光へ 〜サイキック整体について〜
サイキック整体と名乗ることにようやく慣れてきたかなぁという感じです。
おっかなびっくりで始めたことが今では名刺やHPを作り、全く知り合いじゃない方に、自分の施術を受けてもらうという、1年前では考えられないことが起きています。
そこで「サイキック整体」とはなんぞやということを改めてまとめたいと思います。
XなどのSNSで気になっている方や、どういう施術をするのか気になる方にも届けばいいなと思います。
まずこの施術の「核」となる部分をご紹介します。
・意識と無意識を「身体の症状」を通して繋げ、本来の自分に気づくキッカケとするもの。
・身体からの声である「症状」に意識を向けることで「自分」という存在を客観視できるもの。
・「ヒト」という生き物の仕組み(構造的な)は完璧であるということを「症状」という不都合を通して体感できるもの。
僕が行うのはあくまでも「かけ違えたボタン」を指摘したり「ズレた机」を戻したりといった程度のものです。
本来持っている「ヒト」という生き物の仕組みやパワーは自覚している以上にすごいものであるということを、症状という「不都合」を通して触れることができます。
そのためヒアリングをとても重要視しています。
いかにお客様の生の声を、僕の魂にインプットするかを大切にしてます。
知識や技術というフィルターを通して心身に相対すると、アクリル板1枚隔てたような感じになります。
身体や声から得られる情報の純度が落ち、その場における最然を尽くすことが難しくなりました。
五感をフルに使うのがサイキック整体なので、いかに、目の前のあなたから出ているあらゆる情報を、この身に受けるかということを非常に大切にしています。
施術は強く揉んだり押したりすることはありません。
僕が元々そういうのが嫌いだったのが大きいですが、ヒアリングと自身の五感から得られる感覚をもとに施術を進めることで、そういう強揉みが必要ないことがわかりました。
その代わりに「深層」へのアプローチはコミュニケーションの質と僕自身の「階層構造」というイメージやその他様々なイメージを用いてアプローチします。
というのも、こりや硬さが悪で、早くそれをなんとかしたい、なんとかしなきゃいけないと言う方がとても多く、僕にはそれが共感できなかったことが理由です。
硬くなるとは「守る」ことです。
身体は、「命を繋ぐ」ことが一番大切で、その命が脅かされるもの(ストレスとか物理的な何かとか)から守るために固めます。
今の社会において様々なストレスがありますが、当時はそのストレスの中で気張らなかったいけなかったり、環境的にどうしようもできなかったりと「仕方ない」事実がたくさんあります。
むしろあの時硬くできてたから今があるとさえ思います。
「よかったね〜、あの時ガチガチにしといて〜」って感じです。
でもこの施術を受けにきていただいたと言うことは、今までの頑張りや踏ん張りの中で培ってきたことやなんとかしていたことを「手離して良い」タイミングである可能性があるかもしれません。
ガチガチに固めていたものを施術という形でゆるめてあげない?
という身体からの提案かもしれません。
身体は言葉を使えないので、症状など何かしらの形で「五感」に訴えるように本人に気づかせようと工夫します。
これからは自分の人生のためにとか、やりたいことのためにとか、もっと楽しく生きたいだとか、そういう目的や理想のために、過去の経験でもう必要ないものを手離す必要があるかもしれません。
そう言う時にこのサイキック整体はキッカケになれると思います。
あとは、ただでさえ痛い思いしてるのに施術の時まで辛い思いする必要あるの?
とも思います。
施術を受けるより受けていない時間のほうが圧倒的に長い人生という旅の中で、僕の施術の時間はせいぜい90分〜120分。
それ以上に人生というものは続いていきます。
しかもこれからまた痛い経験をするかもしれないのにこの施術でもまた痛みを追加するって嫌だなって思ってます。
今まで頑張ってきたり、理解されなかったり。
痛い思いをたくさんしたり、辛かったりと様々な経験をされて今があると思います。
角が取れて丸い石になるみたいな話を聞きますよね。
あれって見方を変えると流水とかで「傷つけられて」最終的に「丸く」なってるんです。
「私」という存在の輪郭をはっきりさせるために経験という名の「傷」でどんどん必要ないところを削ぎ落とした、なんて考えられるかもしれないですね。
「傷」がなければ今のあなたはなかったかもしれないし、その「傷」があるからこそよかったこともあるだろうし。
僕は理解されないこと、傷つくこと、孤独だった経験というのはかなり自信があります。
今この瞬間もあるし、それはこれからずっと付き合っていくものだと思っています。
だから施術や僕のこの五感を活かして力になれることがあるのではと思ってます。
施術をやってたり自分を振り返って思うのは、
みんな思っている以上に「褒められてない」んです。
できて当たり前とか褒められるようなことしてないとか。
冗談抜きで、今日1日生きるのに全リソースを投じている人がたくさんいます。
そういう人に「褒められるようなことしたの?」って流石に酷だと思います。
僕なんて特に人より褒められたいのに全く褒められず、それどころか馬鹿にされることの方が多かったので、認めてもらうこと、ここに居ていいという許可への安堵は痛いほどわかります。
それでも傷つくことが怖くて自分から離れるみたいなことをする程度には拗れてたので、そういう傷、みたいな物には自分のも人のも敏感だと思います。
不幸中の幸いなのかなんなのかわかりませんが、ありがたいことに僕は変態でした。
死にたくなることとか、孤独感であるとか、とにかく寂しいとか、鬱っぽくてキツいとか、内観しすぎて吐きそうになるとか、そういうことに取り組むことが大好きだったんです。
痛みや傷に気づいた時の痛みってかなりきついんですけど、これに取り組むことがたまらなく好きだったんですよね。
でも他の人はそうじゃないと思うので、そういった負荷を、身体的な症状からアプローチすることでゆるめることができればなぁと思ってます。
僕は自分という存在の深淵と、ちょっと離れた友達程度の付き合いができる程度には濃く、長く向き合ってきました。
そういう認識があってかつ五感が鋭い人間が行う「サイキック整体」という施術は一般的なものと違って結構面白いと思います。
僕でも変われたから、なんてことは言いません。
多分僕はちょっと変わってます。
でも竹内晶貴という「個人」が重要なのではなく、同じ「ヒト」という事実こそが何よりも大切です。
「ヒト」の仕組みからこの世界の「構造」や願いのようなものを漠然と感じた時に、「みんな持っているものなんだ、だって同じヒトなのだから」と本気で思いました。
僕の施術は生まれてから後天的に育まれた「性格」へのアプローチではなく
「ヒト」という生き物に込められた「想い」や「仕組み」へのアプローチです。
これは発見したのではなく気づいただけです。
最初からあったものを見つけただけなので、偉くもなんともありません。
だからこそすごいんです。僕が編み出したものじゃないから。
仕組みとして備わっているものを施術という形に落とし込んだだけなのである意味エビデンスバッチバチです。
ものすごく面白いし、楽しいです。
だから僕を信じたり期待するというより、この世界の仕組みや構造を自分でも使えるためのキッカケとして受けにきていただけると面白いかもしれません。
入場口で「受付」として待っています。
さぁ準備はいいか?
ここから先は他ならぬ「あなた」の道となる。
他の誰でもない君だけの道だ。
きっと寂しい思いもすることだろう、そんな君にこの言葉を送る。