ボクから私へ(コーチングと傾聴について)
”大好きな本を傾聴する。”なんて以前の記事で書きましたけれど、やっぱり人と会わなきゃだわということで、いそいそと人と会う今日このごろなのです。
私は、”人々が互いに相手を受け入れ、語り合うことのできる社会”になればいいなと思ってコーチングをしています。
傾聴を一番大切にしています。
なんて、なんだかきれいな言葉なので、もとからきれいな心の持ち主だったかのような感じですが、そんなにいい人ではありませんでした。
私は、右頬に1インチほどの大きなほくろがある子供でした。
1センチならまだよかったと思いますが、私のほくろは、小指の先から第1関節ほどの面積がありました。
「気にしないこと」に気をつけていた
幼い頃は気にもしていなかったのですが、幼稚園に入って、おともだちに「それ、どうしたの?」だったり、「それ、いつできたの?」と言われるたびに、「これは生まれつきなんだよ」って言ってました。
初めて会う子たちはみんな聞いてきます。
そのたびに、「これは生まれつきなんだ」って言わないといけなかったんです。
幼稚園児なのでケンカすることもあり、泣いて帰るたびに元気が出るおまじないをしてもらっていましたが、親も気にしてたんだと思います。
だから、子どものボクは、どんな人にも「全然気にしてないよ。」って言ってました。
今思うと、当時のボクは、「ほくろを気にしないこと」に気をつけていたんだと思います。
ダブル!
小学校2年生になる直前に、親が離婚して母子家庭になりました。
姓が変わりました。
子供は残酷ですね。
「なんで名前、変わったん?」って聞いてきます。
そう、しばらくは「ほくろ、どうしたの?」と「なんで名前、変わったん?」が、同時にやってきます。
「生まれつき」と「わかんないけど、これから〇〇になったからよろしくね」のダブルの回答をせねばなりません。
でも、ボクは、「元気いっぱい、幸せいっぱい」と思っていました。
でも身体は正直ですね。
アトピーが出てきました。
ボクは、「明るくて楽しい、いい子でいなきゃ」という状態が続いていきます。
この頃から、ボクは、本を読んだり、絵を描いたりするのが大好きな子供になりました。
いろんなことを知っていること、楽しい絵(マンガ)を描くことで自分の気にしていることを忘れる時間が欲しかったのかもしれません。
それを大人や友達に見せて「わー。すごいねー❗」って言ってもらうことで、コンプレックスを解消しようとしていたのかもしれません。
愛されたい
さすがに高校生になると、みんな、ボクの「右頬の大きなほくろ」については何も言わなくなりました。
それに、母子家庭だなと言うことは知っていても、前の姓のことになんて触れません。
だんだん、みんな大人になっていってますからね。
好きな人ができたときには、ボクは「ほくろ」のことを気にして、自分のことを好きな人がいることを知ったときには、ちょっとだけボクの「その」ことを忘れました。
いま思うと、かなり不安定ですね。
私が高校生だった80年代には、テクノとニューウェーブ、ニューアカデミズムが流行っていました。
ボクは、YMOが大好きでした(いまも大好き)。
「サブカル」、「ネクラ、ネアカ」、「ビョーキ」、「オタク」などの言葉も流行ってました。
ボクは、美術部で、マンガが好きで、YMOが大好きで、ネクラで、似非三枚目のひょうきん者という、かなり矛盾を抱えた思春期を送りました。
「自分ってなんだろう?」なんて言ってみたり、世間を恨んで斜めに構えてみたり。モラトリアムを謳歌したり。
ボクは、このころ、「デジタル多重人格」という言葉を思いつきました。
この人と会うときはこの人格(パターン)で、あの人に会うときはこっちの人格で居ると、愛されやすい(ような気がする)。
誰かに、愛してもらいたいなぁってずっと思って生きていたようです。
そうしていると、その場はすごく楽しい気分になって、たくさん喋ったりしてました。
一人になると、「あぁ喋りすぎたかな、みんなほんとに楽しかったのかな。」なんて思ってました。
ボクのアトピーは、ますますひどくなりました。
勉強なんてしていませんでしたから、当然浪人生活を迎えます。
プチ共同体感覚
浪人生活を経て、大学に入ってもボクの中身はこんな調子でした。
みんな少しづつ大人になっていますので、「デジタル多重人格」をお腹に抱えたボクには、友達なんてできませんでした。
そんなボクにも、彼女ができたりはしてました。たくさん迷惑をかけたと思います。
相手は、ボクの中身のことを少しだけみてくれていたんだと思います。
その子は、ユング心理学を学んでいましたので、ボクの姿とボクの夢を分析しながら成長していきました。
彼女が先に卒業して、さよならするのですが、
ボクには、ユング心理学の欠片が残りました。
(中略)
長い大学生活の最後の年は「沿岸海洋学」のゼミに入りました。
楽しかったことしか、残っていません。
その頃のボクは、ほんの少しだけ、人間になってきていました。
それは、そのゼミの柳教授、武岡助教授、市川講師、秋山技師の当時の先生方や大学院の先輩方、卒業同期の仲間たちが、矛盾を抱えたボクをそのまま(そのままですよ、そのまま)受け入れてくれたからだと思います。
どんなにできが悪くても、どんなに変なやつでもですよ。
このゼミのために何かできたらって、少しだけ思った記憶があります。
これを共同体感覚と言うんですよね。
何をしても受け入れてくれる(叱られるけど)場所が、できたんです。
自分が自分でいられる場所ができた。
先生、みんな、ありがとうございました。
サヨナラ、「ボクのほくろ」
その後、卒業。
就職して、今の妻に出会います。
妻は、「ボクのほくろ」のことを全く気にしていませんでした。
ボクの中身しか見ていない人でした。
それはボクだけではありません。
どんな人のことも中身しか見ていない人がいるんだということです。
いまでも不思議な人です。
ある日、彼女はボクにこう言いました。
「そんなに、気になるなら除けたらいいやん。」って。
”気にしないこと”に気をつけていたこと について、初めてはっきり言ってくれたんです。
その後、ボクは、怖い怖いと思いながら「ボクのほくろ」とサヨナラしました。
ボクは、スッキリしていました。
同時に、アトピーも軽くなっていきました。
色々あって、しばらく後に娘が生まれました。
誰と出会うか
だれと出会うかで、人生変わりますね。
矛盾だらけの子どものボクを好きになってくれた人。
少し人間になったボクを受け入れてくれた大学のゼミ。
ボクの中身を見てくれていた妻。
生まれてきた娘。
今はどうでしょう。
この半年内外で沢山の人と出会いました。
コーチングにお誘いくださった中小企業診断士の山下先生、ブルーミング・コーチングスクールの川瀬先生、マイコーチの今野先生、スクールのサポートコーチの大林先生。
スクール同期のみんな。
スクールのOB、OGの皆さん。
セッション練習にお付き合いくださったアナザーヒストリーの卒業生の皆さん。
スクールとは関係なく、セッション練習にお付き合いくださった皆さん。
こころボイスの川添先生。
たくさんの皆さん。
あとお目にかかってはいないですが、本を読んで勝手に想いを寄せているアナザーヒストリーの宮越大樹先生。
この歳になって、たくさんの方とお会いすることができました。
本当に感謝しかありません。
ボクから私へ
生まれてから、たくさんの人に会ってきたはずなのにボクは人とどう接したらいいのか分かりませんでした。
どんな本を読んだって、わからなかった。
誰かに会う時はいつだって自分と他人を比べて、「こんな自分が何を話ししたらいいんだろう」ってずっと思ってきました。
どんな話をしたら、愛されるのだろうってずっと思ってきました。
ボクは、コーチングに出会ってから、ひとの話しを聴くことがどんなに大切なことかを学びました。
意識的にたくさんの人とお会いして話しを聴くことで、人の話がほんの少しまともに聴けるようになりました。
傾聴することで、相手の心が開いて、同時に自分の心も開くことを身をもって知りました。
人と出会うことで、自己一致が何なのか、ほんの少しだけですが分かったような気がします。
そしてボクは、やっと大人の私になりました。
コーチングをしている今ならはっきりと分かります、自分が自分のままで生きていないのですから、ボクは辛かったなと。
誰に出会おうとするかで、人生は変わっていくんだと。
コーチングを学んで、能動的に「ひとに出会わなきゃ‼️」と思えたことが、私の転機でした。
みなさんとの出会いで、少しましな人間になれたかなと思います。
聴くことで、人生変わります。
傾聴について書こうとしたのに、どんどん自分のことになってしまいました。
とにかく、みなさんありがとうございました。
感謝しかありません。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
次回、偏愛マップについて書こうかなと思います。
参考文献
ライフデザインコーチ養成プログラムテキスト
ブルーミング・コーチングスクール 川瀬朋子
人生を変える!「コーチング脳」のつくり方 宮越大樹