フューチャーデザイン; 未来の市民を巻き込んだ、民主主義のアップデート
どのように未来へ橋がけながら、まだ見ぬ私たちの子供のために今をより持続可能で、豊かなものに変えていけるだろうか?どのように、まだ見ぬ子孫と共に、そのような社会を創造していけるだろうか?
デザインというのは、本来、<Pro-ject>とされるように前へ、未来へ投げ出していく、つまり未来へコミットメントしていく営みです(UNLEASHで連載中のデザインをめぐる往復書簡もご参照ください)。でも、現在のデザインされたもの及びその実践ーwebのサービスもまちづくりも、ルールもあらゆる人工物を含むーは未来への視点が恐ろしく欠けている現状ですね。
高知工科大学の西條教授により研究されているFUTURE DESIGNはそのような現状に一石を投じる実践的メソッドであり、とても興味深いです。著書、フューチャーデザインでは近視眼的な市場主導のものづくりおよび民主主義を批評し、乗り越えるオルタナティヴな方法論を提示します。
"今ここ"の欲望を中心にした現代のシステムの罪
市場制は人々の短期的な欲望を実現する非常に優秀な仕組みではあるものの、将来世代を考慮に入れて資源配分する仕組みではない。一方、市場制を補うはずの民主制も現在生きている人々の利益を実現する仕組みであり、将来世代を取り込む仕組みではない。
と。現在の市場は将来の資源を奪い続けることで成り立っています。もしくは環境危機を考えると、ツケを回し続け将来世代に加害しているとまで言いきれちゃいます。資本主義はシステムとしてリソースの再配分という機能が回らないのは自明ですが、将来のために留保する機能もありません。
一方、現状の民主主義は大きくポピュリズムに陥っています。政治家は"今ここ"に生きている市民の支持を得るための政策を打ち出す。そりゃあそうですよね、そうしないと選出されないですから。結果、これからの未来への投資や将来の子孫への利益ある提案はできません。そんな構造になっています。まあ、これもまだ見ぬ子孫どころか、日本で高齢者が増えていき、そこを念頭に置いたマニフェストを提言して、教育への投資や若者へのサポートが軽んじられている現状などを見れば意味合いは分かりやすかと思います。
これに加えて、人の本能的な「近視性」を指摘しています。人間はそんな遠くのことを考えて行動するのが苦手なんですって。まとめると、現行の資本主義というシステムも民主主義というシステムも、人間の性質としても、未来へコミットメントすることはとても難しい状態になっているのです。
未来の子孫とどう共創していくのか?
結果として、未来のぼくたちの子孫、次世代に生きる人々の生活は圧迫され、搾取され続けているわけです。ぼくが学ぶCo-Design・Participatory Designというのは、
デザインの結果により影響を受ける人がプロセスにおいて声を持つべきである="those affected by a design should have a say in the design process" (Ehn, 2008, Design Thingsより)
という思想に則ります。でも、確かにあるデザインの結果が未来に影響を及ぼすにもかからわず、未来に生きる人達はそこに参加できていないわけです。例えば、よく2050年の都市の未来ビジョンを描いたりするお話も聞きますが、2050年に生きる20歳の若者=2030年に生まれた人々は、現時点で全く考慮されていない。これはけしからんということですね。
これを打破するために、ぼくたちは未来の人々に声を持たせるためのツールや方法論や仕組みが必要になります。例えば、ウェールズでは次世代委員会(Future Generation Commissioner)が設置されており、行政が環境保護や雇用問題などあらゆる領域における政策策定をするとき、30年後の世代がツケを受けないような意思決定を担保するという役割を担います。
これはシステマティックに役割を置くことで、次世代の人々の利益を意思決定に必要な軸の1つとして定めるというアプローチです。そして冒頭で述べたFUTURE DESIGNという手法は、この次世代の人々の視点をさらに身体に落とし込み、議論を進めることを促します。
FUTURE DESIGNという方法論
では、FUTURE DESIGNとはなんなのか。それはイロコイ・インディアンというアメリカ北部・カナダ周辺の部族の意思決定の仕組みからインスピレーションを得て、現代の社会創造に応用したものです。イロコイ・インディアンは、重要な意思決定をするときには、必ず「七世代後の人々」になりきって考えるといいます。なぜ、七世代後なのか?というと、自分の直系の子孫には当たらない世界の想像を念頭におくことで、自身との直接的つながりの範囲でのバイアスを防ぎ、"完全なる未来の人々"を現代に召喚することを目指しているからです。
FUTURE DESIGNとは、この意思決定における装置を応用した、
将来そのものを仮想的な将来世代との交渉でデザインし、それを達成するために様々な仕組みをデザインする
(フューチャーデザインより)
という方法論です。もちろん、そこには一定の限界性もありますが、
将来世代を生きたまま現世代に移動することは不可能である。そこで、ヒトが、他者の心の状態などを推測する心の機能を備えていることを利用し、将来世代に「なりきる」人々の集団を形成する
(フューチャーデザインより)
と、ロールプレイによって自身を超越した他者という存在に「なりきる」という、デザイン思考でも言われる共感から、「憑依」に持っていくという方法をとっています。
ロールプレイや演劇というのはデザインの世界でも以前から取り入れられています。それは仮想的なサービスを擬似的に検証したり、実際の場面で対象となる人々がどう感じるかをトレースしたり。
また、北欧はLARP(ライブ・アクション・ロールプレイング)というゲームカテゴリ発祥の地です。何かとういうと、例えばドラクエをリアルに演じてやってみる。ドラクエの世界観を再現して、じゃあお前スライム役な!みたいな。これをスペキュラティヴデザインに応用して、例えばお金がない世界でこういう役割の人々がどう振舞うか?をなどの未来の思索にも用いられています。
以前、ぼくも市民が未来を描くためのワークショップで未来の住民をペルソナカードとして準備し、それをもとに未来のスペキュラティヴなシナリオを描くということをやりましたが、その際にも思った以上に参加者はその人物に「なりきり」、議論が進んでいました。
ちなみに余談ですが「アクタージュ」という女優の物語を描いた漫画をよんでいるのですが、どう憑依していくかという過程を描いたりしていて、とても面白いです。
さて、実際のフューチャーデザインの手法を活用した事例を少し見てみました。
基本的にはまちづくりや政策策定の文脈でのワークショップにて、「タイムマシンで飛び、2060年の将来に生きることになった」等のシナリオ設定した上で、一部の参加者が2060年の住民として役割を担うという方法です。とはいえ、
参加者は中高年の住民が多く、最初は「未来に飛ぶ」といわれても戸惑う様子が見られたが、ものの10分もすると自由な発想にもとづく発言が始まった
(岩手県矢巾町「フューチャー・デザイン」見聞録より)
とあります。個人的にはもう少し補助線を増やしたほうがいいのでは、というような気も。適切なツールと組み合わせることで、より有効的に多様な未来の視点をもたらせるのではないか、上述の未来ペルソナカードなんかはその1つだと思います。
まとめの感想
まとめると、個人的に素晴らしいと感動したのは、構造的に現代の欲望にのみ沿った議論から抜け出しつつ、未来への視点を育むことができる成熟的な対話を促せる点。そして、未来への搾取が行われているという課題意識をうまく社会的装置に落とし込んでいること。
さらには、将来的なビジョンとして、「民主主義のアップデート」を掲げつつ、中央省庁に将来省を設置したり、大学で将来学といった分野の提案を行っているという発展性です。研究をこう社会実装につなげていく姿勢、かっこいい。
また余談ですが、以前記述したノンヒューマンへの共感を育んだり、声をプロセスに取り入れる、といったこともこのようなロールプレイを活かしたアニミズム的視点を持ち込むことで可能になるのかも、と思いました。
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