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【50歳の転職】アラフィフ転職・番外編⑫★人生の転機は必然!どちらに転んでも吉★
人生の不思議な転機①スーパーと間違えて就職してしまった不運
大学4年生の時の話です。新卒の就職活動では、大学で学んだ専門でもあった「流通小売業(その中でも不況に強いスーパーマーケット事業:当時は平成不況真っ只中でした)」で働きたいという方向性は見えていました。
いろいろ検討する中で、地元に根を張り収益性も良い「とある地域生協」に就職することに決めました。
就職活動の過程で知ったのは、生協は店舗事業(スーパーマーケット事業)も行っているものの、実は主力事業はコープ商品をご自宅や班にお届けする食品”配達”業でした。
しかし、社内で熱い思いを語り希望すればいずれ店舗事業で働くことができるだろうという軽い考えで入りました。実際、面接でも大学で研究した小売業への見識なども話し、店舗事業へ希望を強く訴えました。
しかし・・配属されたのは「配達事業(共同購入事業と言います)」。
トラックに乗って、自分が担当する地域の組合員さんへコープ商品を届ける毎日が始まりました。
何というミステイク!!そう強く思いました。
新卒の1年、2年はとても大切な時期、同年代で同業界の人たちに追いつけない程の周回遅れになるのではないか・・・という不安がよぎりました。
しかしそれは間違いでした。毎日、商品を手から手へとお届けすることで、組合員さんからの感謝の言葉をいつももらうことができ、地域に貢献する実感を持つことができました。また「この商品、〇〇でとっても美味しいんよ」という、まさにお客様がその商品をどう美味しいと思っているのか直接コミュニケーションできる小売業の神髄を知る、又と無い機会となりました。
しかも生協のお兄さんは地域の人気者でした。とある個人病院の班では「ケーキがあるから食べていって」と言われ、若い看護士さんたちと一緒にケーキを食べたり、一人暮らしでちゃんとご飯食べてる?と世話好きの組合員さん宅で夕食をご馳走になったり、トラックが来たら子供たちがジャンプしながら喜んで迎えてくれる、街全体が自分の家族のような、そんな幸せに満ちた毎日でした。
しかも、それから約20年後(45歳の時)にスーパーマーケット企業で「未来型ネットスーパー事業」を担当することとなり宅配事業に返り咲くこととなります。
日本において、広範囲で事業展開する食品宅配事業で黒字化しているのは生協だけです。
その仕組みを身をもって経験しているということは、貴重なものとなっていました。人生の長いスパンで見ると決して”ミステイク”ではなく奇跡的な運命の出会いだったのです。
これは実話です。
神様がプランニングしてくれていたとしか思えません。
人生の不思議な転機②ベーカリー部門への異動となる不運
これは30歳の時の話ですが、20代に上場一部のショッピングセンター惣菜部門で働き日本最先端の惣菜経験を獲得し、地元県の食品スーパーマーケットへ転職した時の話です。
転職活動では十二分に前職での実績をアピールし、見事、惣菜部門へ配属していただき水を得た魚の様に働き始めて3カ月。このまま実績を積み重ねていこうと思っていた矢先、人事部へ呼ばれました。
呼んだ方は私を採用することを決めていただいた人事課長。
「今度、わが社でベーカリー事業をスタートすることになったから、その立ち上げを担当してほしい」という話でした。
正直・・・いよいよこれからという大切な時期。会社にも慣れてきてアクセルを全開に踏み込もうとしていた時でした。
「何故今??やっと慣れて、これから活躍という大切な時に・・・正直断りたい、断りたい、断りたい!!!」というのが本音でした。
でも、自分を採用してくれた方にNoと言うことは、やはり口が裂けても言えませんでした。ああ、なんという不運。自分はここでパン屋さんとして終わるのかもしれない・・・
それからパンメーカーの研修所でパン製造のイロハを学び、1店舗目の立ち上げの時に思ったのは、今まで惣菜部門では一日の売上が100万円もある基幹店で働いていたのですが、新規に展開した店舗のベーカリー部門で一日中パンを焼き続けて作れる売上は10万円がやっと・・・。悪い日は5万円の時もありました。
それもそのはず、単価100円のパンを1000個作って全部売り切ったとしても、そもそも10万円にしかならないのです。スーパーマーケットには”売上を作る”という楽しさがあり、その金額ステータスが自慢だったのですが、それが崩壊した瞬間でした。
大変な割にこの売上の低さは何なんだ・・・と。
しかしそんなベーカリー事業を担当し必死の思いで2年間で4店舗を立ち上げました。
結果としては、転職して右も左も分からず、知っている人もほとんどいない状況の中、ベーカリー部門の立ち上げを担当したことで、ベーカリーの”Masa-kun”と、私の存在が社内で多くの方に知っていただけるキッカケとなり、後にバイヤーへ抜擢されることへと繋がっていきました。
きっとあのまま惣菜部門で頑張っていただけでは、多くの担当者の中で埋もれてしまっていたようにも思いますし、パンを焼けるようになったり、サンドイッチやピザに詳しくなったりと人生がとても豊かになりました。その後ベーカリーバイヤーになり日本全国の有名パンを食べて商品開発するなど、結果として人事に呼ばれた時が人生を切り開いた分岐点であったことを知ることになります。
何度も言いますが、これは実話です。
神様がプランニングしてくれていたとしか思えません。
人生の不思議な転機③会社の上層部が変わり担当職を奪われた不運
これは5年位前の話です。
ネットスーパー事業の責任者をしていた私は、当時日本型のネットスーパーでは黒字化は不可能と言われており、自社も売上推移が芳しくない無い中、様々な施策を打ち、ようやく陽の目を見て、前年超えを果たし、その直後にコロナ禍によって宅配需要が急激に高まり、過去最大の売上を作ることに成功しました。
過去誰も達成したことのない売上を作り、ようやく未来型のネットスーパーに光明が差し込み始めたのです。私も仕事に手応えを感じ、充実感に満ち溢れてた時、
社内上層部でオーナーを後見人とする幹部Aさん主導で社内改革の第一歩として、他社からネットスーパーの専門家を招くことになったという一報が入りました。
何とその時、急転直下で過去最高の実績を出していた責任者の私を交代させるトップ人事が発令されたのです。
「一体何が起こったのか?どん底の事業を引き上げ過去最高の売上にした矢先に・・・」
これから一番おいしい収穫の時期に、外部からの専門家??
この時ばかりは私にも「屈辱」という一文字が脳裏に浮かびました。正直、納得できないというのが本音でした。周りからは同情の眼差しが向けられ、47歳を過ぎた私は仕事の方向性を見失ってしまいました。これからどうして行けば良いのだろう・・。
それから新しく配属されたのが、本社のマーケティングを司る部署であり、店舗や事業所ではできない仕事を多く担当することとなりました。例えば、ECを活用した新規事業や役所からの請負事業、大学からの委託事業など、窓口となりそれぞれの事業を軌道にのせることに成功したのです。
これは、転職時の経歴として、これからのスーパーマーケットが店舗事業だけではなく、それ以外のチャネルを使って事業を展開していかねばならない環境の中、先駆ける実務者として他者と差別化できるものとなり、今となっては結果的にアラフィフ転職へ至る過程の中で必然であったように感じています。
自分のポジションが無くならなければ、新しい挑戦もできなかったのです。
昨年、49歳でアラフィフ転職を果たすこととなりましたが、この大きな人生の流れの中で担当職を追われなければ、50歳前に転職はできなかったと思います(もっと遅くなっていた、或いは機を逸して転職が失敗した)。
そう考えると、まさにこの交代劇も私の人生にとって不可欠な要素ということになります。
屈辱の交代劇すら今に導く伏線であり、結果、回収されることになりました。
何度も言いますが、これは実話です。
神様がプランニングしてくれていたとしか思えません。
人生の転機は必然、どちらに転ぼうが結果は吉へ。人生を愉しもう!
そう考えると、自分がこっちと確信的に思っても、違う時には強制的に方向が変えられると思ってまず間違いありません。
明日に「えー、そんな殺生なー!」と思うことが起こっても、実は、その変化を受け入れて行動すれば、最終的に成功する「伏線」でしかありません。
何年、何十年という大きな時間軸で見た時にその意味が初めてわかるのです。
これまでの社会人人生を振り返っても、自分で行き先を決めていると思っても、強制的に方向点させられていたり、絶望に突き落とされたりしながら、必要な遠回りを経由して、自分がやるべきことに辿り着いているというのが私の発見です。
私の想い至った答えは「何が起こっても焦るべからず!安心して人生を歩めば自ずと行くべき地に辿り着けるから、人生を楽しもう」というものです。
もっと早く出世しなくっちゃとか、あの権力者に悪く思われてしまったと焦る必要なんてないのです。人生はかならず必然のゴールに着地するからです。
神様のプランニングを楽しみましょう!
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