万葉集と日中交流 白龜元年調布の礼
今回は万葉時代の歌人たちがどのような漢籍を参考資料として使っていたのかについて空想し、与太話をしています。
なお、題目としました「白亀元年調布の礼」は多治比県守を遣唐大使とする遣唐派遣団が学問伝授の謝恩として、中国の故事「白亀の恩」を引用した上で、正式に大唐から学問伝授を受る申し入れを行った、この年(717)を報恩元年とし、その証として調(みつぎ)の布を鴻臚寺に掲げたことを伝える言葉です。中国からの正統な書籍や学問の伝来時期を考えるときに重要なキーワードとなるものです。
最初に確認のため有名な漢文章とその訓読みを示します。なお、「偽」は漢語と日本語では意味合いが違っていますから、日本語基準で漢文を決め打ちして訓読みすると、おかしなことになります。
<キーとなる漢文章>
原文:遺玄默闊幅布以為束修之禮。題云白龜元年調布。人亦疑其偽。
訓読:闊幅(=幅広い)の布を以て束修の禮と為し、玄默に遺す。題に云はく「白龜元年、調の布」。人、亦、その偽(=意味)を疑う(=いぶかしむ)。
この漢文章「人亦疑其偽」が示すように「白龜元年調布」の意味を適切に理解するためには、中国の晋書に載る「白亀の報恩」の故事を知っていることが前提となりますから、ある一定の人でしか判らないと云うことが重要です。この漢文章作成の背景に当時の日本と唐との知識レベルの戦いがあったことを理解しないと読解は無理かもしれません。
読解では「禮」に対しての「白龜」がミソです。伝承では前回第七次の遣唐使が唐朝廷から拝受して持ち帰った晋書を完読し、再び、遣唐使として来唐して来た日本の使者が「白龜元年調布」を掲げて、唐が為した文化や教育への感謝を示したことに、玄宗皇帝は、当時としては異例となる、日本の使者たちが市中の書籍を自由に買い上げて持ち帰る許可を下しています。これを旧唐書ではその行動に対し驚きを持って「盡市文籍、泛海而還」と記録します。唐への朝貢国は新羅(朝鮮)、渤海(朝鮮東北部)、南詔(中国南西部)、また、西方中央アジアの地域からの使節団が到来していますが、それらの使節団に下賜される物品について唐の珍物・宝飾品ではなく、それに換えて書籍を求めたのは日本だけだったようです。ここに大宝時代から神亀時代の日本の朝廷の特異性があります。
さて、個人の趣味である万葉集の中にあって柿本人麻呂に関する古い時代の書物を眺めていて気が付いたことですが、昭和中期の万葉の人物への解説書に人麻呂の作品には山上憶良や大伴旅人では確認できる『文選』や『遊仙窟』の姿が見えず、また、『芸文類聚』も見えないとします。そこから人麻呂の人物像を推定して、彼は漢文に弱く、早く中級貴族(朝臣の身分)の子弟として舎人の身分で宮中に出仕をしたが、漢文章の能力に欠け、それにより中年以降は役人としては文章に対する能力不足により不遇であったと解説します。そして、『懐風藻』には彼の名が無いことから、その漢文章の能力に欠けていたことの証とします。実になるほどと思える指摘ですし、解説です。ただし、現代に伝わる懐風藻に名が無い万葉集でも重要人物がもう一人、山上憶良がいます。山上憶良は漢文の能力により無位ながら遣唐使の随員に抜擢された人ですし、万葉集の作品に示す漢籍理解の能力からすると、懐風藻に作品が載らないことから「漢文章の能力に欠け、それにより中年以降は役人としては能力不足により不遇であった」とは出来ません。当然、その人物が行う人麻呂の解説ではこの憶良と現代に伝わる懐風藻との関係の考察を素通りしなければいけません。多分、本人も無茶な解説だとは判っていたと思いますが、昭和に流行した柿本人麻呂遊行詩人説や朝廷放逐説に寄せるためのものなのでしょう。
酔論はさておき、与太話の最初として、御存知のように本来の万葉集の姿は漢語と万葉仮名と云う漢字だけで表記された短歌や長歌などの大和歌の歌集です。現代によく目にする「漢字交じりひらがな」表記の和歌集ではありません。あくまで漢語と漢字が主体ですし、万葉仮名と称される借音漢字文字も、その漢字が持つ表語文字の力を使い、時に借音漢字とするだけでなく語意もまた使うような表記方法です。次に例題を挙げますが、万葉仮名「ぬ」の音字ですが漢字では志の卑しき者を表す「奴」と中医学では女性器を示す言葉である「金丹」の文字を絶妙に使っているところの語感を感じて頂ければ、本来の万葉集の姿がよく判ると思います。
集歌2664
原文 暮月夜 暁闇夜乃 朝影尓 吾身者成奴 汝乎念金丹
訓読 夕(ゆふ)月夜(つくよ)暁(あかとき)闇(やみ)の朝影(あさかげ)に吾(あ)が身はなりぬ汝(な)を念(おも)ひかねに
私訳 煌々と輝く夕刻に登る月夜の月が暁に闇に沈むような朝の月の光のように私は痩せ細ってしまった。貴女への想いに耐えかねて。
裏歌の解釈
試訳 夕暮れの月夜から明け時の闇夜まで(愛を交わして)、その明け時の光が作る影のように弱々しくなるほどに私の身は疲れてしまった。でも、また、貴女の“あそこ”を求めてしまう。
さて、最初に紹介しましたように、現代に平安時代の和歌や物語を研究する時、国文学の研究者は中国文芸、特に文選注、白氏文集、遊仙窟、芸文類聚などからの影響に注目します。その視線から万葉集の歌にも中国文芸の影響を検討しますし、その検討において、作品成立の時代性から文選注や遊仙窟の影響を特に探ります。確かに万葉集の歌に大伴旅人と藤原房前との相聞を鑑賞するには『文選李善注(又は文選六十巻本)』は外せないものです。逆に二人の相聞には文選李善注を前提としている「謌詞兩首」のような作品がありますので必須的なものです。
時代を確認すると、初期万葉集の時代、白氏文集はまだ成立していませんから白氏文集を使い、初期万葉集を解説することは基本的にありえません。では、白氏文集以前に成立した文選や遊仙窟などが大和の文芸に対してどの時代まで遡り影響を与えていると考えることが出来るのでしょうか。そこで遊仙窟について文献を調べてみますと、現代での研究では昭和三十年代に小島憲之氏はその著書『上代日本文学と日本語 中』の中で遊仙窟は一般に第八次遣唐使の帰国年である養老二年(718)以前に遡ることはできないとしています。時代の上限は、ほぼ、この辺りが定説のようです。
一方、文選についてはどうでしょうか。この文選についての研究が難しいのは、文選自体が春秋戦国時代から梁時代までの文学者131名による賦・詩・文章の800ほどの作品を収録した秀文類聚の作品であることです。このため、単純な方法での文選に載る語句を使い万葉集への検索を行うことが出来ないのです。文選自体が先行する文芸の秀文類聚ですから、万葉集に対する検索で該当したものが本来の原文からの引用のものなのか、文選に載る原文エッセンスからのものなのかの区別は付けられません。他方、唐代に作られた文選の註釈書である文選李善注は本質が註釈ですから、註釈語句を使い万葉集への検索を行った時、註釈の有無や使われる語句への解釈との同意性などにより、その影響を判断できる可能性があります。従いまして、文選の影響研究では文選(文選三十巻)と文選李善注(文選六十巻)との区別を明確化することが必要です。
さらに万葉集への中国の文芸からの影響を考える時、もう一つの問題点はその中国文芸の書物の日本への伝来時期はいつなのかと云うことを明らかにしないと評価が出来ないのです。先に紹介しましたが大伴旅人や藤原房前は語句引用と作品の本質を検討しますと確実に文選李善注を身に着けています。従いまして、時代と遣唐使派遣のタイミングを考えますと多治比県守が大使を務めた第八次遣唐使が帰朝した養老二年の時か、それ以前に到来しています。個人の感覚ですが、奈良から平安時代の文芸の基盤を作るのに必要な中国からの書籍の大半は「白龜元年調布」事件で、長安などの市中から書籍を自由に購入する権利を与えられた第八次遣唐使が持ち帰ったと考えています。そのため特別に「白龜元年調布」事件は日本の文化史の中にあって重大事件なのです。
ところで、万葉時代以前に漢字辞典である『説文解字』は伝来していたでしょうから、漢字や漢語を使い表現する文章に対して単純なる語句検索からの類似を示すだけでは文芸作品の影響評価とすることはできません。つまり、当たり前のことですが単語が共通することと文芸作品からの影響とは区別しなければいけません。内実に影響があるかどうかです。説文解字に載る漢語の語句との類似を検索すれば、漢語と漢字で表記された万葉集作品はなんらかな形で重複するはずです。これと同様に、山上憶良が宮中での乞巧奠を秋の七草の歌として詠っているから、その作品は文選や荊楚歳時記の影響下にあるとするのは論理の暴走です。もし、その論理が許されるなら2月や12月の歳時風景を記した現代小説の多くは聖書の影響下にあると云うことになります。当然、現代小説評論家に、そのような評論態度を取る人はいないでしょう。現代人の現代小説へのアクセス状況を勘案して、評論家は作品内容を熟読して海外作品からの影響を評論するはずです。聖書の影響下にあると云う論拠において、キリスト、バレンタイン、クリスマスなどの単語が聖書に載る言葉と類似しているとか、重複していると云うだけでは、まず、相手にされません。内実です。もう、昭和時代の分析手法は使えないのです。漢文であってもその中身を読み解き、文章が示すものからの比較検証が必要なのです。
ここで第八次遣唐使に注目をしたいと思います。この第八次遣唐使は従来の遣唐使たちとは違い「白龜元年調布」と云う「束修之礼」を大唐の天下に示し、玄宗皇帝から「須作市買、非違禁入蕃者、亦容之」の勅許を得て、「所得錫賚、盡市文籍」と云うことを行っています。これは日本と中国との外交関係では重大な事件です。
従来、大唐は朝貢等による管理貿易を行っており、戸籍の規定から役所に対して営業及び納税登録が出来ない外国人は市場での物品売買の権利を持っていません。市場は各都市に置かれた市署と云う役所が管理しており、また、外国との交易を行う都市の市署では市令や市丞が交易を管理していました。交易を希望する外国人は市署から売買行為の許可を受け、営業許可及び納税登録を示す市籍に載る中国人商人を通じ、許可された物品の売買を行うことになっていました。他方、先端技術、行政、軍事に関係する書籍や技能・技巧者(ある種の奴隷)は貿易禁制品目ですから、遣唐使の人々であっても特別な許可がないと購入や国外搬出・連れ出しが出来ません。また、管理貿易ですから市署の承諾が無いと日本から持ち込んだ物品(水銀、延銀、絹織物など)を市場で売却し、書籍等の購入資金を得ることも出来ないのです。ところが、この第八次遣唐使は玄宗皇帝から広範囲の市場での売買許可を得たようで、長安の書籍をことごとく購入して日本に持ち帰ったと当時の中国の人が驚き、正史に載せるような行動を取っています。そして、この第八次遣唐使は総勢557人の四船団構成で大唐に赴き、無事、全四船団が無傷で帰朝しています。つまり、長安での玄宗皇帝から大量の書籍購入の勅許や派遣した大船団が全て無事に帰朝したことがらからして、推定で、ほぼ、このときに奈良・平安時代に日本にあった大部分の書籍は持ち込まれたと考えます。
当然、留学生や学門僧の往来記録などから推定して朝鮮半島経由での日本と中国との民間レベルでの交易はありました。しかしながら、日本側から見て貿易禁制品目に該当する書籍の交易に自由性がありません。民間交易で持ち込まれる書籍を全て朝廷が購入したとしても、欲しいものが常に日本へと持ち込まれる訳でもありませんし、民間レベルではその質が限定されたと考えられます。その制約を想像しますと、やはり、第八次遣唐使が有力な候補ではないでしょうか。
さて、先ほど「白龜元年調布」と云う「束修之礼」を大唐の天下に示したことが日本と中国との外交関係では、重大な事件であると紹介しました。正式な公表ではありませんが「白龜元年調布」の言葉は日本が文化面では中国の門弟となることを認めたと云うことで、従来の遣隋使や遣唐使などが見せていた両国対等の立場での友好を交わすことや軍事同盟を結ぶことを目的とする使節団派遣からの転換を示しています。ただし、多くの大唐の人々が「白龜元年調布」の言葉を理解出来たか、どうかは、第八次遣唐使の人々にとっては関係のないことです。玄宗皇帝が理解したか、どうかです。どうも、玄宗皇帝やその臣下群は「調布」の意味合いを狭く「束修之禮」だけでなく、広く「来朝」までに拡大解釈したと想像します。
従いまして、玄宗皇帝が遣唐使一行に長安での「所得錫賚、盡市文籍」と云う行動を特別に許したことは、玄宗皇帝やその周囲の人々のプライドを存分に満たした結果と考えます。従来、日本が中華帝国の(文化的)支配下に入るという、隋の煬帝や大唐の高宗でもなしとげられなかったことですが、この玄宗皇帝の時代にその治世に靡いて朝貢して来た日本を、日本自身の意思表示から臣下(日本側は文化だけに限った門弟)に従えることが出来たと云うことは非常に気持ちがよかったのではないでしょうか。
参考にこの「白龜元年調布」の文言を説明しますと、「白龜」の語句は『晋書』巻八十一列伝第五十一に載る「毛宝白龜」の故事に因るもので、元号などではありません。直接には、玄宗皇帝の計らいからの四門助教である趙玄默による日本に対する正式な総合的古典教養に対する授業への報恩の表しであり、その恩への調(=貢物)の布と云う意味です。つまり、日本は学問では門弟の礼を取り、その報恩の表しをこの玄宗皇帝開元五年を以って元年としますと云う意味です。推定でその故事を載せる晋書は第七次遣唐使が則天武后の長安三年(703)に拝受したものと考えます。
そして、その十年の後、再び、大唐の都、長安に姿を見せた日本の遣唐使はその拝受した書籍を隅々まで読み込み理解し、そして、そこに載る多くの書籍の下賜とそれらの書物の正統な解釈教授を求めたものと思われます。この要求や態度は大唐の役人や学者たちの大いなるプライドを満たす行為だったと想像します。当然、ある程度の書籍は朝貢した日本に下賜されたと思いますが、諸外国とのバランスから日本の要求を満たす全ての書籍を下賜することは出来なかったと考えます。それで市場からの購入を認めたのではないでしょうか。また、中国語の構文特性から、文選にも文選李善注の註釈書が有名なように、中国語文章の正しい解読と定義されたものへの理解には正統な解釈の伝授が重要です。例として科挙試験では漢文読解では欽定解釈だけが有効で、欽定解釈以外は間違いとします。それで詩経は中国語表記が示す内容と欽定解釈の毛氏鄭箋とに大きなギャップがあり、清朝以降に詩経を詩経表記により研究する学派と詩経表記よりも毛氏鄭箋の解釈を優先する学派とに分裂し、それぞれ、別物となっています。それほどに公式の漢文解釈では正しいとされる解読とその定義が重要なのです。
ここまでの解説に追加して、旧唐書文中の「人亦疑其偽」の句は「束修の礼に対して、この言葉は何を示すのかと人々は訝しんだ」と解釈するのがよいと愚案します。およそ、「偽」の字源には「人の仕業」なる意味もあります。この追加説明が例となるように漢文への註釈は重要なのです。一般に紹介した句に対し、「布には『白亀元年調布』と書いてある。人はその真偽を疑った」と解釈し、解釈の背景として「日本での元号や律令体制の成立などの高度な社会成立を疑った」と理解・説明するようです。ただ、その時、文脈全体と「為束修之禮」との整合が難しい所です。
このような推定から万葉集を検討する時、養老二年以前と以降では影響を受けたであろう漢籍の分量や内容が大きく違うと考えます。
では、その養老二年以前ではどのような書籍があったのかと云いますと、『日本書紀』などは最初の伝来書籍は朝鮮半島からの『論語』と『千字文』とします。当然、漢字辞典に相当する『説文字解』もまた早い時期に伝来したと考えられます。また、現代の日本書紀の研究からその内容において『詩経』・『書経』・『礼記』・『春秋左氏伝』・『孝経』・『論語』・『孟子』・『荀子』・『墨子』・『韓非子』・『管子』・『史記』・『文選』などの漢籍に載る言葉が散見されるとしますし、聖徳太子の『三教義疏』からは『勝鬘経』・『維摩経』・『法華経』の存在は確実です。特に万葉集巻五の作品群は多大に維摩経と法華経の影響を受けていますから、それらは万葉集では重要な書物の一つです。一方、漢籍名称は不明ですが神仙道教関係の書籍が道教僧と共に斉明天皇時代以前には日本に持ち込まれていたことは確実ですし、神仙道教に関連して中医書、特に内丹術関係書籍の伝来もしていたと考えます。およそ、網羅的ではありませんが、基本的な漢籍は初期万葉集の時代以前には日本に持ち込まれていたと考えます。
その具体的な例として、歌が詠われた時期が確定できる初期の柿本人麻呂の作品となる草壁皇子への挽歌の背景には神仙道教が確実にありますし、延喜式に載る祝詞もまた神仙道教と『史記』や『墨子』の影響を強く受けています。指摘しておきますが、天皇(大王)が自ら泥田に入り農作物を育て、神に奉げると云う発想は史記と墨子の世界です。中国や朝鮮半島が最も重要視した『論語』に代表される身分と労働を厳格に区分する儒教からの帝王学には無い世界です。
今回の記事の最初に人麻呂の歌には文選李善注や遊仙窟の姿が無いとし、そこから人麻呂の漢籍への読解能力を疑う解説を紹介しました。しかし、結局は、そのような説を唱える人物は漢籍日本へ到来した時代認識が不足しており、同時に語句検索の方法論が対象とする人物や時代に対して相応しくなかったと云うことではないでしょうか。それはちょうど白氏文集の語句を使い、懐風藻の研究をするようなものです。人麻呂の時代、漢字漢文が人々の間に広まり、また、日本語表記である万葉仮名の文字の整備が進んだ時代です。つまり、文字文学黎明期と考えてもよい時代です。そのような時代に教養階級は漢字漢文と万葉仮名文字が自由自在であり、文選李善注や遊仙窟は必須であったと暗黙下に仮定する研究態度とは、いかがなものでしょうか。
他方、逆な視線で時代を眺めますと、万葉仮名が不整備な時代、日本に到来した全ての漢籍は中国語原本そのままの姿です。訓点付けはありません。つまり、人麻呂時代、漢字漢文が自由自在でなければ書籍は読めませんし、歌を詠い記録することもできません。最初に紹介しましたような専門家の想いとは違い、万葉集は漢語と万葉仮名と云う漢字だけで表記された歌集であって、現代の万葉集専門家が使う校本版の「漢字ひらがな交じり」表記でのものではありません。およそ、語句の由来を漢籍に見る作業以前に、万葉集原文での使われる一字一字の文字に対し説文字解により研究するのが先なのです。使われる文字を単なる音字として扱うには時代が早すぎます。人麻呂の作品に文選李善注や遊仙窟に共通する語句が無いと云うことがそのままに人麻呂が漢字漢文を読めなかったとの推定を補強したり、裏付けたりするものでもありません。その種の書籍が伝来していなかったとの推定を補強するだけです。
ここでの例題参考として柿本人麻呂が詠う草壁皇子の挽歌の背景には神仙道教の姿があることについて紹介しますと、「天つ水」と詠う挽歌はまず中臣寿詞の世界を引用します。その中臣寿詞は神仙道教の下元水官大帝の神聖な水と登仙思想を引用し、天上の神聖な御井と地上の御井との関係を明らかにします。この思想の流れから人麻呂時代には神仙道教が存在していたことが確認出来ます。参考に延喜式祝詞に「東文忌寸部献横刀時咒」が載せられ、この祝詞では「「謹請、皇天上帝・三極大君・日月星辰・八方諸神・司命司籍・左東王父・右西王母・五方五帝」と道教の神々への呼びかけがあります。この中の三極大君が上元天官大帝、中元地官大帝、下元水官大帝を意味し、この下元水官大帝が天界や地界のすべての水に関わるものごとを扱うのです。ただ、この神仙道教は今日の正規の学問の対象ではありませんから、国文学の専門家にとって神仙道教は学問的に存在しない世界です。ただ、神道により葬儀が行われていたことになっている草壁皇子の挽歌に神仙道教がはっきり存在すること、また、神道祝詞の中臣寿詞の神仙道教の影響が見られることは国家神道の成立では重要な意味を持ちます。
万葉集巻二 集歌167
原文 日並皇子尊殯宮之時、柿本朝臣人麿作歌一首より抜粋
原文 四方之人乃 大船之 思憑而 天水 仰而待尓
訓読 四方し人の 大船し 思ひ憑みに 天つ水 仰ぎに待つに
私訳 皇子が御統治なされる国のすべての人は、大船のように思い信頼して、大嘗祭を行う天の水を天を仰いで待っていると、
引用先の祝詞
中臣寿詞より抜粋
原文 天玉櫛事依奉 此玉櫛刺立 自夕日至朝日照 天都詔刀太諸刀言以告 如此告。麻知弱蒜由都五百篁生出 自其下天八井出 此持 天都水所聞食事依奉。
訓読 天の玉櫛(たまくし)を事依(ことよ)し奉(まつ)りて、此の玉櫛を刺立て、夕日より朝日照るに至るまで、天つ詔(のり)との太詔(ふとのり)と言(ごと)を以て告(の)れ。此に告らば、麻知(まち)は弱蒜(わかひる)に斎(ゆ)つ五百(いほ)篁(たかむら)生(お)ひ出でむ。其の下より天の八井(やゐ)出でむ。此を持ちて、天つ水と聞こし食せと、事依し奉りき。
私訳 神聖な玉串の神意をお授けになって、「この玉串を刺し立てて、夕日の沈むときから朝日の刺し照るときまで、中臣連の遠祖の天児屋命の祝詞と忌部首の遠祖の太玉命の祝詞を、声を挙げて申し上げなさい。そのように祝詞を申し上げれば、トで顕れる場所には若い野蒜と神聖な沢山の真竹の子が生えて出ている。その下から神聖な天の八井が湧き出るでしょう。これを持って、天つ水と思いなさい」と神意をお授けになった。
最後に雑談です。
今回に示しました「白龜元年調布」の言葉は長安で遣唐大使多治比県守の承認の下、阿倍仲麻呂たちにより選定され、鴻臚寺に掲げられたものと思われます。しかしながら、この言葉が意味するものは従来の日中交流での日本側の「日中は対等である」との基本的立場の原則を根本から変えるものです。従って、この対応は現地での全権を握るとは云え、遣唐大使多治比県守の一存では無かったと考えます。およそ、第八次遣唐使の派遣段階から大和朝廷の意思は膝を屈してでも先端技術・文化の導入と学問の教えを請うと云うものだったと想像します。その朝廷の意思により四船団557人もの大派遣団が編成されたのでしょうし、当時の天下の秀才である阿倍仲麻呂、吉備真備、井真成、玄昉たちが選抜されたのでしょう。また、その大和朝廷の下した決定を大唐もまた「善」としたと思われます。
では、誰がこのような外交原則の大転換を行ったのでしょうか。個人の想像ですが、長屋王と思いますし、彼以外では出来ない重大な決断と思います。不思議に養老から神亀の間、この時代の外交は非常に功利的です。名より実をとり、大唐、新羅、渤海などとは非常に友好な関係が築かれています。その結果が長安の市中から「盡市文籍」と云う言葉を生まれたような古代に於いては知識略奪に等しい相手国での書籍の大量収集だったと考えられます。また、この功利主義の結果が大唐への遣唐使ルートにおいて対馬海峡を横断し、朝鮮半島西沿岸沖合から「呉唐之路」と言う海上ルートに乗って、蘇州沖合に達する新羅船と同じ安全なルートの選択を可能にしたと想像します。「呉唐之路」が示すように春と秋であれば九州の平戸・五島列島方面から対馬海流を横切り済州島北方海域から東シナ海に出れば、大陸東岸に達する対馬海流反流と北東の風に乗ることが出来ます。
この航路は名分を重んじた天平年間以降とは大きく違います。長屋王がクーデターで殺害・排除された天平年間以降は新羅との関係は悪化し、そのために大唐への遣唐使ルートは済州島や朝鮮半島沿岸に近づくことが出来なくなり、済州島まで北上して古代からの「呉唐之路」と言う海上ルートに乗ることなく、その手前、平戸方面から運を天に任せるような対馬海流に逆らい、また、対馬海流の流れに沿う西からの逆風を受けての東シナ海直行ルートを選択するようになります。対馬海流に逆らい、逆風ですから、当然、木造帆船には危険な波浪が立ちます。
参考資料
旧唐書 日本伝、長安三年(703)より
長安三年、其大臣朝臣真人来貢方物。朝臣真人者、猶中國戸部尚書、冠進德冠。其頂為花、分而四散。身服紫袍、以帛為腰帶。真人好讀經史、解屬文、容止温雅。則天宴之於麟德殿、授司膳卿、放還本國。
旧唐書 日本伝、開元五年(717)より
開元初、又遣使来朝。因請儒士授經、詔四門助教趙玄默就鴻臚寺教之。乃遺玄默闊幅布以為束修之禮、題云白龜元年調布。人亦疑其偽。所得錫賚、盡市文籍、泛海而還。其偏使朝臣仲滿慕中國之風、因留不去、改姓名為朝衡、仕歴左補闕、儀王友。衡留京師五十年、好書籍、放歸郷、逗留不去。
冊府元亀170 帝王部 來遠、開元五年(717)より
唐玄宗開元五年十月乙酉、鴻臚寺奏、日本国便請、謁孔子廟堂、礼拝寺観。従之。
冊府元亀974 外臣部 褒異、開元五年(717)より
唐玄宗開元五年十月乙酉、鴻臚寺奏、日本国便請、謁孔子廟堂、礼拝寺観。従之。仍令州県金吾相知、検校溺捉、示之以整応、須作市買。非違禁入蕃者、亦容之。
四門助教について、四門学とは中国大学教育機関の一つであり、助教はその機関の助教授。中国の教育制度では国士監の下に総合古典教養を教育する機関として大学があり、出身身分ごとに国子学(身分三品以上)、太学(身分五品以上)、四門学(身分七品以上または身分を問わず選抜試験合格者である俊士)の教育機関で教育を受けた。他に専門教科の教育機関として律学、算学、書学があった。総合古典教養のカリキュラムには九経(易経・書経・詩経・周礼・儀礼・礼記・春秋左氏伝・春秋公羊伝・春秋穀梁伝)があった。