"自由"のためのデザイン;人間中心デザインを捉えなおす
(この記事はアールト大学のUID というコースにおけるエッセイ課題「あなたにとって人間中心デザインとはなにか?」を簡潔にまとめ直したものとなります。)
なぜ自由のためのデザインが必要なのか?
私たちの身の回りには、「人のために」デザインされたもので溢れています。今世紀を代表するデザインとテクノロジーの結晶、スマートフォン。ただ、私たちがそれによって"スマート"になったでしょうか?暇があればスマホを開き、1日を過ごす姿は最早テクノロジーの奴隷とも言えます。
日本でも広がりを見せる人間中心デザインやデザイン思考は、人のニーズや感情に焦点をおきつつ、デザインが経済発展の道具として扱われている印象は拭えません。人間という単語は体よく"消費者"や"ユーザー"に置き換えられ、デザイナーは人々の欲望を叶え消費を促すシステムに貢献しています。
では、経済の代わり何がデザインの最適な規範になりうるでしょうか?また、デザイナーはこの状況をどう捉えなおせるでしょうか?
Ivan IllichとAmartya Senという2人の思想家に影響を受け、この記事では「自由」をデザインの中心的コンセプトにおいてみます。「もしデザインが何かの発展に寄与するのであれば、それは自由であるはずだ」という考えの下、自由を人間の根源的価値と置いて先に進みたいと思います。
自由とは歴史上でもあらゆる哲学者が取り組んだテーマではありますが、ここではSenのケイパビリティ・アプローチを軸に、イリイチのコンヴィヴァリティの視点を組み込みながら、Co-Designを捉え直し自由への架け橋としての可能性を提示するのがこの記事の狙いです。
ケイパビリティアプローチはアマルティア・センにより提唱された「人々が何を達成できうるか」という達成のための自由を説いた考え方であり、コンヴィヴァリティは「人々の相互依存の中で実現された個的自由」を示しています。これらの視点に沿って、Liz Sandersが述べるようにCo-Designは「人々の集合的な夢や希望」に重きを置きつつ、誰しもが自身の描く夢を実現するクリエイティビティを持っていると信じることが思想として貫かれます。
能力と行為主体性、そしてデザイン
センの著書 'Development as Freedom' にて、自由とは「人々が達成しうる機能の組み合わせ」であると綴られています。機能とはその個人がなしうること、なりうる状態を示しており、栄養を十分に摂取する状態から、自己肯定感を持つことまで多様な範囲で存在しています。この機能の束=ケイパビリティとはつまり「どんな望ましい生き方を選択できるか」という自由なのだ、という考え方です。
私たちは日々、無数の選択を意識的・無意識的に行っていますが、センはこの選択するという行為自体がとても重要なものだと位置づけています。そこに欠かせない概念として、「行為主体性(Agency)」が紐付いてきます。 Agencyをセンは「自己の内的価値観に基づき、行為を選択し、自身と周囲に変化を生み出していく」個人だと説明しており、このAgencyが自由=達成しうる機能の集合体から、価値観に基づいた選択をすることにより潜在的であった望ましさが実現されていくいうことです。センは自由においてこのAgencyの存在を重要視しています。後述のイリイチもこのAgencyの損失を強く危惧しております。
センは本来の発展とは経済発展ではなく「人々が享受できる真なる自由の拡大」だと論じております。さて、人間とデザインの間には常に相互作用が働いており、「人間がデザインしたもの」が「人間をデザインするもの」になるため切り離せません。例えば、旧石器時代の石包丁のデザインにより、人の手がそれにフィットするように変化する、PCメモリ等の外的な記憶装置により記憶力の低下が招かれる、など。デザインがこうした性質を持つのであれば、発展の観点から見れば自由の拡大だけでなはくて、自由の縮小をも招きうるということが想像できます。それ故に人の発展の目的とは自由の拡大だというセンの主張は、デザインにおいて自覚的に適応されるべき考え方ではないでしょうか。
反コンヴィヴァルな現代;自由に向けて
■資本主義社会による自由の剥奪
イリイチは産業化社会と「望ましい未来を描くことをあらゆる人々に可能にし、妨げとならないよう道具を適切なレベルで活用できる」コンヴィヴァルな社会を対比させています。著書の 'Tools for Conviviality' においてコンヴィヴァルな社会に対する6つの脅威を述べていますが、特に"根源的独占=Radical Monopoly"に焦点をしぼり説明したいと思います。
利便性を目指した産業製品や制度・システムは意図せずとも人々の能力や行為主体性を殺します。本来、人々は大方のニーズを自身で満たせる潜在能力がありつつ、それを人工物にリプレイスされているとイリイチは指摘します。ここでいう独占とは、人々が自身の能力を持ってして、ないし他者との共同の下で対処しうる状況においてでさえ、人工物に頼ることを選択したときに起こる逆転現象であり、センの自由の観点から捉えると以下のような悪影響を引き起こします。
①選択肢=達成しうる自由の制限
根源的独占の脅威は人々の選択肢と機会を制限します。例えば、自動車は今や支配的な存在であり都市から公共空間を奪い高速道路に置き換えていきます。ある人にとっては歩くという選択肢は制限されていき、またある人にとっては歩ける距離ですら自動車の利便性がないと耐えられないものになります。行き過ぎた便利主義はこうした根源的独占を生み出し、先天的にニーズや状況に応じることができる能力は失われていきます。一度そうした利便から離れられなくなった時、ケイパビリティは損なわれ自由は抑えつけられます。
②行為主体性の抹殺
こうしたケイパビリティの損失は、思慮のない過度なツールへの依存による行為主体の損失にも繋がります。人々は無意識に選択することを放棄して、マーケットから提供されるものに乗っかるだけとなり、個人の想像力は最小化され、自身の内的価値に基づいた意思決定よりも即時的なニーズへの対応を続けます。
③相互依存の喪失
さらに産業ツールは「個人での完結」を後押しします。コレクティビティ・ケイパビリティという集合的な人々の相互依存の中で、生み出される選択肢も多くあり、行為主体的な価値観も人の関係性の中から磨かれていくにもかかわらず、利便を追求した産業化ツールはそうした相互依存を奪います。
コンヴィヴァリティが失われた社会では、人々は自身で生活を形作る自由はなくなります。だからこそ、コンヴィヴァリティとケイパビリティアプローチをベースにしたデザインは自由の実現に対しての可能性を大きく秘めていると言えます。
コ・デザインとコンヴィヴァリティとケイパビリティ
コンヴィヴァリティとケイパビリティアプローチは、人々の自ら生活を想像し創造する力を強調している点で共通し、コ・デザインを再構成しうる概念となります。リズ・サンダースはデザイナーがどう人々のクリエイティビティへのアクセスに橋渡しできるのか?ということをコンヴィヴァリティの概念を元に述べてもいます。特にコミュニティエンパワメントの文脈でそれは顕著でしょう。
しかし一方で、コデザインの研究は実践としては人本来の性質やウェルビーイングに焦点を当てたものが少なく、結局は新サービスの開発の手段として用いられる色合いが強く感じます。リズサンダーズの唱える誰しもがデザイナーになる、というのも2-3回のワークショップのみの短期視点で終わっては本当に実現できるのか疑問です。Stoltermanが言うよう、ケイパビリティとコンヴィヴァリティという概念を明示的に用いることで思想のアップデートを促し、「理想的な参加型デザインの復権」が可能になりうるのではないかと思います。先の産業化社会の悪影響に対応して、3つの観点から自由に対しての可能性を拡げます。
①エンパワメントによるケイパビリティの拡大
例えば高齢者コミュニティにおいてのコデザインプロジェクトAgeing Societyでは、デザイナー・開発者のファシリテーションの元、コミュニティ内にイントラネットを作成することで、イベントの共有がスムーズになります。これまでより社会との繋がりを感じたい(Acheived freedom)高齢者が、イントラネットをとおして(Goods)、情報を獲得する機会を増大できます。
加えて、長期的にみればデザイナーたちとの共同の中で、自分自身でアイデアを出し改良を加えていくスキルセットが養われていき、自らケイパビリティの拡大が可能になります。
②行為主体性の再構築
さらにこうしたアプローチは長期的に見て、行為主体性の再構築に繋がります。イリイチが唱えるよう、道具への過剰な依存ではなく、自分自身の好みに沿って道具を生み出し、生み変え、自由を形作っていけるような主体性がプロセスを通じて生み出されていきます。
③コラボレーションを介したケイパビリティの拡大
集合的な活動は個人のケイパビリティにも影響します。ケイパビリティは2つの方法で獲得されると言われており、個人の努力または共同的な活動においてなされます。プロセス全体を通して、人々は自然に助け合うようにファシリテートされ、相互依存が高まり互いを補填しあうことにより、個人では達成しえない自由の拡大が可能になります。
まとめ
コンヴィヴァリティとケイパビリティの観点から、コデザインのプロセス的価値に重きを置きなおし再構成することで、自由の拡大のためのデザインの実践につながる礎になりうるというのがこの記事で説きたかったことです。
また、経済のためのデザインや消費自体を否定することが狙いではなく、サンダースも言うように、そうしたデザインはこれから先も存在し続けます。なので、考えるべきはイリイチの言葉を借りると、「自分たちでやるべきことと、既に’用意'された道具に頼ることのバランスをどう取るか」です。とはいえ、昨今のデザインは後者に偏りすぎていることも否めません。
デザインとは単に利便や単純性を求めるもとではなく、人々を成長に導くための創造的な実践です。人として、自らの価値に基づいた人生を描きカタチを与えていくための自由は必要なものです。テクノロジーが台頭するこの時代、一層にそうしたヒューマニティをデザインの原則に置くことが求められるのです。
💡あとがき
提出したエッセイでは実際のケースからCo-Designの効果を説き直しましたが、割愛したため本記事はマニフェストのような体になってます。あと英語から日本語へと変換したため、表現がぶれてるところが多々ありますがご了承ください
ー実際のリファレンスー
1. Botero,A and Hyysalo,S. 2013. Ageing together: Steps towards evolutionary co-design in everyday practices. CoDesign 9, 1 (2013), 37–54.
2. Colomina,B and Wigley,M. 2016. Are we human?: notes on an archaeology of design, Zürich: Lars Müller in collaboration with IKSV (Istanbul Foundation for Culture and Arts.
3. Dunne,A and Raby, F. 2014. Speculative everything: design, fiction, and social dreaming, S.l.: MIT.
4. Garduño,C. 2017. Design As Freedom. Aalto University, Helsinki, Finland.
5. Illich,I. 1973. Tools for Conviviality, New York: Marion Boyars.
6. Leßmann, O and Roche, J. 2013. Collectivity in the Capability Approach. Maitreyee June 2013 – Collectivity in the CA (2013).
7. Lizarralde,I and Tyl,B. 2018. A framework for the integration of the conviviality concept in the design process. Journal of Cleaner Production 197 (2018), 1766–1777.
8. Oosterlaken,I. 2009. Design for Development: A Capability Approach. Design Issues 25, 4 (2009), 91–102.
9. Robeyns,I. 2005. The Capability Approach: a theoretical survey. Journal of Human Development 6, 1 (2005), 93–117.
10. Sanders,L and Stappers, P. 2014. From designing to co-designing to collective dreaming. interactions 21, 6 (2014), 24–33.
11. Sanders,L. 2006. Scaffolds for building everyday creativity. Design for effective communications: Creating Contexts for Clarity and Meaning, 65-77
12. Sen,A. 2000. Development as freedom, New Delhi: Oxford Univ. Press.
13. Stolterman, E. 2008. The nature of design practice and implications for interaction design research. International Journal of Design, 2(1), 55-65.