「責任」と「無責任」と、わたしたち
ここ数週間、メディアはどれも自民党総裁候補に関するあれこれで持ち切りだ。いずれ出る結果によって果たしてこの毎日に何かしらの影響が起きるのだろうか?というありきたりな邪念が頭をもたげてくるのを柔らかく押さえつけながら、黙っていても流れ込んでくる関連情報を流し見したり少し真面目に読み込んだりする。
そういう邪念を押さえつけるのは、押さえつけねばという意識が私の中にあるからだという事実に、私は同時に気付いている。そもそも邪念と呼んでいる時点でそれがあまり褒められた発想ではないことを自覚しているわけで、ではなぜ褒められないのかと言えば、それは多分、某態度が一般的に「無責任」と呼ばれる代物だから。
今の制度になってからは最多という候補者たちが、自分のポリシーを書いたフリップを胸の前に掲げて一列に並んだところを撮った写真がXか何かで流れてきたのを見て、「大丈夫かな」と思った。書いてある内容そのものは勇ましくて綺麗で理想的で、そんなことは当たり前だから気にならなかった。その写真が目に留まったのは、そこに書きつけてあった文字そのものが揃いもそろって絶妙に下手くそだったからだ。
文字で人間性を判断するとかしないとかそういう占いじみた話をしたいのではない。ただ、あの一列に並べられた文字列を見てしまうとどうしても思わざるを得ない。この覇気のかけらもない文字列はなんだろう。
この国の政治は非常に平均年齢が高い。男女問わず高い。今回だって大半は60代以上だ。それを踏まえて、あのフリップを一つ一つ見てみるがいい。あれが、数十年という人生を経てかつ党総裁という重い仕事を背負おうと意気込む人が書いた字なのか?
こういう勝負では、そこに何が書いてあるか?やその人が何を言うか?という「中身」で判断させるし、するのが普通だ。でも、その「中身」があの「文字」で書かれたがゆえに、かえってその正体を自ら晒すことになった。私はあの写真を、「ポリシー=自分が選ばれるための化粧」でしかないことを図らずも暴露したというストーリーの風刺画に見立てて納得することにした。
でも、そう考えるといよいよ私たちは何を見せられているのか分からない。正直、与党総裁に選ばれれば確実にその人はこの国の歴史に名を刻むことができて、その栄誉に与ることができるならば政権寿命の長短や政策実現度の大小などは吹けば飛ぶような事項なのだろう。だとしたら、本来あのフリップに書かれるべきは「この国のトップに立ちたい」であり、多分これなら多少下手でももう少し堂々とした字体が整列するはずだ。
でも実際は彼らが書いているのはどこまで真剣に熱を込めているのか分からないポリシーで、その中には流行り言葉も巧みに用いられている。多様性、個性、だれもおいていかない取り残さない、誠実でクリーン、負担減、断行。類義語も対義語も混然一体となって、結果的になんでもやってくれそうな雰囲気になっている。誠実でクリーンな人は多分断行するのは難しいし、だれも取り残さないために個性が打ち消されることはざらにある。多様性は一定程度の衝突並びに負担への理解とセットで売り出さないといけない。でもそうは言わないまま、「責任感を持って取り組む」と繰り返す。この場合の責任とは、どれを指すのだろう。
私が思うに、ああいう場に立っている人間はそんなに大層な責任感など持っていない。クソ真面目に責任感などを背負ってしまっては、それこそ身が持たないのかもしれない。
分断が進んでいると言われて久しい現代社会において、これの解決が政治的にも大きな課題になっている。そして分断を助長している思想の代表例として取り沙汰されているのは、『自己責任論』-ここでも責任が顔を出す。
思うに、この思想が蔓延る理由の一つはあらゆる使い手にとって勝手が良いからだ。もっとシンプルに言うなら、コスパがいいから。
自分らしくいることや相手を思って過干渉を控えることが賢いと見なされる世の中であれば、それを逆手にとって誰かを孤立させることも容易い。むしろ今となっては前者は建前に過ぎなくて、人と関わることによって自分に起こりうる不都合やハプニングを極力排除したいというのが本音かもしれない。とすると、自己責任論というのは無感覚のままに他者に無責任になれる麻薬のようなものだ。人と関わること、それによって生じ得るいざこざ、求めていないのに毎日のように発生する事件、いつになったら解決されるか分からない課題。これら全てを誰かの自己責任にして視界から消し去ることができるなら、確かにこんなにコスパがいい話は無い。
こんな社会を変えたいと声を張り上げる字下手な政治家たちは、こんな種類の無責任に対して果たしてどこまで太刀打ちできるのだろう。
こんなことを書いている私自身はもちろん、そして残念ながら、一網打尽にできる解決策を持っていない。なので、せめてもの提案を。
一つ目。自己責任論ではなくて、自分勝手論に改称すること。
二つ目。候補者諸君はとりあえずペン字講座を必修にすること。
責任を英訳すると、「responsibility=応答力」。外に向かって応答する能力を持つこと。外部をはじき出すような思想とは真逆に位置するこの訳語が全てな気がするけれど。