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私とは何かではなく、何が私か。

ただ1人歩むことを知った者は、逆説的であるが人の中でも一角の人間として生きることができる。
何故なら彼らは人の評価を気にしない。

それは時として彼らが人に気を使っているように思えることでも、それは彼らにとっての習慣の内の一つであり、いわば条件反射のようなものである。

彼らは結果としてその生の中で、
かなしみという川に削られて、優しさという谷を人々に残す。

優しさという言葉は「人を憂う」という気持ちから成る。
そして憂うとは、百回相手が間違えようともそれを受け止める気概からなる。

そしてそれらは他の事物への、おもいやりからできている。
そしておもいやりは相手を自分の命より尊び、愛するという気持ちからできている。

ではその愛はどこからくるのだろうか。
実は愛はどこから生まれてくるのか、ということではない。

愛より我々は生まれてきた。
だからそれは各文化に深く刻まれて、
多種多様な表現の仕方をされている。

そう言った大きな勘違いが世の中には沢山ある。

たとえば現代人が落ち込みがちな最大の誤謬は、私とは何かと考えることだ。
そこにあるのは虚無であり、歪んだ自我と虚な空白だ。

そうではなく社会や文化こそが主体であり、
客体にあるのが我々なのだ。

私とは何かではなく、何が私が
それを一つ決めることが肚ですることであり、
覚悟だ。 
覚悟こそが幸せをもたらす。
一つ手に入れたら、一つ捨てる。

人生意気に感ずる、功銘また誰か復論せん。
魏徴



そしてその意気込みこそが、我々が死んでもただ一つ残ることだ。

魚は死んだら尾を残す。だから一尾と数える。
大型の動物は一頭、二頭。

人は何というか?
一名、二名
そう我々が死んで残るものは名、つまり名前なのだ。

金や富、名声でもそれは少しは残るかもしれない。

だが世界の文化や本を見ていても、本当に世代を超えて残っているのは、清廉な気持ちや気概といった文化的なものだ。

俺はそういったものに連なりたい。

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