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介護と私

私は今介護士をしている。
もう介護業界に入って12年位になる。
私は大学を工学部機械工学科で卒業し製造業に就職したが、別の作品で触れた通り紆余曲折あって40歳から介護を始めた。

介護を始めた理由は、当時私は製造業にうんざりしており自分が続けられそうでなおかつ家から通える範囲内にたくさんの事業所があり、年齢を重ねても再就職しやすそうな仕事という極めて現実的なものであった。

介護を始めるに当たって、私は工場の仕事をしながら、週末に介護の学校に通い当時まだ存在したヘルパー二級という介護初心者がまず始めに取る資格を取得した。

全く介護の経験が無かった私は、学校で座学で知識を学び、同じ教室で学ぶ様々な年齢の同級生とロールプレイングして移乗やオムツ交換、食事介助などの基本を学ぶのはとても楽しかった。


私自身は15歳で母は亡くなっていたし、祖父母も大学卒業までに亡くなっていたので、家族を介護した経験もなく高齢者の介助をする機会も無かったので全てが新鮮だった。

結局実習を合わせると半年くらいかけて私はヘルパー二級の資格をとった。そして職安で仕事を探し、2月から開設する新しい介護施設の面接を受け、そこに就職した。

新しい職場は複合介護施設という名称で一階が産直市場、2階がショートステイとデイサービス、3階から上がサービス付き高齢者住宅になっていた。私は2階のショートステイに所属していた。

ショートステイとは自宅で介護をしていて、家族が旅行に行ったり介護の疲れを癒す為に比較的短い期間(最短は1日)施設に高齢者を預ける目的の施設だ。まぁそれは建前というか本来のショートステイとして使用している人は半分もいなくて、半分以上はロング(ショートステイのロングとはなんぞや?と思うかもしれないが)と言って何ヶ月も同じ人が利用し続けるのが実態である。
ショートステイを利用できる最長は1ヶ月なのだが30日を超える前に1日だけ退所(書類上だけでも)すれば、何ヶ月も施設で生活し続けられるというものだ。

本当は家でもう介護できなくて特別養護老人ホームに入所を希望しているんだけど順番待ちや要介護3に満たない人(特養に入れるのは要介護3以上である)がロングで利用しているのが実態であった。

私は最初ショートステイなら比較的介護経験の浅い自分でも何とかやれるのではないかと考え就職したのだが、私の入ったショートは少し特殊だった。
事業所の同系列の病院を退院はしたけど家では介護出来ない医療依存度の高い人の受け皿として作られたショートステイだったのだ。
毎食毎にインシュリン注射が必要な1型の糖尿病の人や24時間痰の吸引が必要な人、人工透析を受けていて週一回病院で透析を受けなければいけない人、経管栄養といって口から食事が摂れなくてお腹や鼻からチューブで栄養を流し込んでいる人、肺機能が落ちていて常時酸素吸入が必要な人などなど、いわゆる大変な方々が常に入所していた。
私のいたショートステイは満床で38床であり、常に35名前後の利用者が入所されていた。

介護初心者の私は、なんて所に来てしまったんだと思いながら、日々悪戦苦闘しながら仕事を覚えた。通常のショートステイは夜勤は介護2人で行うのだがそのショートでは介護士1人、看護師1人の夜勤であった。24時間看護師が居て医療依存度が高い方に対応できるというのが売りだったのだ。

それはつまり、介護士からすると非常に心強いのだが、オムツ交換や食事介助など介護士がメインでやる仕事をほぼ1人でこなさなくてはならないので簡単に言うとめちゃくちゃハードな仕事だった。


なにせそこが初めての介護現場だったので、こういうものかーやばいなーと思いながら働いていたが、後にそのショートが相当特殊な場所だったと知ったのだった。入所者の平均介護度は4.7で限りなく重い方が常に30名近く在籍していた。
仕事は凄く大変だったが、そういう環境でやっていたので、どんな重い病気の人を見ても全く驚かなくなった。
重度の認知症の方も常に入所されていて、噛みつこうとしたり殴りかかってこられたことも何度もあった。

なんだかんだそこで4年働き、私は色々な高齢者を見てきた。途中で喀痰吸引という資格が介護士に認められ、私がいた事業所で実習もできたので、当然のように半強制的に喀痰吸引の一号という、口や鼻、気管カニューレからの吸引ができる資格を取らされた。何故ならその資格が無いと夜勤中に吸引が必要な時に相方の看護師に頼まなくてはならないからである。少しでも看護師の負担を減らす目的であった。
利用者の口や鼻にチューブを入れて痰を吸引するというのは最初は凄く恐いのだが何百回と続けていると今では何の躊躇いもなく吸引をするようになった。

そのショートに4年いた後に私は介護福祉士の資格を取得した。介護福祉士の資格は介護の専門学校や大学を卒業するか介護現場で3年以上働くと受験資格が得られる。その資格をとってすぐ同じ事業所が経営する老健に異動する話があり、その時まだ正職員でなかった私は少しでも早く正職員になる為だと思い手を上げた。

最初の職場から歩いて5分くらいの所にある老健に私は異動した。そこで私は初めて介護現場の負の面を見ることになった。
老健は基本的に病院を退院したがまだ在宅に戻れない方が入所して、リハビリなど行って究極的には自宅に戻るのが目的とされている。目的とされているが実際にはほとんどの方が家には戻れず施設で過ごすことになる。

特養と違うのは、医師が必ず1人在籍することが義務付けられており、比較的自分で動ける方が多いという事だ。
介護の仕事的には今までいたショートステイと大した違いはなかったが、私が配属されたフロアには女性職員ばかり(ほとんどが私より年上のおばちゃんだった)で、正直彼女たちは女性に来て欲しかったのだろうという雰囲気がぷんぷんしていた。
私のような40を過ぎてから介護を始めたようなおじさんはいらなかったようだった。

私はあからさまに無視されるようになり、仕事以外の会話はほぼしない毎日が続いた。それでも私は黙々と仕事をしたのだが、その施設の介護主任が私より少し年上の女性だったのだが、それがものすごく感じの悪い人で、自分のお気に入りにはニコニコ話しかけるが、気に入らない人間は無視して、挙句には施設から追い出すという高圧的な人間だった。
私はその老健で半年働いたが、その主任から嫌われたのか次は小規模多機能型居宅介護事業所に行ってほしいと言い渡された。

老健でのそんな仕打ちに私はすっかり精神的にまいってしまっていた。介護施設では往々にしてあるのだが、中年女性が権力を握っていて、自分たちの好き嫌いで職員をレッテル分けして人により
対応を変える場合があるのだ。
介護現場ばかりではないだろうが、特に介護には20年以上のキャリアがあり職場で強い発言権を持つおばちゃんが多くいるのだ。

次に私が異動した小規模多機能型居宅介護事業所という長ったらしい名前の職場では、最初にショートステイで上司だった私より年下の女性が主任を勤めていたし、最初の施設の同じフロアにあったデイサービスで相談員をしていた顔見知りの男性職員もいた。

老健ですっかり自分に自信をなくしていた私は、彼らやそこにいたわたしより年長のベテラン女性職員の励ましによって徐々に明るい心を取り戻していった。
その女性は「あなたは素晴らしい仕事をしている。立派にやっている。自信を持ちなさい」とわたしを励ましてくれた。その時の言葉は今でも私の心の中で雲間から射す太陽の光のようにかがやいている。

小規模多機能の仕事は、一口で表すのが難しい内容だ。施設に通いで来ている利用者がいれば、泊まりで利用する利用者もいて、こちらから弁当を持って家まで行き、バイタルチェックや掃除、洗濯をして帰ってくるサービスを受けている利用者もいた。

デイサービスとショートステイと訪問介護が一緒になったような施設だ。
通いや泊まりの利用者には食事も提供するが、ご飯を作るのも職員のしごとである。食事当番になると、ご飯を炊き冷蔵庫にある食材でおかずを作り提供していた。
泊まりや通いの利用者はお風呂にも入るので入浴介助もしていた。通いの利用者を送迎するのも仕事だったし、契約している利用者の家まで車で行き、お弁当を届けて安全確認や、部屋の掃除、洗濯、ゴミ出しなども仕事であった。

私はここでありとあらゆる形の介護を経験した。
正直、知らない他人の家に初めて行って介護をするのは最初恐怖でしかなかったが、人間なんでもなれるものである。ボロボロの畳が抜けそうな家でお弁当を温めている自分に何の違和感も感じなくなっていった。

一度、私が訪問を担当した男性高齢者の家に行ったとき彼は床に倒れていて熱を測ると39度あり、救急車を呼んで病院まで救急車に乗って付き添い、入院の手続きをして施設に帰った事もあった。

そんな毎日を送っていたが、私はいよいよ生活が厳しくなっていき、その事業所の給料ではたとえ正職員になったとしても暮らしていけないくらいだったので、私はそれまでいた法人から出て、別の法人が運営する特養に転職した。

その法人は、小規模多機能で一緒だった男性職員の前の職場であり、ある程度の情報をもらってから応募したのだった。「体はきついけど、給料はここよりだいぶ良いよ」的な内容を教えてもらい、薄給で家族に迷惑をかけ続けていた私は転職を決心した。

特別養護老人ホームは今までやっていた在宅介護とは違い、入所者は基本的に住所を特養の住所に変更して完全に亡くなるまでその場所で過ごす目的の施設だ。

入所者は3食を共有のフロアで食べ週2回入浴する。大体月に一回行事があり、みんなで集まって楽しんでもらうというのが基本的な流れだ。

私の入った特養は、最近では珍しくなった従来型のものであり、一つのフロアに40〜50人くらいの利用者が居て、それを早番2〜3名、遅番2〜3名、夜勤2名で回している。
ほとんどの方は毎食ごとにベッドから車椅子へ移乗があるので、それだけでも相当な重労働だ。
今までの職場では食事介助を多くても同時に3人位までみていたが、ここでは最高で7人位同時に食事介助をする事もざらにある。
最初私はこの施設の食事介助を見た時、職員が立ったまま同時に大人数の利用者を介助しているのを見て、衝撃を受けたのだが今では当たり前のものになった。

風呂も現在は全ての利用者を入浴用のストレッチャーに載せて湯船が下から上がってきて利用者をお湯に浸けるタイプの特殊機械浴なので、お風呂が終わるともうへとへとである。

夜勤の時は、常にだれかが熱発していないか、皮膚状態に異常はないか、多動でベッドから落ちたりしていないかなど注意しながら夕方5時から明る日の午前10時まで仕事をしている。

今でこそやっと落ち着いたが、コロナが流行っていた4年前から一昨年くらいまでは利用者に大流行して職員も大半感染し、感染しなかった私を含めて少数の職員が24時間勤務でなんとか乗り切った事もあった。

このように色々な事を経験しながら今の職場でもうすぐ8年目をむかえようとしている。
介護を始めた時は妻に反対され、呆れられていたが、最近やっとお父さんはこの仕事でよかったねと言ってくれるようにもなった。
介護を始めた時、まだ小学校低学年だった息子が「お父さんは前は鉄板を切ってたかっこいいお父さんだったのに、今はお年寄りのオムツ替えてるカッコ悪いお父さんになってしまった」と言った時があり、凄くその時はこたえた。
子供にとってはなぜ父親が急に介護を始めたのか理解できなかったのだろう。
今になっても家族に対して、自分のわがままで介護の道に進んで迷惑をかけてしまい本当に申し訳なかったと思っている。

だが、自分としてはこの職業を選んで良かったと思っているしこのまま定年まで続けていけると思っている。

私は今まで、誰かの介護をしてきたのではなく、自分の間違った行いを償うために、他人を助けようとしてきただけなのかもしれない。




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