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「Hit the smash !」

「バドミントン」それは、ネットを隔て二つに分けられたコートの両側にプレーヤーが位置し、シャトルをラケットで打ち合い得点を競うスポーツ。
このところ強い日本人が台頭し、人気スポーツのひとつとなっている。

きっかけ

昭和58年の筆者は12才。そう小学校卒業の時だった。
当時の中学校はツッパリや暴走族、構内暴力が社会問題となっていた。
何かされたらどうしよう...。中学生になるのが嫌で嫌でしょうがなかった。

しかし時間は自然とやって来るもので、私もとうとう中学生になった。

その中学校の決まりでは「部活動は全員加入」とされていた。
何部にしようか?悩みに悩んだ結果、当時では珍しかったバドミントン部に入部することにした。
理由は先輩方が一番怖くなさそうだな?と思ったからというしょうもない理由である...。そう私はそんなしょうもない子どもだった(笑)
そんなことで、私のバドミントンの生活が始まった。



中学校生活

入部し、毎日練習が始まった。
我々一年生の練習メニューはこんな感じである。

①グラウンド10周(多分2kmぐらい)
②腕立て:50回
③腹筋:50回
④背筋:50回
⑤スクワット:50回
⑥素振り:無限     以上

えっ、バドミントン部に入ったのに打たないの?それが最初の衝撃だった。先輩たちが打ってるのを見ながら素振りして毎日が終わっていく訳である。
この練習が3年生が引退するまでの4ヶ月ぐらい続いていった...。

その気になって入ったわけでもないバドミントン部だったが、この打たせてもらえない行為は私のこころをモヤモヤさせた。
結果、部活以外の時間帯に市民体育館に出向き打つ練習をしたり、地元のクラブチームに入って練習するようになった。

中学入学当時の私の身長は140cm。バドミントンのネットの高さは155cmだったので鮮やかにスマッシュを決めることは憧れだった。
チビはそんなカッコいい戦いはできるはずなく、シャトルに早く追い付くためのスピードやクイックネスな動きで勝負する。そう拾いまくるしかなかった。
バシッとスマッシュを決めること。それはかなり憧れるものだった。

3年生が卒業したら部活でもコートでほんの少しだけ打たせてもらえるようになっていた。しかしほとんどは2年生が打つ練習だったので、部活以外でも打ちたい気持ちはおさまることなかった...。

秋になると新人戦が始まる。当時は個人戦のシングルスとダブルス、また1複2単の団体戦があった。2年生は人数が少なかったので1年生も個人戦のダブルスで大会に出れる枠があった。
どうせだったら大会に出たいなぁ、なんて思ってたけどそれは叶うことなかった。
しょうもない理由で始めたバドミントンだったけど悔しくて、部活以外でも打ちたい気持ちはやっぱりおさまることなかった。

そんな気持ちがあってか、少しずつ上達していって、その後の春の大会、夏の大会は出場はできるようになっていた。
多分この頃に練習とか努力は人を裏切らないっていうことを身にもって理解したのだと思う。

当時、市内にバドミントン部がある学校は、我が校しかったので市の大会はなく、我々の最初の戦いの場は近隣市が集まっての地区大会で目標はそこを勝ち抜いての県大会出場だった。

1級上の輩をも負かせるようになっていたのでその目標は、簡単に達成すると思っていた自分達が最上級生になっての新人戦。私はレギュラーとして団体戦、シングルス、ダブルスと全てに出場できることになっていた。 
入学当初140cmだった身長も伸び155cm程になりプレーの幅も広がりつつあった。
スマッシュも決められるようになっていたが、あと一歩のところであえなく敗退。これが2回目の挫折だった。

それでもめげることなく練習を続け、次の春の大会は団体戦で、夏の大会は個人戦のダブルスで県大会に何とか出場することができ一定の目標は達成された。

県大会に行けることになったら、朝練でも体育館をつかわせてもらえるように学校にお願いした。
顧問の先生だった「青やん」をはじめ多くの先生が応援してくれたが、「天狗になるなよ」と軽く嫌みを言ってくる先生もいたが、臆することなく練習に取り組んだ。

しかし、世の中は広いもので県大会ではレベルの高さと自分たちの無力さを痛感したものだった。

そうしてこうして中学校の部活動生活はある程度の満足感を得て終えてった。卒業する頃には身長が165cmまで伸びていた。



高校生活

昭和61年の筆者は15才で公立高校に通うことになった。
その高校の決まりも「一年生は部活動に全員加入」となっており、やっぱりあまりやる気もなく「どうしようかな?」状態だった。

部活動見学の日程があって色々なところをブラブラと見て廻った。あまりピンとくるものがなかったが、体育館に行ってバドミントン部の練習を見て足が止まった。

先輩部員から話しかけられ、経験者である旨を伝えると、「打ってみせろ」と言われ、一通り打ってみせた。久々だったのでそんなに上手くできなかったけど、翌日から部活動に参加することとなった。

最初のメニューはこんな感じであった。

①グラウンド10周(多分3kmぐらい)
②腕立て:50回×3セット
③腹筋:50回×3セット
④背筋:50回×3セット
⑤素振り:無限     
その他、体育館が使用できない時間帯は体力強化のメニューが課せられた。

経験者だから少しは優遇されるかな?と少し思ってたけど甘い考えだった(笑)
しかし、上級生が端数だったときは、相手役として打たせてもらえることはそれなりにあった。

ただ5月くらいで3年生は引退したので、そのあとは2年生に混じり打たせてもらえる時間は増えていった。

強豪校に入ったわけではないので、一応の経験者だった私は更に上手くなるために自分に課題を出した。それは「実践形式の練習の時はスマッシュは使用せずクリアとドロップ、ヘアピンで四隅をついて打ち負かすこと」だった。
ここでハンデをつけても圧倒できないようでは上の世界には行けないと思ったからである。

この課題は自分にとってはかなりの正解であったようで、ラリーが続いても我慢強くなった他、素早いフットワーク身に付きやそれぞれのショットの精度が磨かれ、実践でもこういうスタイルで勝負するようになっていった。

3年生が引退したあとの次の大会、新人戦の地区大会には1年ながらにして出場できることになったが、先に実施された個人戦のダブルスはあえなく敗れ、そのあとに実施した3単2複の団体戦も第一シングルで起用されたが左利きに苦しみ健闘むなしく敗れた。入部から5~6ヶ月、そんなに甘いものではなくまだまだ成長過程だったのだと思う。

一冬越した、2年生になってのインターハイ地区予選は2複1単の団体戦から。
私の身長は170cmを越え、より上手くなったが、先輩方もスゴく上達したので県大会も狙えるところにいたと思う。
ベスト8で県大会行きなのだが、そのベスト8決めの試合まで勝ち進み大事な一戦、フットワークとショットの正確性で勝負していたわたしは動きの早いダブルスは少々苦手だった。しかし私はダブルスで出場。しかしオーバーハンドをとられるなど精彩を欠いて精神的なダメさを出して終わった...。

翌月には個人戦。ベスト16が県大会進出だが、先輩と組んでのダブルスはまたしても精彩を欠きベスト16決めの試合で敗退。先輩には本当に申し訳ないことをした。

気を取り直してのシングルス。もう失うものはなかった。ベスト16決めの試合まで勝ち進み、その試合だけは普段のスタイルを180度変更しスマッシュを打ちまくった。そう開き直ったのだった。それが良かったのかなんとか勝利し県大会に進めることとなった。

県大会では2回戦で第1シードの選手とあたり、その凄さを感じさせられた。「全国とはこういうこのなのか?」と肌をもって感じさせられた。


そして1つ上の先輩も引退し我々の時代になった。私は柄にもなく「部長(キャプテン)」を仰せつかった。
一見順当ともとれるが、私の同級生にそういう実力と度量のある者がいなかったからである。この問題を引きずりながらの前途多難なスタートだった。

そして夏の新人戦の地区大会、同級生と組んで出たダブルスはあえなく敗退したが、その前の大会の成績が評価され、個人戦シングルは第3シードとなり、試合も順調に勝ち進みベスト16を突破し、準決勝で敗れるも3位決定戦に勝利した。

翌月の団体戦も自分の試合で勝っても、他の同級生の試合でことごとく勝てずあえなく敗退した。

こうなる想像はできていたが、実際そうなると結構堪えるもんである。そんなことを引きずってシングルスで県大会に出場するも1回戦、いい勝負するも残念ながら勝つことはできなかった。

ただ、一つ下の後輩が見所ある奴等がいたので、少しでも勝負できるように冬の間に鍛え上げ春を迎えることになる。

3年になってのインターハイ地区予選、最後にもう一花咲かせようという想いから、私はまたしてもチャンスがあればどんどんスマッシュを打っていく強弱を意識した攻撃的プレースタイルに変更しようとし、練習も打ち込みを多く入れてった。

団体戦は私以外は全員後輩というフレッシュな布陣で挑むもあえなく敗退。
翌月の個人戦、ダブルスは後輩と組んで出場し、県大会出場のかかるベスト16決めの試合まで勝ち進んだ。何とか結果を残したい、後輩も県大会に連れてってやりたいという思いから、スマッシュを打ちまくった。いい勝負だったと思うが残念ながら勝利できなかった。
一方で打ちまくったことでそれまであまり鍛えられてなかった私の肩が悲鳴をあげはじめていた。打つ度に痛みが走っていたのである。

新人戦の県大会では結果を残せず、シングルスの私は第6シードまで落ちていた。
肩の調子も悪くごまかしながらのシングルス。県大会の出場がかかるベスト16は何とか通過。次のベスト8決めはその日4試合目で私の肩は限界にきていた。過去に負かせた相手であったが、痛みから満足するプレーはできず、度々コールドスプレーで肩を冷やしながらの状況。フルセットまで粘るがここで敗れることとなった。


「練習とか努力は人を裏切らない。」
ショットの精度やフットワークは大事に練習し努力してきたが、強く振ることの練習と努力を私は完全に怠っていた。
結局、付け焼き刃の強打で肩を痛めることとなった自業自得の結果だったのである。

一応、県大会には行けたのだが、先の結果から既に私は目標を見失っていた。
1回戦を勝ちまたしても第1シードの選手と対戦。相当数の試合をこなしているにも関わらず平気で動いているバケモノのような体力に驚愕。ここでもまた本当に大切なものが何かを教えられた気がした。
ちなみにこの選手はインターハイで準優勝し、そういう人と試合ができたことはとても良い思い出になった。

「バドミントン」
若い頃の自分に大事なことを教えてくれたスポーツだった。

卒業してからはラケットを握ることもなくなった。右肩は未だにゴリゴリしてる部分があり、触ると未だにあの頃のことを思い出す。多分このゴリゴリと一生付き合っていくことになる。
そんな肩の調子悪さもあり、既に五十肩も経験済なのである(笑)

そんなおやじの戯言...。

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