見出し画像

肉を焼かない 定住民のSteak Tartare

前回は存分に肉を焼いた。だから今日は、焼かない!方向で。
生で食うぞ〜!本当は馬肉がいいけれど、高いから牛の赤身でタルタル・ステーキ。

...とは言いつつ、最初に肉の表面は焼きます。衛生上。重要です。食中毒を引き起こす菌は肉の表面につく(新鮮なものでも)そうなので、表面だけ高温でしっかり焼いて殺菌。そこを剥がして中身を使うという方法です。まな板や包丁などの調理器具も十分消毒しましょう。

>肉のナマ食への注意喚起はこの辺りの広報をお読みいただいて。

そこまでして、生肉料理を食うのか、と言われれば、俺は食う!と答えますが... 好きな言葉じゃないですが、こればっかりはお互い"自己責任"で。うちでは一応、子供にはまだ食わせてません。でも数年前まではレバ刺しもユッケも気軽に割とどこでも食えましたよねえ。まあ、食事というのは何を食っても多かれ少なかれリスクはあるんですよね。生きるとはそういうことだ。
ではレシピ。

【材料(2人前)】
・牛肉(赤身)ブロック... 500〜1000g **ランプ、モモ、ヒレあたりでなるべく溝などない表面が滑らかなブロックが加熱殺菌の際に安全だと思います
・塩
...少々
・黒胡椒...少々
・ナツメグ...少々
・ケッパー...お好みで少々
・タマネギ...小2/1程度  なくても良い 使う場合みじん切りにして水に10分ほど晒しておく
・卵...1個
【手順】
①赤身肉ブロックの表面を強火で短時間でしっかりと焼く
②肉の焼きがついた部分を包丁で綺麗に削ぎ落とす
③赤身肉をお好みの粗さに包丁で叩く
④塩胡椒ナツメグ、ケッパー、タマネギのみじん切りなど加え、さらに叩く
⑤皿に持って、真ん中をくぼませて卵黄を落とす

生食だもん。シンプルです今日も。俺の周りではお好みで醤油やウスターソースを入れる人を観測しております。俺は塩とスパイスだけが好きだけど。また、オリーブオイルをたらして刻んだオリーブを入れるのもいいと思いますし、ごま油をたらしてにんにくを足せば限りなくユッケになります。赤ワインがいいかな〜と思いつつ、日本の芋焼酎なんかともすごく合いますよ。ロゼのスパークリングワインとかも。まあ、高い酒のことはわからないけども。

画像1

------

余談ですが、この「タルタル」ていう響きが好きですね。語源のTatarタタールていうのはざっくりユーラシア大陸西方、つまりヨーロッパから見て東方に当たる中央アジアの大草原〜砂漠域を馬で駆け回る遊牧民族のことでしょう。より東方の中華圏から呼ぶと韃靼(ダッタン)。いずれもトュルク系言語のタタール("よそ者"的な意味らしい)が語源とか。ヨーロッパではあの恐怖のモンゴル大帝国がこの地域の遊牧諸民族を統率して攻めてきた経緯から「タルタルステーキ」には「モンゴル風ステーキ」的な意味合いがあるとか。

子供の頃、元冦とか、高校時代に世界史の資料集でモンゴル帝国の項を読んでいた時(俺はだいたいどの授業の時も世界史資料集か地図帳を見ていた)とても怖かった。中国、ロシア、中東、インド、そして東欧にまでまたがる、間違いなく人類史上最大の大帝国でしょう。大侵略。以前、人類史上最も多くの子孫を残した男性としてチンギス・ハーンの名前が出るニュースを見て、ものすごい怖いな、と思った。

日本で津軽の子守唄なんかの民謡俗謡に「泣けば山から蒙古(モコ)来るじゃ〜」という下りがある。この「蒙古(モコ)」はオオカミのことだと言われたりもするけど、当然ストレートに「モンゴル」である可能性もあるわけで...聞けば、ヨーロッパや中東の歌や、いうことを聞かない子供への脅し文句にもやはり「モンゴル」は恐ろしいものの象徴として登場するのだそうだ。

定住を好まず、馬を自在に駆り、移動を続ける。我が青春の暇つぶしの友、山川の世界史資料集にはモンゴル軍にとって、馬は移動手段であり兵器であり、水であり、食料であった...と書いてあった。馬上で眠り、喉が乾けば馬の首に傷をつけ血をすすり飲むような記述も教科書に書いてあり... 我々島国の定住民とは違う世界を生きる感覚に唖然としたことを覚えている。タルタルステーキも、筋張った筋肉質の馬肉を刻み、袋に入れ鞍の下に敷いて柔らかくすりつぶしたものが起源という説があるそうだ。それが欧州でタルタルとなり、ハンブルグあたりでは焼かれていわゆる"ハンバーグ"となり、朝鮮半島ではユッケとなったわけか(あくまで通説でしょうが)。日本列島は海があって、島国で本当に良かった。だがしかし、この肉料理の伝播は大幅に遅れた…。

中国西域、中央アジアには学生時代、2002年の3〜4月にほんの入り口までだがバックパッカーとして旅をしたことがある(敦煌とかも行ったな)。当時、中国政府によって外国人は立ち入り禁止だったチベットへ行こうと青海省ゴルムドという街で回族ブローカーに掛け合うと、ウイグル人の長距離トラック運転手たちの詰所のような小屋に連れて行かれ二日ほど放置された。ブローカーには日本円で一万円弱のお金を握らせたように覚えている。ウイグルの彼らがいくら分け前をもらったか解らないが、詰め所での二日間のダラダラした合宿ではクソ甘い緑茶を飲みながら歌とダンスのショーを見る民族ディスコみたいなとこに連れて行かれたり、沐浴場に行ったり、一匹の羊を分けあって食ったり、酒こそ飲めなかったもののとても楽しかった。「俺が払う」と言ったのに、結構色々奢ってもらってしまった。世界中どこ行ってもムスリムや遊牧民というのは旅人に大らかで親切な印象がある。これも独自の共同体生活の習慣だろうか。その後彼らの車の荷台に紛れ込みチベットへ密入国/域したのだった。当時俺は大学で中国語を第二外国語としていた(単位落としまくっていたが)ので会話はカタコトの北京語。チベットの首都、ラサまでの彼らとの旅、また、ラサからヒマラヤを超えてネパール国境へ抜ける旅は、一部のチベット族やモンゴル族を中心に、厳しい自然環境の中で「定住しない」人々の倫理や世界観を垣間見せてくれた。

まともなデジカメとかない時代で、フィルムの簡素なカメラだけ持って行ったので...まともな写真があんまりないのが残念。とりあえずラサまではこんな景色の中を延々と進んだなあ。ウンザリするほど。たまに大平原の中で地平線に向かって立ちションしてると、遠くにゴマ粒の様に見えた牧羊犬のチベタンマスチフが吠えながら猛スピードでこちらに向かってくるので慌ててズボンのチャック閉めて車に乗ったりしたな。

画像2

画像3

標高4000mを超える砂漠、ステップ。夜はマイナス30度以下。車内で寝ているうちに窓ガラスが氷り、沸かした(高地なので80度以下?でお湯が沸いてしまう)お湯でそれを溶かそうと煮えたぎる鍋の水をバシャー!と窓にかけたら、ほとんど「バシャー!」という形を残したままお湯が凍ってしまい、結局、下の写真のウイグル人ドライバーの二人とガリガリ氷を剥がす羽目になったり(途中で諦めて寝て、翌朝気温が上がってから剥がした。日中は20度以上まで気温が上がるのだ)。彼らとは一度大げんかもしたけれどヒーコラいいながらも楽しい旅だった。元気かなあ二人とも。民族名は複雑すぎて覚えてないが、中国国内での通名は姓を「紅(ホン)」と「軍(チェン)」と名乗っていた。「中国共産党に媚びまくってる名前だな...」と唖然としていたら、それを察したようで笑っていた。確か二人は従兄弟同士と言っていたと思う。二人の間では俺には理解できない民族の言葉(ウイグル語だろう)で会話していたがカーステのテープにはチベット語のポップスも入っていて熱唱していた。

画像4

俺は自分の暇つぶし用にNYのDJ Knapsackという人のmix tapeを持って行ってたのだけど、その中になぜか竹内まりやのPlastic Loveが入っていて...紅と軍が結構気に入ったようだったのでテープを交換したのだった(ちなみに他のアメリカのHip Hop系の曲への彼らの評価は最悪だったw)。俺のcity pop体験はウイグル人と共に、チベット高知の砂漠であった。アーバンさはゼロだな笑。まだ西蔵鉄道が建設中の頃で、道程、厳しい環境の中でオレンジ色のツナギを来た人達がドカタ仕事しているのを見て「アレは何?」とドライバーの紅&軍に聞くと「チベット(独立派)の政治犯が強制労働させられているんだ」と、腹立たしそうに答えていたのが忘れられない。その時のBGMが竹内まりやだったりしたことも...。

 割とダラダラ運転して二泊三日。ラサに着いたときは嬉しかった。紅&軍は別れ際に「ホシュ!」みたいなことを叫んでいた。「さよなら」の意味だと理解して真似して叫んだ。

下の写真はポタラ宮の裏手からラサ市街を臨む図だったと思う。誰に撮ってもらったのか覚えていない。二十歳だったな俺〜。当時のラサにも既に随分と華人がいて、北京語が通じた。中国沿岸部の大都市...(文字が繁体字だったから香港かな?)から運ばれたのだろう、深田恭子と浜崎あゆみのポスターが露店で売られていた。浜崎あゆみは「濱崎"め"ゆみ」となっていて平仮名だから良かったが、深田恭子(シェンティアンゴンズ)は俺がどれだけ主張しても彼女は日本人だと認めてもらえず悔しかった。「中国のアイドルだよ!」て。そんな名前の中国人民いるかよ。

画像5

ラサを後にしてから、ヒマラヤ超えてネパール国境までの道のりはこんな感じ... 最終的に標高6100m地点までは行ったな。ユニクロの服だけ着て... 

画像6

実は途中で検問地点みたいなところがいくつかあって、あるいはタシルンポ寺のような共産党政権寄りの大きなゲルク派寺院の出入り口付近で、人民解放軍?公安警察?に何度か捕まり取り調べを受けた。当時在学していた早稲田大学が明治期から多くの中国人(清朝)留学生を受け入れ、人材を育てていた関係で、中国ではすごく有名な学歴ブランドであるという噂を聞いていたので、とっさに学生証を出して

「俺は早稲田大学(ザォダォディエンダーシュエ)の留学生(リウシュエション)だ!正当な学術的調査でここにいる!不当な扱いをすると国際問題になる!」

みたいなことをカタコト北京語で大声で威張って言ってみたら、ほぼ毎回何とかなってしまい、なんだか母校に感謝したのだった。それでもダメな時は、日本円で千円弱のワイロを握らせれば万事OKであった。ユルくて怖い思い出だ。

下の写真はヒマラヤ山中。北京語で杭が打って会って標高6100mと。ラサで組んだ多国籍(日本人、韓国人、香港人、イギリス人、オランダ人、デンマーク人、カナダ人etc.密入国者は市内に結構いた)のヒマラヤ越えチームの同僚の一人が持っていたデジタル高度計も同様の数字を示していたので...多分本当に6000mくらいだったのだろう。自分があまりに軽装で自覚がなかったが。高山病的なものにはラサに入る手前で苦しんだ記憶があるが、この頃には寝起きなどに多少の不調はあれどだいぶ適応していた。移動手段はチームでTOYOTAのランドクルーザーをチャーター。MITSUBISHIのパジェロ、Jeepなんかもあったがランクルが最高位。最下位ランクは北京ジープ(BeiJingJeep/北京吉普汽車)。具体的な値段の差は覚えていないが、かなりの差があったと記憶している。まあ、車の故障はマジで死に直結するのでランクル以外を選ぶ外国人は皆無であった。極所に置ける日本車ブランドへの信頼が、日本人の端くれとしては多少誇らしかった。まあ、別に俺何にもしてないけど笑。

画像7

そういえばこの道中、先述のタシルンポ寺があるシガツェというチベット第二の都市("都市"ってほどでもなかったが)で会って、自宅でヤッシャ(ヤクの干し肉)とバター茶をご馳走してくれたおばあさん(チベット語で「パユル ラサ」..."出身はラサ"とか言っていたが)の歌を録音させてもらって、それに強引にトラックをあてたものが俺の主宰バンドの過去のアルバムにカワイイ?ボーナストラックとして入っています。なぜ上野の酔っ払いの声のサンプリングとぶつけたのか。

チベットやモンゴルは大乗仏教が主だが(これはインド/ネパールとの距離感だろう)、この旅ではウイグルとかキルギスとかウズベクとかカザフとか、トュルク系遊牧民がイスラム化したのも何となくわかる気がした。イスラームも畢竟、砂漠の遊牧民「定住しない人々」の共同体意識が生んだ信仰なので相性が良かった部分があるのではないかな。とか、そんなことも考えるようになったな。

ところで俺が好きな本に昭和の性豪作家、清水正二郎(胡桃沢耕史)「肉の砂漠」というのがあるんだが

画像8

子供時代から肉食に異常な執着を見せた筆者は、肉食生活に憧れ単身満州に渡り、さらに西域へ足を進め、様々な遊牧民、ロシア人に揉まれながら関東軍の諜報員のような活動まで... どこまで実話かはわからないが、昭和のあの戦争も、西域の定住しない人々の立場から見るとまた違う歴史に見える... そんな視点は与えてくれる痛快な物語。勢いで読めるのでオススメ。肉と女のゴルゴ13や!

しかしつくづく、政治も経済も歴史も、同じものを見ているようで、いろんな立場から、てんでバラバラの景色を我々は見ているのだろう。世の中がなかなかまとまらんわけだ。

俺はミュージシャンなので旅の多い人生を送っているけど...やっぱりいつも帰る家があることが安心に繋がっていて、つくづく定住人間だなあ...と思ったりするけど、広大な大陸に出てみれば日本人は世界的にはあくまでも島々の海洋民族的な立ち位置なのだろう(岐阜の山奥で育った俺でも)。たまにワッと反動的に外に出ちゃうタイミングとかあるのかもしれない(で、大陸に出ると大概大失敗する)。つい真面目に大陸の定住民的な史観で勉強をしちゃうからウッカリそれを忘れるけど。

...というわけで?次回は妻の母方のルーツ、千葉県房総半島に伝わる海洋、漁民メシ...魚のタルタルステーキ!的な料理について書いてみたいと思います。ではまた。

画像9

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?