塩化鉛や酸化塩化鉛などが複雑に混ざった形で生産されるために純白に近い白色から青白色まで、その色調をコントロールすることが出来たようです。そして、その製法から生産された鉛白が顔料として正倉院に残る宝物に広く使われていることから推定して、飛鳥・奈良時代の早い時期にはこの日本独特の製法は発見されていたと考えられています。また、正倉院宝物に使われた顔料研究の成果から純白に近い白色から青白色までの色合いの違った鉛白の製造が確認されていますから、宮中の女性が要求すれば自分の肌色に合わせた好み色での白色系のベース化粧品の入手は可能だったようです。
また、頬紅や口紅になる光明丹(紅)は鉛から得られる顔料でやや橙色の紅色をしています。白の顔料である鉛白は一酸化鉛を食酢に溶かしたものを藻塩の水溶液などで中和して得られますが、口紅となる光明丹は一酸化鉛を長く炎で熱すると四酸化三鉛として製造されます。当然、古くからの明るい紅色の水銀系の丹も生産されていました。
化粧品に関してみてみると、これらの製法の存在や『続日本紀』の記事などから推定して、白、朱、黄色、緑色、青色の鉱物・油脂系の顔料は生産されています。さらに、それらの顔料を延ばし化粧品とする油料として椿油や萱油などが流通していたようです。従いまして、持統天皇以降の貴族階級の女性は、化粧方法は別として明治・大正時代の女性とほぼ同等の化粧品を使用することは可能だったようです。当然、墨筆はありましたから、化粧筆もあったはずです。
女性の必需品の化粧品にちなみ、もう少し脱線して、古代では高級装飾品であるガラス玉の製法を説明します。そのガラス玉の製法は、意外なことに銅の製錬工程と同じです。使用する原料を銅鉱石から石英や長石に変えることでガラスを得る事が出来ます。少し乱暴な説明ですが、輝銅鉱などの銅鉱石を砕き、それを人手で金属鉱物の部分と白い石の部分(石英・長石)に選り分けます。この金属鉱物の部分に藻塩を混ぜて熔かすと銅の地金になり、白い石の部分に藻塩を混ぜて熔かすとソーダガラスになります。つまり、製法と作業場は同じで材料が違うだけです。このソーダガラスの製造の過程で、藻塩に金属の微粉末を混ぜると色ガラスになり、蜻蛉玉の材料となります。藻塩を混ぜて熔かす時に酸化鉛を加えますと加工性の良い鉛ガラスの透明なガラスが出来ます。これに銅の微粉末を加えると加工温度によってブルーからレッドまで広範囲に色が出て来ます。
古代において金細工と同程度に銀細工やガラス細工の宝飾品が珍重されているのは、このためでしょうか。およそ、それは銀細工やガラス細工の宝飾品の生産工程に起因する高度な技術水準が必要だったためと考えられます。現在、銀細工がポピュラーになったのは、大量に消費する工業用銅の製錬に伴い必然的に生じる付随銀の生産から、世界的に銀の生産量が飛躍的に増大しています。そのため貴金属としての銀の価値が大暴落しました。一方、ガラス製品は原料の入手が容易であることと高温炉の普及などによって身近なものになりました。
こうした点から見ますと、銅の精錬技術者はその要請される技術が宝飾品や化粧品の製法に近接するため宮中の高貴な女性たちと接触する機会は多かったと想像します。そして、その技術者を統括する宮中の木工寮の長官は、ある種、現代の宝飾商やデザイナーのような役割を果たしていた可能性があります。
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