社団法人真色 論文「内面の痛み」※全文掲載 (拙書「山下眞史心理学医学哲学」より)
本「無知の涙」・本「木橋」。この名前を聞いて思い出された方も多いと思うが、この2作品は死刑囚永山則夫の作品である。このうち「木橋」は、獄中で彼自身の生い立ちから事件に至るまでの事を書き連ねた作品である。
この本の前半部分の文章は、はっきり言って稚拙である。言葉づかい、構成などは言うには及ばず、文章を理解するのは困難である。後記に記されてもいるが、獄中で相当量の本を読み勉強もしたようで、後半部にいたっては言葉使いも巧みになり情景描写、心情の動きなど前半部に比べて容易に理解できる文章になっている。
しかし、だ。この変化に大きな驚きがあった。前半部はたしかに内容を細かに思い返すことは難しいが、胸に、心に痛みという経験が刻まれた。それに反比例して巧みに綴られた後半部は感情の動きが鈍った。
今現在若者の間で流行っている携帯のメールは、短縮言葉をはじめ、絵文字、造語、本来の意味とは違った文字が羅列され、驚くことにそのメールのルールブックのようなものまで売られている。 それに対して大人がもっとしっかりとした日本語を、というスローガンを掲げて対抗することは甚だ容易である。ではどうすればよいのか?
永山則夫の文章ではないが、この混沌とした昨今において表現しきれない感情を、直接ではなく間接的にかつ無意識に若者はメッセージを発しているのではないだろうか? 確かに若者の活字離れは一つの要因はあるものの、それに対応すべく年配者の誘導はどうだったのであろうか?
言葉を理解している年長者が、今一度自らの感受性を見直し、年少者とコミュニケーションを図るべく、自らの足跡をもう一度見直す時期に来たのではないだろうか? 「真理は単に現在(言葉)によって知られるばかりではなく、感情(コミュニケーション)によっても知られる。理性と感情は二つながら我々の教師である」とはかのパスカルの言葉である。忍耐をもってして年少者に当たらなければこの先に赤々とした夕日を心行くまま眺められる日は遠のくばかりである。 (了)」
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このエッセイは、二十代前半で書いた随筆です。永山則夫サンは犯罪者ではありません。後日知りました。全てでは無いですが、昔の警察、教師等、聖職と呼ばれる職業に就いていた人達には、最悪な輩がいたのは事実です。
その職業に就いたら人格者、では絶対にありません。個々が各々人格陶冶されて初めて、真っ当な人になれるんです。職業がその人物を形成することはありませんから。
参考図書:拙書「たいよう十七」
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