見出し画像

落合陽一さんの個展「質量への憧憬」

こんにちは、マルクスです。

この度、落合陽一さんの個展「質量への憧憬」に伺いました。
落合さんの作品は他のアーティストの方とは違い、普段から書籍や動画などで落合さんのエッセンスを感じとっているということもあり、作品を見て思考にふけることができるのでとても楽しいです。

そこで、会場に展示されていた言葉に深く考えさせられました。

【展示より】
きっと今の時点での僕はここに右脳で捉えたい世界があって, それは質量とデータの間にあるある種のノスタルジアなのだ. 憧憬でもある. データ化する質量のない世界の中で質量のあるものやフィジカルな機能を質量のない世界から見たときに感じる物質性を求めているのだと思う. デジタルなものはエイジングすることもなければ, メディア装置それ自体と切り離されることがほとんどだ.

憧憬とは心が惹きつけられること。
つまり、質量があるもの、質量があることに対して、心が強く惹きつけられている。
そしてそれを、質量とデータの間にあるある種のノスタルジアと言っています。

写真の中に広がっている世界は、実質的であり質量は無い。
しかし、それらは実際には質量があるものである。
そのことに対して、何かしらの物質性を感じ、ノスタルジックになっている。

この物質性とは経年劣化や人の動きなどを考えるとなんとなくわかる。
劣化するからこそ、動いているからこそ、そこには物質があると感じることができる。

しかし、なぜ”質量”という物理量に注目しているのか。
これを時間的に変化しているから物質的である、という観点ではダメなのかと思いました。

もちろん物質性のあるものは時間変化するが、動画や映像も少なくとも二次元平面上の表示が時間変化している。
つまり時間変化するというだけでは切り分けることができなくて、質量が時間変化するという観点で見ると切り分けることができる。

普段私たちは質量があるということを意識しませんが、質量があるからこそ無意識のうちに物質性を感じているのだと思います。

デジタルデータはエイジングしない。
エイジングするのは物質ならではです。

私たちが何かの写真を見てなんかいいなぁと思うのは、時間的な移り変わりの中の一面をいいなぁと感じている。
それは無意識のうちに”質量がある”ということに対し、心が強く惹きつけられているのかもしれません。

個人的な解釈ですが、質量への憧憬とはそういうことなのかなと思いました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?