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大切なことは答えではなく、問いを求め続ける姿勢にある。

昨晩は朝の6時ごろまで起きていたので、眠気がまだ残る。
兄もまだ寝ているので、もう少し寝ようか考える。

というのも、今日まず5areのオーナーに土地を買うか買わないかの、最終的な答えを出して彼らとミーティングをする必要があるからだ。

久々の雨。なぜか心地が良い。
このインドネシアのバリの離島である Trawangan島は、なぜか雨があまり降らない常夏の島だ。

いつもの250円の鶏肉ご飯を、兄と目の前のレストランで食べた。食後の一服はとても良い。

コーヒーを入れて兄に頼まれたゆで卵を作る。
この近くの島のロンボク島のコーヒーは名産品で、とてもほっとする優しい味がする。

最高に贅沢なひととき。気分がとても良い。

少し後で運動をして引き続き土地を探そうと思う。
まだ見ていないサイトもあるかもしれない。
それか新しい土地やホテルが新たに出てきている可能性だってある。
とにもかくにもそれを探して続ける。
やることを毎日やっていく。一つでも。

その初心を大切にするのに、こうやって書く事はとても役立ってくれている。

最近コーヒーを飲むと少しお腹がキュルキュルとする。
だがそれでもまだ気分は良い。
人は良い気分だと何事も積極的に挑もうとする。

だがある人の意見によっては気分などに頼らず、自己の運命に真正面から体当たりするべきだと言う人もいる。
私が様々な本を読む中でそういう人もいた。
がむしゃらに運命に体当たりするというのは明確かつシンプルで聞こえが良いが、そのやり方だって人によっては色々ある。
こうやってものを毎日書いて、毎日自分の行動を俯瞰し、省みながら着実に進んでいくのも一つの体当たりした、真っ当な生き方だ。

ー当時私はその人の本や生き方に心酔しきっていた。
とにかく目の前の物事に体当たりせよと。
精神が崩れるまでやれと。
彼は武士道を、特に葉隠を信奉していた。

そして私は彼にものすごく憧れた。
だからその人のように、彼のように生きようと生活の中で彼の考えや、生き方を無茶苦茶に真似をした。
いくつかの仕事での課題を解消するために何日か仕事場に泊まり込みで働いたり、空いているすべての時間は本を読んだり、文字通りすべての時間をそれに費やした。

その慣れない生き方をしたせいか、私は二六歳の時、幻覚や妄想を始めとしたものすごい症状に襲われた結果、私はお医者さんに統合失調症と診断された。

その経験も無駄ではなく自己の生活を省みて、
それからいろいろあって四年の月日が流れた。
そして今私はインドネシアで新規の事業としてホテルの経営をしようとしている。

今にして思うのは人はどんな生き方をしてもいい。ただ人の人生は各固有のもので特定の正解なんてない。
だからこそ特定の良い部分を少しづつ学ぶことは良いことだと思う。

だが過去の私のように誰かの人生をまるきり真似をしたり、誰かの人生における信念を真似ようと思っても、そう長くは続かないものだ。

だからこそ私は今自分にとって固有の物語や、
かっこ悪くても私にとって心からの言葉を、こうしてここに連ねている。

今から昔の私、つまり22歳から30歳までの、あの自分の生き方を暗中模索してあがき読んできた、1000冊近い本は無駄ではなかったと思う。

当時私は人生において正解を求めていた。
愚直かつ無垢な私は人生の正解のようなものを当時目の前にあった、パチンコ屋のアルバイトの仕事や目先の金銭を得ること、社会的な地位に、それらを見出すことができなかった。

もしかしたらそれを上手く得られないから、
酸っぱいぶどうの話のようにそれらが思うように手に入らないからこそ、それを毛嫌いしていた部分もあるかもしれない。

とにかく私はより真なるもの、魂の糧になるものを、ただひたすらに求め、ただ本を読み続けた。
そうすれば人格はより良いものになり、おのずから私にとって本当の真実らしい何かを得られると思っていた。

ひたすらの読書の日々得た知識や感想を、こうやって書いたり、外にすることさえしなかった。
なぜなら私のような若造の意見など、誰も求めていないと決め込み、ただ社会の理想と言われたる過去の偉人といわれた人たちが求めたるところを純粋に求めた。
ひたすらに社会の理想という枠に自分をあてがった。

もしかしたらそれらの本の知識や思いを、内側に詰め込みすぎて限界が来たのもあったかもしれない。
そして26歳の時、幻覚や妄想など私の現実にあるはずのない、非現実的なに何かが割り込んだのかもしれない。

どちらにせよ、私が解釈した過去の文学の意見はだいたいこんなものだった。

私たちが見出したこの世の真実としての意見はこうだ。
だからあなたはあなた自身の真実を見出せ。

あなたが主人公としての人生の物語で、
あなたが今、ここ目の前を本気で生き、
その些細な生活の中で崇高なるものを追求して、今いるあなたの位置であなた自身の真実を見出せ。


そう私が彼らの中に真実を求めたように、彼らもまたそれを求めて、文学と言う荒野の中でそう叫んでいた。

私はいまだに真実は何かわかっていない。

でも一つ言える事は真実とは固定された何かではなく、もっと流動的で触るとそれは反応して動くような、まるで生き物のようなものだ。

だから過去の偉人たちは、物語と言うより広く、自由かつ流動的でわかりやすい文学などで、
それら真実の陰影らしきものを描こうとした。


そしてそれは答えではなく、偉大なる一つの問いである。

そしてそれらの答えは、私たち自身が私たちの人生を通して見つける必要がある。
だから偉大なる文学は、私たち個人個人の生き方の細部にまで疑問を呈し、強く訴えかけてくる。

あなたの生き方は愛からできているものか?
それともただの自己の快楽や、貪り、上部だけのものを追った、邪なものなのか?
それを問われ続ける。

そして私たちはそれらの偉大なる文学を読むことによって、より偉大なる問いに導かれ、そしてその問いも、またそれをさらに偉大なる新たな問に分かれていく。

それはまるで切れば切るほど増えるヒュドラの首の如く、二つが四つ。四つが八つと、無限に増えていく。

確か三島由紀夫の言葉で良い文学と言うのは、いかにこの世が不合理で理不尽かあの手この手を使って嫌と言うほど示して、私たちをその絶望の淵まで連れてって行ってくれる。
宗教はその先の答えをポンと渡してくれるが、
良い文学と言うのはその淵にあなたを連れてきた挙句、そこにあなたを置いてけぼりにしてどこかへ行ってしまう。

そんなような言葉があった。
それはそういった本当に人生における大きく大切な問題は、あなたの人生を通して長い月日をかけて徐々に肚に落ちてゆくような性質のものだからだ。

あなたの真実を、あなたの人生で見つける必要がある。

それは愛とは何か?信とは何か?
義とはなにか、そして本当の友情とは何かといったことだ。

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